第31話 小さな壁の証明
装置の光が、ひとつ強くなった。
細い音が、訓練場の奥から走る。床に刻まれた線の上を、淡い魔力の粒が集まっていく。記録板を持つ職員は羽根ペンを止め、隣の教員が装置確認具へ視線を落とした。
魔力弾は、最低速度でクラス1相当の出力だとあらかじめ聞いている。
まだ撃たれてもいない。危ないはずはない。そう分かっているのに、足の裏が床に貼りついたように重く、指先だけが先に冷えていった。
左肩から胸にかけて、そこにはもう傷などないはずなのに、鈍い衝撃の残りだけが戻ってくる。
装置の奥で、集まっていた光が一点に絞られた。
魔力弾は、放たれたあとも遅かった。見えている。まっすぐ来る。それなのに、キツキは右手を上げるまでに一拍遅れた。
それでも、手は上がった。
キツキは氷を広げようとせず、先に端を決めた。そこから内側へ冷気を張る。
手の前に、小さな壁が立った。
魔力弾が当たると、淡い光は氷の表面で潰れ、細かな粒になって散った。
衝撃は、来なかった。
キツキは、息を吐くことも忘れていた。
数呼吸遅れて氷壁が崩れ、その音でようやく、自分の右手がまだ前に出ていることに気づく。
ガルドはすぐには頷かず、記録板と装置確認具を見比べ、それからキツキを見る。
「動けることは確認した」
その言葉を聞いて、キツキの膝から力が抜けかけたが、なんとか踏みとどまり、右手を下ろす。吸った息は少し震えていた。
キツキの視線が訓練範囲の外へ流れた。
レニアはそこにいた。杖を握ったままこちらを見ている。
それを見た瞬間、キツキの胸の奥で、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
職員が記録板に短く書きつけ、別の教員が装置確認具の小さな針を指で示す。
「出力上昇、確認」
「速度、最低値のまま固定」
さらに別の教員が、停止用の札を指先に挟んだ。
ガルドはそれを見てから、キツキに視線を戻した。
「次はクラス2相当だ。ここからが本番だ。構えろ」
「……はい」
返事は出た。けれど、喉の奥にはさっき飲み込めなかった息が残っている。
キツキは右手を握り、開いた。指先の冷たさは消えていない。だが、さっきよりも床の感触は分かる。自分の足がまだここに立っていることも。
装置の光が、もう一段濃くなった。
さっきの淡い粒とは違う。集まる魔力の輪郭が、少しだけ太い。速度は同じでも、来るものの重さが違うと分かる。
レニアは、さっきと同じ場所にいた。
近づいてこない。声もかけない。
それでよかった。あの場所から見てくれているだけで、何よりも安心できた。
キツキは視線を正面へ戻した。装置の奥で、光が一点に絞られる。
魔力弾が放たれた。
今度は遅れなかった。
キツキは先に端を決めた。広げるのではなく、そこに立てる。冷気を内側へ張り、逃げかける魔力を薄い面の中に押し戻す。
氷壁が立った。
さっきより少し大きい。端は震え、表面には白い筋が走っている。それでも形が崩れる前に、魔力弾が当たった。
重い音が響く。
光が氷壁の表面で潰れ、ひびが一瞬だけ広がる。右手の奥がきしみ、キツキは歯を食いしばった。逃げようとする魔力を、もう一度、端へ戻す。
砕かせない。通さない。
氷壁は揺れたまま踏みとどまり、魔力弾の光はその前で散った。淡い粒が床に落ち、消えていく。
キツキの身体には、何も届かなかった。
届かせなかった。
氷壁はそのあと、役目を終えたように崩れた。細かな氷の欠片が、訓練場の床に落ちる。
ガルドは記録板へ目を向けたまま、すぐには何も言わなかった。
氷の欠片が床で小さく鳴る。
キツキは右手を下ろせなかった。指先はまだ冷えていて、手首の奥がじんと痛い。
息を吐くと、膝が揺れかけた。キツキは慌てて足に力を入れる。ただ立っているだけなのに、それだけで胸の奥が変に熱かった。
「通過記録は、ありません」
職員の声が、静かな訓練場に落ちた。
それ以上の説明は要らなかった。魔力弾は、キツキの手前で止まっていた。
別の教員が装置確認具を見て、記録板へ短く書きつける。ガルドはその報告を待ってから、ようやくキツキを見た。
「防御としては成立した」
短い言葉だった。
それでも、キツキの胸に落ちるには十分だった。
