第28話 私が決めること
ブロムに魔法を見てもらったあとも、キツキはすぐに何かが変わったわけではなかった。
小さな氷板は、前より少し長く残るようになったが、安定しているとはまだ言えない。
それでも、自分がどこで止まり、何を知らないのかは少しずつ見えるようになっていた。
空いた時間は、できるだけノートに使った。術式の形、魔力計算、授業で出てきた用語、世界の歴史やダンジョンの基礎。それから、掲示板で控えた研究会や演習室の案内。
書けば書くほど、分からないことは増えていく。
それでも、何も見えていなかった頃よりは、少しだけ息がしやすかった。
翌日の休み時間も、キツキはメガネをかけたままノートを開いていた。
ページには、昨日より細かい文字が増えている。術式の入口。魔力の分かれ方。安定する場所。授業で聞き流しかけた用語。
書いた本人にも、すべてが整理できているわけではない。
ただ、何も書かずに頭の中だけで考えているよりは、少しだけましだった。
「キツキ」
横から声がした。
顔を上げると、エリルが机に頬杖をついてこちらを見ていた。
「今日、ずっと難しい顔してるね」
「そうか?」
「うん。昨日よりさらに」
「昨日もしてたのか」
「してたよ」
エリルは楽しそうに笑った。
少し離れた席にいたキュルも、こちらを見ている。
「してた」
「キュルまで言うのか」
「してた」
「通常運転だな……」
キツキはメガネの位置を直して、ノートへ視線を戻した。
難しい顔をしていた自覚はある。
メガネを使えば、目の前にある文字や術式の意味は拾える。知らない単語も、ある程度なら分かる。
けれど、それだけだった。
どの知識がどこにつながるのか。授業で聞いた言葉がどこに関わるのか。そこまでは勝手に並んではくれない。
今はまだ、点を拾っているだけだ。
それを線にするには、自分で覚えて、考えるしかなかった。
「放課後、レニア姫と会うんでしょ」
エリルが言った。
キツキは思わず手が止まった。
「……なんで知ってるんだよ」
「顔」
「さすがに顔でそこまでは分からないだろ」
「さあ、どうだろうね」
エリルは楽しそうに笑った。
キツキは少しだけ口を閉じる。
情報の出どころが気になったが、聞いたところで答えてくれるとは思えなかった。
「今日は特に分かりやすいよ。ちょっと浮ついてる」
「浮ついてない」
「浮ついてる」
キュルが短く言った。
「だから、キュルまで言うなって」
キツキは、少しだけ視線を落とした。
放課後、時間はある。
昨日、そう聞いてきたレニアの声が、まだ耳に残っている。
何かあったのかと聞いても、レニアは何もないと言った。けれど、あの顔が何でもないようには見えなかった。
心配だった。
それは本当だ。
ただ、それとは別に、レニアに呼ばれたことが少し嬉しかった。
「やっぱり浮ついてるね」
「見なくていいところまで見るなよ……」
「見えちゃうんだから仕方ないよ」
エリルは軽く手を振り、そのまま次の授業の準備に戻った。
休み時間が終わるまで、キツキはもう一度ノートを見直した。
けれど、最後に書き足した文字は少しだけ歪んでいた。
◇
放課後になると、教室のざわめきが一気に動き出した。
今日は最後が選択授業だったため、レニアの姿は教室にない。課題を抱えて残る生徒。鍛錬へ向かう生徒。研究会の話をしながら廊下へ出ていく生徒。
その流れに紛れるように、キツキは鞄にノートをしまった。
できれば、あいつらに何か言われる前に出ていきたかった。
「行ってらっしゃい」
エリルは、待ってましたとばかりに楽しそうに言った。
キツキは動きを止めた。
「……」
どうやら、失敗したらしい。
何か言い返したら、たぶん余計に面倒になる。
エリルは笑っているだけだった。
その横で、キュルが近づいてくる。
何を言うのかと思ったら、キュルは黙ったまま、キツキの背中を軽く叩いた。
「……え」
キュルはそのまま、少しだけ胸を張った。
行ってこい、とでも言いたげな顔だった。
激励、なのだろうか。
たぶん、そうなのだろう。
キツキは変に背筋を伸ばした。
「……行ってきます」
なぜか敬語になった。
エリルが楽しそうに目を細める。
