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第29話 今見るもの

「……え?」


 間の抜けた声が、小演習室に落ちた。


 レニアは立ち上がったまま、特に気にした様子もなくキツキを見る。


「何を驚いているの」


「いや、見るって、ここで?」


「ここでやるとは言っていないわ」


「だよな」


「移動するわよ」


 レニアはそれだけ言うと、机の上の教本を整えた。キツキも慌てて鞄を持ち直す。


「どこに?」


「基礎鍛錬区画よ」


「……本当に今からやるのか」


「今やらない理由があるの?」


「心の準備とか」


「必要なら歩きながらしなさい」


「雑だな……」


 言い返しながらも、キツキは小演習室を出た。


 廊下には、放課後の人の流れがまだ残っていた。


 その中を、レニアとキツキが並んで歩く。


 目を引かないはずがなかった。


 レニアに集まる視線が、その隣にいるキツキのところで少し止まる。


 以前なら、ただ居心地が悪いだけだった。


 けれど今は、その視線が何をつなげて見ているのかを、少しだけ考えてしまう。


「何を気にしているの」


 前を向いたまま、レニアが言った。


「見られてるからな」


「さっき言ったばかりでしょう」


「……ああ」


 キツキは短く答えた。


 周りがどう見るかではなく、レニアがどう思うか。


 そこを勝手に決めるなと、言われたばかりだった。


「堂々と歩きなさい」


「はい」


「急に素直ね」


「今は逆らえないだろ」


 レニアはそれ以上何も言わず、前を向いたまま歩き続けた。


 基礎鍛錬区画に着くと、そこにはまだ何人かの生徒が残っていた。


 放課後の練習を続けている者。壁際で術式の確認をしている者。上級生らしい生徒もいる。


 完全に人がいないわけではないが、授業中ほど多くもなかった。


 キツキとレニアが入ると、何人かがこちらを見る。


 壁際で術式を確認していた生徒の手が止まり、短い詠唱を繰り返していた生徒が一拍だけ声を落とした。だが、すぐにそれぞれの練習へ戻る。


 レニアだけなら、よくあることなのだろう。


 だが、その隣にキツキがいるせいで、視線はそこで少しだけ止まった。


「ここを使うわ」


 レニアは区画の端にある空いた場所を示した。


「ここで?」


「他にどこでやるつもりだったの」


「いや、そりゃそうだけど」


 キツキは周囲を軽く見た。


 少し離れた場所には、まだ生徒がいる。声を出せば聞こえる距離だし、何か派手なことをすれば当然見られる。


 レニアはそれを分かっているはずだった。


「あえて見られる場所でやるのよ」


「……それも、さっきの続きか?」


「そうね」


 レニアは短く答えた。


「魔法の確認なら人がいない方がよくないか?」


「魔法だけを見たいならね」


 レニアは周囲を見ないまま言った。


「でも、あなたが気にしているのは、それだけではないでしょう」


 キツキは、少し遅れて意味を理解した。


 魔法をうまく使えるかどうか。


 恐怖や周囲の視線に押されず、レニアの隣で動けるかどうか。


 そこも、見られている。


「……荒療治だな」


「必要な確認よ」


「確認で済むのか、これ」


「済ませるわ」


 レニアは当然のように言った。


 逃げ道を、また一つ塞がれた気がしたが、不思議と嫌ではなかった。


 キツキは鞄を壁際に置き、右手を軽く開いた。


 レニアは、キツキの前には立たなかった。


 ただ、少し斜め横に立つ。


 庇うには前に出すぎていない。突き放すには、近すぎる距離だった。


 キツキはその位置を見て、逃げられないのではなく、逃がす気がないのだと思った。


「それで、何をやるんだ?」


「小型氷壁」


 レニアはすぐに答えた。


 キツキは手を開いたまま、少しだけ動きを止める。


「……それ、クラス2の魔法だろ?」


「そうよ」


 レニアは当然のように言った。


「今日は、クラス2をやるわ」


「クラス1の氷板もまだぼろぼろなのに?」


「だから、やるのよ」


「だからで済む話か?」


「済ませるわ」


 レニアは少しも揺れなかった。


「昨日、あなたは小さな氷板を何度か保てていたのでしょう」


「まあ、一応」


