第30話 評価の場
教官室へ向かう廊下は、いつもより長い気がした。
扉の前で足を止める。
逃げる理由は、もうなかった。
キツキは軽く息を吐いてから、扉を叩いた。
「1年Sクラス、キツキです」
少し間があった。
「入れ」
中から、低い声が返ってきた。
「失礼します」
キツキは扉を開ける。
教官室には、ガルドがいた。
机の上には何枚かの書類が広げられている。ガルドはその一枚に目を落としていたが、キツキが入ると顔を上げた。
「何だ」
「Sクラスの仮配属の件です」
言ってから、キツキは自分の声が少し硬いことに気づいた。
ガルドは書類から手を離す。
「それがどうした」
「正式な所属に進めないか、確認してもらいたいです」
ガルドの目が、少しだけ細くなった。
「理由は」
「先ほど、クラス2の魔法の使用に成功しました」
言った瞬間、教官室の空気が少しだけ重くなった気がした。
ガルドはすぐには答えなかった。
「何の魔法だ」
「小型氷壁です」
「それだけか」
「……はい。今のところは」
「回数は」
「まだ、2回だけです」
言ってから、キツキは少しだけ喉が乾いた。
2回だけ。
自分で口にすると、その少なさがはっきりする。
ガルドはしばらくキツキを見ていた。
「つまり、不安定なクラス2の魔法を2回出した。だから仮配属を外せ、と」
「そこまで簡単な話じゃないのは分かってます」
「分かっているなら、何を求めに来た」
「評価の場に乗せてほしいです」
ガルドは少し黙った。
それから、机の上の書類を一枚引き寄せる。
「小型氷壁をここで出したところで、評価には足りん」
「足りない?」
「魔法が形になったかどうかだけなら、それでもいい。だが、小型氷壁は防御を目的とした魔法だ」
ガルドは書類に目を落としたまま続ける。
「本当に見るべきなのは、飛んでくる魔力弾を前にして、壁として機能するかだ」
キツキは何も言えなかった。
魔力弾。
その言葉だけで、背中の奥が少し冷える。
「お前が望むなら、明日、評価の場を用意してやる」
「……本当ですか!」
「ああ」
ガルドは書類の端を指で押さえた。
「場所は、実践訓練場を使う」
キツキは顔を上げた。
「……あそこはまだ封鎖中なのでは?」
「その通りだ」
ガルドは淡々と答えた。
「ただ、あれから安全面の見直しは進んでいる。段階的に限定使用へ移す予定もあった」
「それを俺で試すんですか?」
「お前の実技を見ると同時に、装置側の記録も取る」
ガルドは書類の一部を指で押さえた。
「訓練場側の確認も兼ねる。ちょうどいいと言えば、ちょうどいい」
「つまり、実験台ってことですよね?」
「言い方を選べ。確認対象だ」
「同じように聞こえますけど」
「文句があるなら、この話はここで終わりだ」
キツキは口を閉じた。
相変わらずな人だ。選択肢はないようなものだ。
そう思ったが、口には出さなかった。
ここで逃げても、いつかは乗り越えないといけない。それなら早い方がいい。
「……やります」
ガルドは頷いた。
「明日、俺の立ち会いで実践訓練場を限定使用する」
「はい」
「そこで見た上で、正式な結果を出す。それまでは待て」
◇
翌日の放課後、実践訓練場に続く通路は、まだ封鎖されたままだった。
普段なら生徒の出入りがあるはずの場所に、人の気配は少ない。通路の途中には封鎖を示す札が掛けられ、その先の扉は固く閉ざされている。
キツキは、その前で足を止めた。
昨日までは、ここに近づく理由がなかった。
近づきたくない理由なら、いくらでもあった。
少し離れたところには、学院側の教員と管理担当らしい職員が数人いる。誰も大きな声は出さず、封鎖札の記録を確認する者、装置の確認具を手にしている者、記録板に日付を書き込んでいる者がいた。
通常の訓練ではない。それは、見れば分かった。
隣にはレニアがいる。
制服姿のまま、いつものように背筋を伸ばして立っていた。最初にキツキの小型氷壁を見た者として、ガルドが立ち会いを認めたらしい。
それだけの理由だと分かっていても、隣にいることだけで少し息がしやすかった。
少し前には、ガルドがいる。
ガルドは封鎖の札を確認し、扉の前で足を止めた。
「あくまで限定使用だ」
ガルドは振り返らずに言った。
「中に入ったら指示に従え。勝手に動くなよ」
「はい」
キツキは答えた。
声は、思ったより硬かった。
扉の向こうに何があるのかは知っている。