キツキはそれ以上何も言わず、教室を出た。
小演習室へ向かう廊下は、いつもより少し長く感じた。
呼ばれた理由は分からない。勉強の確認かもしれない。昨日のことを、何か言われるのかもしれない。
考えるほど、足取りが少し硬くなる。
それでも、引き返す気にはならなかった。
レニアに呼ばれた。
ただそれだけで、落ち着かない自分がいる。
小演習室の前で、キツキは一度だけ鞄の紐を握り直した。
「レニア。来たぞ」
そう声をかけてから、扉を開ける。
部屋の中には、窓際の席に座り、外を見ているレニアがいた。
キツキは、一瞬、声をかけるのを忘れていた。
放課後の光を受けた銀色の髪が、窓から入る風に合わせて静かに揺れている姿は、物語の挿絵から切り取られた一場面が、そのまま目の前に現れたみたいに綺麗だった。
ぼんやり見てしまっていたことに気づいて、少し遅れて口を開いた。
「……いたのか」
言ってから、自分でも何を言っているのか分からなくなった。
ここに呼んだのは、レニアなのだから。
レニアはそこでようやくこちらを向いた。
少しだけ、目を瞬かせる。
「時間通りね」
「遅れたらどうなるかわからないからな」
「殊勝な心がけね」
いつもの返事だった。
けれど、いつもと同じようには聞こえなかった。
小演習室に、レニアと2人きり。
それに気づいて、キツキは少しだけ背筋を伸ばした。
「座りなさい」
レニアは机の方を指した。
「ああ」
キツキは言われるまま、席に座る。
小演習室の机は、前に来たときと同じように整えられていた。けれど、エリルもキュルもいないせいか、少し広く見える。
レニアは向かいではなく、キツキの隣に腰を下ろした。
それだけで、キツキは少しだけ肩に力が入る。
「昨日から何をしていたの」
「何って……勉強とか、基礎練習とか」
「具体的に」
「……ノート、見た方が早いかもな」
「出しなさい」
「はいはい」
キツキは鞄からノートを取り出した。
出してから、少し迷う。
自分で書いたものなのに、いざ見せるとなると妙に落ち着かない。間違っているところも多いだろうし、書き方もきれいではない。
だが、ここで隠しても仕方がない。
「これだよ」
キツキがノートを差し出すと、レニアは黙って受け取った。
ページをめくる音が、小さく響く。
レニアの視線が、キツキの書いた文字を追っていく。
横顔まで見てしまうと余計に落ち着かなくなりそうで、キツキはノートの端へ視線を落とした。
「……前よりは、見やすくなっているわね」
レニアが言った。
「本当か?」
「ええ。少なくとも、ただ書き写しているだけではないのは分かるわ」
「それは、レニアとエリルに言われたからな」
「言われただけで直るなら、苦労はしないわ」
「褒めてるのか?」
「事実を言っているの」
「ありがとな」
「褒めてはいないわ」
礼を言ったところで判定は変わらないらしい。
レニアはそう言って、次のページをめくった。
「ここ」
レニアの指が、ノートの一行で止まった。そこには、授業で聞いた用語を並べた箇所がある。
「この用語、前後の説明と少しずれているわ」
「ずれてる?」
「意味そのものは間違っていないわ。でも、この授業で使われた意味とは少し違う」
「……やっぱそうか」
キツキは思わず呟いた。
「単語だけなら分かる。でも、どう使われてるのかまでは、まだつながらなくて」
「だから、確認が必要なのよ」
「だな」
キツキは素直に頷いた。
レニアは少しだけ目を細める。
「今日はずいぶん素直ね」
「逆らえるところがない」
「……それはそれでつまらないわね」
「素直でも駄目なのかよ」
いつものように返したつもりだったが、思ったより声が硬くなった。
レニアはそれに気づいたのか、気づいていないのか、ノートを閉じずに次のページへ進む。
そして、ふと手を止めた。
「……最近」
レニアは、ノートを見たまま言った。
「私に確認しにくることが減ったわね」
キツキは、すぐには返事ができなかった。
責められている、というほど強い声ではなかった。
けれど、ただの確認でもない。
レニアの指は、ノートの上で止まったままだった。
「……そうか?」
「そうよ」
短い返事だった。