 答えてから、キツキは眉を寄せた。


「……なんでそこまで知ってるんだ?」


「小型氷壁は、氷を出すだけでは駄目よ」


 やっぱり流された。今回も答える気はなさそうだった。


 レニアは何事もなかったように続ける。


「氷板よりも広く、前に立てる形にする。ただし、大きくすることを優先しない。先に形を決めて、そこに魔力を通すの」


「それを今からやるのか」


「ええ」


「本気で?」


「本気よ」


 言い方に遠慮がない。


 けれど、レニアがそう言うなら、何か見えているのだろうとも思えた。


 レニアはキツキの右手を見ている。周囲の生徒たちの視線も、まだ完全には外れていない。


 見られている。


 そのことを意識した瞬間、指先が少し強ばった。


「まずは出しなさい」


「……分かった」


 キツキは息を吐いて、右手を前に出す。


 まずは、自分が今どこまでできるのかを見ろということなのだろう。レニアは何も補わない。余計な説明も足さずに、ただ、キツキの右手を見ている。


 小型氷壁。


 クラス2の魔法。


 言葉にすると、それだけで喉の奥が少し詰まる。


 キツキは指先に魔力を集めた。


 冷気が生まれ、薄い氷が広がりかける。


 だが、壁にしようとした瞬間、魔力が横へ逃げた。


 形になる前に、白い冷気がほどける。


「……失敗だ」


「ええ」


 レニアは短く答えた。


「今のは、広げることだけを考えていたわ」


「広げないと壁にならないだろ」


「広げれば壁になるわけではないわ」


 言い返せなかった。


 キツキは右手を下ろし、少しだけ考える。


「レニア」


「何?」


「一回、手本を見せてくれないか」


 レニアはわずかに目を細めた。


「見るだけでできるものではないわよ」


「分かってる。けど、完成形を見たい」


「……いいわ」


 レニアはキツキの隣から一歩前へ出た。


 右手を軽く上げる。


 詠唱はなかった。


 空気が、すっと冷える。


 次の瞬間、レニアの前に小さな氷壁が立った。


 大きくはない。


 キツキの胸元にも届かない程度の高さで、幅も腕を守るには足りるかどうかというくらいだった。


 けれど、形が崩れない。


 端は薄いのに、揺れない。


 表面には透明な層が重なり、光を受けて淡く白く見えた。


 キツキはそこで、懐からメガネを取り出した。


「今かけるの?」


「集中しやすくなるんだよ」


 キツキはメガネをかける。


 視界が変わった。


 レニアの前に立つ氷壁の中で、魔力が薄く折り返している。外へ広げるのではなく、先に端を決めて、そこから内側へ冷気を張っている。


 氷も、魔法の流れも、それを作っているレニアも、ひどく綺麗に見えて、一瞬だけ、言葉を忘れた。


「しっかり見た?」


 レニアの声で、ようやく意識が戻る。


「あ、ああ」


 キツキは小さく頷いた。


「たぶん、俺は最初から中を広げようとしてた」


「そうね」


「でも、先に端を決めるんだな」


「分かったなら、もう一度」


 レニアが言った。


「……分かった」


 キツキは右手を上げ直した。


 さっき見たレニアの氷壁の形を頭の中でなぞる。


 広げるのではなく、形を先に決める。それだけを意識して、指先に魔力を集めた。


 冷気が生まれ、薄い氷が前に立ちかける。


 さっきより、壁に近い。


 けれど、形が定まる前に端が白く割れた。


「あ」


 声が出たときには、氷は冷たい霧になって消えていた。


「……駄目か」


「さっきより近いわ」


 レニアはすぐに言った。


 慰めるような声ではなかった。


 ただ、見えたことをそのまま言っている。


「近いのか?」


「ええ。最初の失敗とは違う。今のは、壁にしようとしていた」


「でも割れた」


「固める方に寄りすぎたのよ」


 レニアはキツキの右手を見たまま言った。


「壁は、ただ固めればいいものではないわ」


「……難しいな」


「簡単なら、クラス2とは呼ばないでしょう」


「それもそうか」


 キツキは小さく息を吐いた。


 そのとき、周囲の気配が少しだけ戻ってきた。


 離れた場所にいた生徒の何人かが、こちらを見ている。露骨に近づいてくる者はいない。けれど、キツキが失敗したことも、レニアが横に立っていることも、見えているはずだった。