実践訓練場。
あの日、守れると思ったものが砕けた場所。
思い出そうとしたわけではない。
それでも、扉を前にすると、背中の奥が冷える。
「何をしているの」
扉の前で固まったキツキに、レニアが横から声をかけた。
レニアは扉ではなく、キツキを見ていた。
「早く進みなさいよ」
「いや、心の準備が」
「いいから進みなさい」
そう言って、レニアは持っていた杖の先で、キツキの背中を軽く突いた。
「ちょ、分かったってば!」
こんなときまで厳しいのかよ。
けれど、その厳しさがあまりにもレニアらしくて、少しだけおかしかった。
止まりかけていた息が、そこで少し戻る。
ガルドが封鎖の札を外した。重い音を立てて、実践訓練場の扉が開いていく。
キツキは一歩目を出す前に、ほんの少しだけ息を止める。
隣にはレニア、前にはガルドがいる。そして、背後には学院側の立会人たちがいた。
「入れ」
ガルドが言った。
キツキは息を吐いた。
「……はい」
そして、封鎖されていた実践訓練場へ足を踏み入れた。
中は、記憶より広く見えた。
実践訓練場の床には、薄い線で区切られた訓練範囲がいくつも並んでいる。壁際には、停止したままの訓練装置がいくつか置かれていた。
以前は、ただ授業で使う設備に見えていた。
今は違う。
あのとき自分に向かってきた魔力弾も、床に近づいていく感覚も、ここにあるものとつながっている。
キツキは、無意識に右手を握った。
「中央まで行け。今日は端の装置だけを動かす」
ガルドの声がした。
キツキは訓練範囲の中央へ向かう。
レニアはそこで足を止めた。
訓練範囲の外、教員たちと同じ側に立つ。さっきまで隣にいた距離が、そこで少し離れた。
キツキは一瞬だけ振り返りそうになって、やめた。
今は前を見る。
端の装置。
以前と同じ形に見える。円形の基部。前方へ向いた細い射出口。側面に刻まれた補助式。
ただ、今は装置の周囲に小さな測定具が取り付けられていた。壁際にいた職員の一人が、それを確認している。別の教員らしい人物が、記録板に何かを書きつけていた。
通常の授業ではない。
ここでは、途中で詰まった理由を一つずつ教えてもらえるわけではない。
見られるのは、その結果だ。
キツキは息を吐いた。
ガルドが装置の前で足を止める。
「今日見るのは2つだ」
低い声が、広い訓練場に落ちた。
「1つ。お前が魔力弾を前にして動けるか」
キツキの喉が、少しだけ詰まる。
「2つ。小型氷壁が、実際に防御として成立するか」
「……もし防げなかったら?」
「周りを見ろ」
ガルドは短く言った。
「ここにいる教員は飾りじゃない。何かあればすぐに止める」
キツキは周囲を見た。
ガルドだけではない。壁際にいる教員も、職員も、それぞれの位置で装置とキツキを見ている。
安心した、とは言い切れなかった。
けれど、完全に一人で放り込まれたわけではない。
「初期出力でいい。速度も最低で始める」
「分かりました」
職員が装置の側面に手を置くと、刻まれた補助式がゆっくりと淡く光り始めた。
低い音が、床の下から響く。
キツキの背中が、反射的に強ばった。
あの日も、こんな音がした。
自分はレニアの前に入り、三重障壁を出した。
けれど、魔力弾は止まらなかった。
砕ける音が、耳の奥で鳴った気がした。左肩から胸にかけて、あのときの衝撃が一瞬だけ戻る。
違う。今は、あのときと同じじゃない。
そう思おうとしても、身体の方が先に、ここを同じ場所だと決めていた。
「キツキ」
レニアが名前を呼んだ。
声は、訓練範囲の外から届いた。
キツキはそちらを見る。
レニアは装置ではなく、キツキを見ていた。
「今見るものを間違えないで」
短い言葉だった。
キツキは一度だけ目を閉じた。
装置の音も、周囲の視線も、背中の奥に戻ってきた冷たさも、消えたわけではない。
けれど、目を開けると、正面の訓練装置だけがさっきよりはっきり見えた。
射出口、床に引かれた訓練範囲の線、自分の右手。
今見るべきものが、ようやく前に出てくる。
キツキは右手を開いた。
指先に、冷気が集まり始める。
周囲の空気は冷えているはずなのに、胸の奥だけは少し温かかった。
「……やります」
ガルドが頷く。
「始めろ」
装置の光が、ひとつ強くなった。
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