「ただし、正式な評価は後日だ。記録を確認してから伝える」
「……はい」
今度の返事は、さっきより少しだけ声になった。
訓練範囲の外で、レニアはキツキを見ていた。
表情は大きく変わらない。けれど、杖を握る手からは、さっきまでの力が少し抜けている。
床に散った氷の欠片を見て、もう一度キツキへ視線を戻した時、レニアの胸にも小さな熱が灯っていた。
彼は、怖がらなかったわけではない。
怖さを消したのではなく、抱えたまま手を上げた。砕かれた記憶の前で、もう一度壁を立てた。
そして今、その壁で結果を残した。
その熱は、まだ燃え上がるほどではない。けれど、消えるほど弱くもなかった。
レニアはその熱を逃がさないように、杖を握り直した。先端が、訓練場の床を小さく鳴らした。
キツキは、その音の意味までは知らない。
ただ、レニアがこちらを見ていることに気づいて、ほんの少しだけ口元を動かした。うまく笑えたかどうかは、自分でも分からなかった。
ガルドは記録板を持つ職員へ視線を移す。
「今日はここまでだ。キツキ、レニア。お前たちは戻れ」
レニアが一度だけガルドに目礼し、訓練範囲の外側を回って出口へ向かった。
キツキも、その後を追う。
背後では、教員たちがまだ装置の前に残っていた。記録板へ書きつける音と、確認具を置く小さな音が、閉まりかけた扉の向こうに残る。
廊下の空気は、訓練場の中より少しだけぬるかった。
扉を出たはずなのに、身体の奥にはまだ、さっきの重い音が残っている。足は動いている。けれど、自分が本当に訓練場の外に出たのだと分かるまで、少し時間がかかった。
先を歩いていたレニアが、角を曲がる手前で足を止めた。
「キツキ」
「はい」
返事が、思ったより大きく出た。
レニアは少しだけ振り向き、キツキの顔を見た。訓練範囲の外にいた時と同じように、近づきすぎない距離だった。
「手」
「……え?」
「見てみなさい」
言われて、キツキは自分の右手を見た。
震えていた。
動かしているつもりもないのに、指先が細かく揺れている。
「……あれ」
キツキは慌てて指を握った。けれど、震えはすぐには止まらなかった。
レニアはそれを見て、少しだけ考えるように間を置いた。それから、廊下の先へ視線を向ける。
「そういえば」
「ん?」
「あなた、前に食事に行きたがっていたわね」
キツキは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それから、思い出した。
初めて二人で訓練した日のあと、礼を言うつもりで夕飯に誘ったことがあった。どちらかというと、レニアと一緒に食事をしたかった気持ちの方が強かったが。
「あ、いや、あれは、その」
「今日くらいは、連れていってあげる」
「……え? ほんとに?」
「ええ」
短い返事だった。
キツキは、すぐには返事ができなかった。
手はまだ震えている。だがその理由は、さっきとは違う気がした。
「……それって、つまり」
レニアが、廊下の先へ向けていた視線を少しだけ戻した。
「何」
「ご褒美、みたいなやつですか」
レニアは目を瞬かせた。
少し遅れて意味が届いたように、ほんのわずかに視線を外す。
銀髪の奥で、耳にうっすらと赤みが差していたが、それはキツキからはほとんど見えない位置だった。
「嫌なら戻って勉強でもする?」
レニアはいつもの調子で言ったつもりだったが、その声は少しだけ大きかった。
キツキは、耳の赤みにも、声の違いにも気づかなかった。ただ、レニアと食事に行ける。そのことで頭がいっぱいだった。
「行きます」
答えは、ほとんど反射だった。
レニアは小さく息を吐いた。
呆れたようにも聞こえた。けれど、キツキがその表情を確かめるより先に、レニアは歩き出していた。
「行くわよ」
声だけはいつもの調子だったが、その足取りは少しだけ早い。
キツキは慌ててその後を追った。
さっきまで身体の奥に残っていた重さは、どこかへ行っていた。
代わりに、胸のあたりだけが妙に軽い。
キツキは自分の右手をもう一度握り、いつもよりうまく合わない歩幅で、その少し早い背中についていった。
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