「授業の用語も、術式の見方も、魔力計算も。前なら、分からないところがあればすぐに聞いてきたでしょう」
「それは……まあ」
キツキは言いよどんだ。
「今は、先に自分で調べてる。それは悪いことじゃないだろ?」
「悪いとは言っていないわ」
レニアはノートから顔を上げない。
「ただ、減ったと言っているの」
キツキは膝の上で手を握った。
たしかに、最近はレニアにすぐ聞きに行かないようにしていた。分からないことがあっても、まずノートに書く。授業で聞いた内容を見返す。メガネで拾えるところは拾う。
それで駄目なら、誰かに聞く。
レニアに聞かないと決めていたわけではない。
けれど、最初から頼らないようにはしていた。
「……意識していたの?」
「何を?」
「私に確認する前に、自分で調べること」
レニアはノートから顔を上げないまま言った。
キツキは、すぐには答えられなかった。
意識していなかった、と言えば嘘になる。
「……少しは」
「なぜ?」
「その方がいいと思ったんだよ」
「誰にとって?」
キツキは言葉に詰まった。
そこを聞かれるとは思っていなかった。
「俺が、何も知らないままレニアに頼ってばっかりだと、また同じことになる気がした」
「同じこと?」
「俺が何か言われて、そのたびにレニアに庇ってもらうこと」
言ってから、キツキは少しだけ視線を落とした。
「それだと、結局、俺が変わってない気がしたんだ」
レニアの指が、ノートの上で止まる。
「あなたに、そうしてほしいと言った?」
キツキは、すぐには答えられなかった。
言われてはいない。
距離を取れとも、確認しに来るなとも言われていない。むしろ、これまで何度も教えてもらっていた。
勝手に決めたのは、自分の方だった。
「……言われてない」
キツキは小さく答えた。
「でも、レニアが困るかもしれないって思った」
「私が?」
レニアはそこで、ようやく顔を上げた。
「それを、なぜ私に聞かなかったの」
キツキは何も返せなかった。
それは、たぶん一番簡単なことだった。
自分がそばにいていいのか。
そう思うなら、レニアに聞けばよかった。
それなのに、自分は勝手にレニアの気持ちを分かったつもりで動いていた。
「……ごめん」
キツキは言った。
謝るしかなかった。
レニアは少しだけ目を伏せる。
「謝罪がほしいわけではないわ」
「でも、ここは謝るところだろ」
「そうね」
「そこは否定しないのか」
「必要な謝罪なら、受け取るわ」
「受け取り方が大物だな」
「王族よ」
「そうでした」
いつものように返したつもりだったが、声は少しだけ遅れた。レニアも、それ以上は続けなかった。
閉じたノートの上に、細い指を置いたまま黙っている。
小演習室の外から、遠くの足音が聞こえた。
それが通り過ぎていくまで、2人とも何も言わなかった。
「キツキ」
「はい」
「自分で調べることは、悪くないわ」
レニアは言った。
言葉を選んでいるように、少し間があった。
「でも、私のことまで勝手に決めつけないで」
キツキは顔を上げた。
レニアは、すぐに視線をノートへ戻す。
「私が困るかどうかは、私が決めることよ」
「……分かった」
「返事が小さいわ」
「分かりました!」
「よろしい」
レニアはそこで、ようやくノートをキツキへ返した。
キツキはそれを受け取る。ノートの端に残っていたレニアの指が近くて、それだけで妙に意識してしまう。
いや、今はそこじゃない。
まだ謝り足りないような気がするが、これ以上何を言えばいいのか分からない。
キツキはごまかすようにノートを鞄へしまった。
「……それで、今日の用件って、これだったのか?」
「いいえ」
レニアは立ち上がった。
椅子が小さく音を立てる。
キツキもつられて顔を上げた。
「昨日、基礎魔法の練習もしていたらしいわね」
「ああ。まあ、少しだけ」
キツキはそこで、少しだけ首を傾げた。
「……なんで知ってるんだ?」
「なら、次はそこね」
流された。
答える気はなさそうだった。
「そこ?」
「基礎魔法よ」
レニアは、何でもないことのように続けた。
「今日は私が見てあげてもいいわ」
キツキは一瞬、その意味を理解できなかった。
「……え?」
間の抜けた声が、小演習室に落ちた。