 喉の奥が、少し詰まる。


 失敗した。


 見られている場所で。


 レニアの前で。


「キツキ」


 レニアの声がした。


 キツキは顔を上げる。


「今、何を見ていたの」


「……周り」


「氷壁は?」


「……見てなかった」


「なら、次は見ることね」


 正論だった。


 言い返せないくらい、正論だった。


 レニアは周囲を気にしていないように見えた。いや、気づいていないわけではないのだろう。気づいた上で、周囲へ視線を向ける必要がないだけだ。


 キツキは息を吐いた。


 メガネの奥で、視界が少しだけ落ち着く。


 今見るべきものはなんだ。


 周囲の視線ではない。


 自分の右手。そこに作ろうとしている氷壁。


 それから、隣に立つレニア。


「もう一回」


 キツキは言った。


 レニアが、わずかに目を細める。


「ええ」


 短い返事だったが、それだけで失敗した場所から次へ進める気がした。


 キツキは右手を下ろした。


 レニアの氷壁はもう消えている。


 それでも、メガネ越しに見た形は、まだ頭の中に残っていた。


 先に端を決めてそこから内側へ張る。


 広げるのではなく、保つ。


 分かった気はする。


 けれど、分かっただけでは足りなかった。


 キツキはメガネを外した。


「外すの?」


 レニアが言った。


「ああ」


 キツキは短く答えて、外したメガネを懐にしまった。


「この方が、腹をくくれる気がする」


「そう」


 レニアはそれ以上、何も聞かなかった。


 たぶん、納得したわけではないが、止めもしなかった。


 失敗した感覚は指先にまだ残っている。そして周囲の視線、魔法への恐怖も。


 考えれば、また手が止まりそうだった。


 けれど、今はそれよりも、レニアがこちらを見ていることの方が大きかった。


 レニアは、できることを疑っていない目で、キツキの右手を見ている。


 なら、一度くらいは応えたかった。


 キツキは息を吐き、右手を上げる。


 冷気が指先に集まった。


 今度は、怖さを追い払おうとはしなかった。そこにあるまま、手を下ろさない。


 薄い氷が前に立つ。


 手のひらより広く、腕の前をふさぐくらいの小さな壁だった。端はまだ頼りなく、厚みもそろっていない。けれど、ほどけない。


 キツキは息を止めかけて、すぐに吐いた。


 氷壁が小さく揺れる。


 周囲のざわめきが、少し遠くなった。


 今見るのは、そこではない。


 右手の前にある氷壁と、隣で見ているレニア。


 もう少しだけ、保つ。


 そう思った瞬間、指先を流れる魔力が一段深くなった。


 揺れていた氷壁の表面が、かすかに締まる。


 大きくはない。


 強くもない。


 けれど、さっきまでの氷板とは違っていた。


 それは数呼吸だけ、確かに壁としてそこにあった。


 やがて端から白くほどけ、空気に溶けるように消えていく。


「……できた」


 キツキは小さく言った。


 自分でも、半分は信じられなかった。


 レニアはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、逆に怖くなる。


「今の、駄目だったか?」


「いいえ」


 レニアは、氷壁が消えたあとの空間を見ていた。


「今のは、ちゃんとクラス2よ」


 少し離れた場所で、誰かの詠唱が止まった。


 上級生らしい生徒はすぐに自分の練習へ戻ったが、近くにいた下級生らしい数人は、まだこちらを見ていた。


 レニアがクラス2と判断した。そのことの意味は、少なくともその場にいた何人かには伝わったらしい。


 キツキは右手を下ろしたまま固まった。


「……本当に?」


「ええ。ただし、安定はしていないわ。制御も粗い。もう一度同じように出せる保証もない」


「そこまで言うか?」


「事実よ」


「便利な言葉だな、それ」


「あなたも使うといいわ」


 いつものように返したつもりだったが、自分の声が少し浮いているのは分かった。


 嬉しいのか、怖いのか、よく分からない。


 クラス2に届いた。


 その実感はある。


 だが、どうして今できたのかは分からなかった。


 怖さが消えたわけではない。


 ただ、レニアはできると見ていた。


 それに応えたいと思ったことだけは、はっきりしていた。


「もう一度」


 レニアが言った。


「え?」


「もう一度、出しなさい」


「今ので終わりじゃないのか?」


「偶然で終わらせたいの?」


 キツキは返事に詰まった。


 それを言われると、何も返せない。


 キツキはもう一度、右手を上げた。


 さっきの感覚を、完全には覚えていない。


 それでも、指先に残った冷たさを頼りに、魔力を通す。


 冷気が集まって薄い氷が立つ。


 今度の氷壁は、さっきより小さかった。端も歪んでいて、長くは保たない。それでも、確かに壁の形をしていた。


 数呼吸。


 それだけ残って、白くほどける。


 キツキは息を吐いた。


「……今のは?」


「さっきより悪いわ」


「だよな」


「ええ。それでも、形にはなったわ」


 レニアは短く言った。


「一度だけではない。それで十分よ」


「十分?」


「話を通すには、という意味よ」


 レニアは、消えた氷壁のあった場所を一度だけ見た。


 それから、キツキを見る。


「あなたは、仮配属を外したいのでしょう」


「ああ」


「なら、今すぐガルド教官に話を通しなさい」


 キツキは固まった。


「……今すぐ?」


「ええ。今すぐよ」


 レニアは当然のように言った。


「時間を置けば、また考えすぎるでしょう」


「そこまで読まれてるのかよ」


「読める顔をしているのが悪いわ」


「俺の顔、便利に使われすぎだろ」


「表に出しすぎなのよ」


 キツキは何か言い返そうとして、やめた。


 言い返している場合ではない気がした。


 不安定で、偶然に近く、すぐに消えてしまうような氷壁だったが、クラス2には届いていた。


 仮配属を外したい。


 レニアのそばにいるなら、今のままでは駄目だ。


 そう思っていたのは、自分だった。


 なら、今動くしかない。


「……分かった」


 キツキは小さく頷いた。


「行くよ」


「返事が小さいわ」


「行きます!」


「ふん、最初からそうしなさい」


 レニアはそう言って、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 キツキは壁際に置いた鞄を取りに行きながら、もう一度だけ右手を見た。


 指先には、まだ少しだけ冷たさが残っている。


 けれど、胸の奥に残っているものは、それとは違った。


 振り返ると、レニアと目が合った。


 キツキが少し笑うと、レニアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


 今日のレニアの厳しさは、キツキを遠ざけるためのものではなく、勝手に距離を取ろうとした自分を、前へ押すためのものだった。


 レニアがいなければ、クラス2に届くのは、きっともっと先だった。


 キツキは鞄の紐を握り直す。


「……行くか」


 小さく呟くと、まだ消えきらない温かさが、胸の奥に残っていた。

ここまで読んでくださってありがとうございます!


基本、毎日2話更新です!


続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、

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