第27話 少し違う言葉
鍛錬を終えて自室に戻り、部屋着に着替えを済ませたころには、軽食の用意はすでに整っていた。
銀色の長い髪を背中に優しく流したレニアは、淡いブルーグレーの滑らかな薄いネグリジェを纏っていた。
その生地は白い肌に優しく寄り添うように沿い、胸元は優雅に開いて、鎖骨の下あたりまでを柔らかく見せている。白いレースで縁取られた胸元からは、繊細な鎖骨のラインが、銀髪の合間から静かに覗いていた。
その姿は、優雅で洗練された印象を与えながらも、銀色の長い髪、白い肌、赤く輝く瞳を美しく調和させ、まるで高貴な夜の妖精のような雰囲気を纏わせていた。
部屋の支度もまた、その静かな華やかさに合わせるように整えられていた。
窓際の小卓には、鍛錬後の身体に負担にならない程度の軽食が置かれている。
薄く切ったりんごと、半分に割られたいちご。小さな器には、マカデミアナッツの氷菓が盛られている。
仕上げに塩をほんの少しと、トリュフオイルを数滴。
甘さと香りが少しだけずれる、その食べ方をレニアは好んでいた。
レニアは椅子に腰を下ろし、フォークを取った。
いつもなら、最初の一口で少しだけ気分がほどける。
けれど今日は、氷菓の冷たさも、果物の甘さも、どこか遠かった。
鍛錬に集中できなかった。
動きが乱れたわけではない。術式を失敗したわけでもない。けれど、何度か、意識が別のところへ逸れた。
かつん、と小さな音がした。
フォークの先が、いちごを抜けて皿に触れていた。
「お疲れのご様子です。紅茶を淹れ直しましょうか」
控えていた侍女が、静かに尋ねる。
レニアは一拍遅れて、皿の上を見た。
崩れたいちごの赤が、白い氷菓の端ににじんでいる。
「このままでいいわ」
レニアはフォークを引いて言った。
「かしこまりました」
侍女はそれ以上、何も尋ねなかった。
ただ、湯気の立つ紅茶のそばに、替えのナプキンを一枚そっと置く。その動きは静かで、必要なものだけを残していく。
もう一度、氷菓にフォークを入れる。
今度は、先ほどより丁寧に。
小さくすくった氷菓を口に運ぶ。マカデミアナッツの香ばしさと、塩の鋭さ。それから、トリュフオイルの香りが遅れて広がる。
味は分かる。
分かるのに、気持ちがそこへ向かわない。
器の縁に、フォークを置いた。
基礎鍛錬区画で見た、キツキの右手を思い出す。
小さな氷板。
頼りなく揺れて、今にもほどけそうで、それでも消えなかった。
その正面にいたのは、ブロムだった。
レニアは紅茶に手を伸ばした。
けれど、指先が取っ手に触れる前に止まる。
何かが引っかかっている。
それが何なのかまでは、まだ分からなかった。
レニアは紅茶の取っ手から指を離し、もう一度フォークを取った。
氷菓は、少し溶け始めていた。
白い表面に、いちごの赤が薄く混じっている。
レニアはそれを見つめたまま、結局、次の一口を運ばなかった。
◇
翌日の休み時間、教室はいつものようにざわついていた。
課題の話をする生徒。次の授業の準備をする生徒。廊下へ出ていく生徒。
その中で、キツキは自分の席に座ったまま、ノートを開いていた。
眼鏡をかけ、昨日書き込んだらしい文字を追っている。ときどき手を止め、余白に短く何かを書き足していた。
一度だけ、顔を上げかける。
けれど、こちらを見る前に、キツキはまたノートへ視線を落とした。
レニアは、少し離れた席からそれを見ていた。
別に、こちらに来る必要があるわけではない。
授業の合間なのだから、自分の勉強をしていてもおかしくはない。仮配属を外すために必要なことをしているのなら、むしろ正しい。
正しいはずだった。
けれど、キツキは顔を上げなかった。
いつもなら、彼は何か分からないことがあれば、少し困った顔でこちらを見る。あるいは、エリルにからかわれて、こちらへ助けを求めるような視線を向ける。
今日は、それがなかった。
レニアは机の上に置いた指先を、ほんの少しだけ動かした。
こちらから声をかける理由はない。
そう思って、視線をノートへ戻す。
けれど、文字はすぐには頭に入ってこなかった。
◇
放課後になっても、その引っかかりは消えなかった。
授業が終わり、生徒たちがそれぞれの行き先へ散っていく。教室の中に残る声も、廊下へ流れていく足音も、いつもと変わらない。
レニアも、いつも通りに席を立った。
ノートを閉じ、筆記具をそろえる。乱れはない。手順も、速度も、いつも通りだった。
ただ、視線だけが一度、教室の端へ向かう。
キツキは鞄にノートをしまっていた。
誰かと話しているわけではない。急いでいる様子もない。けれど、こちらへ来る気配もなかった。
レニアは、すぐに視線を戻した。
来る必要があるわけではない。
そう思っても、足取りは少しだけ遅れた。
教室を出ると、中央棟へ続く廊下には放課後のざわめきが広がっていた。
レニアは歩きながら、ほんの少しだけ息を整える。
その先で、見覚えのある男子生徒が足を止めた。
深い栗色の髪を整えた、3年生。セドリック・ヴァルグランだった。
「ごきげんよう、殿下」
胸に手を当て、セドリックは丁寧に頭を下げた。
レニアの足が止まる。
「……何か御用でしょうか」
「いえ。用というほどのことではありません」
セドリックは柔らかく微笑んだ。
「最近は、殿下の周囲も少し落ち着かれたようで、何よりです」
セドリックの声は穏やかだった。
ただの挨拶の続きのように聞こえる。廊下で交わす言葉としては、何もおかしくない。
けれど、セドリックの視線はレニアの赤い瞳から、銀髪のかかる襟元へ、それから制服の線へと滑った。
礼を失するほど長くはない。
ただ、その目にはどこか執着めいた熱が宿っていた。
レニアは表情を変えなかった。
その手の視線を向けられるのは、初めてではない。
礼儀や敬意の形をしていても、目だけが勝手にこちらを飾り物のように扱う。そういう視線を、レニアはこれまでにも何度も受けてきた。
セドリックのそれも、よく似ていた。
「落ち着いた、とは?」
「いえ。以前は少々、殿下のお立場にそぐわない距離の近さがございましたので」
セドリックは穏やかに言った。
「それが改められたのであれば、良いことだと」
立場にそぐわない。
その言葉に、レニアの胸の奥で、別のものが小さく動いた。
「私の距離を、先輩が測るのですか」
セドリックの微笑みが、わずかに止まった。
「そういう意味ではございません。ただ、殿下はフォルテア王国の王族であられます。誰と親しくされるかは、殿下ご自身だけの問題では――」
「その話はもう結構です」
レニアは静かに遮った。
声を荒げる必要はなかった。
それ以上聞いても、出てくる言葉は変わらない。立場。噂。周囲の目。王族としてあるべき距離。
どれも、丁寧な言葉の形をしている。
けれど、レニアにはもう、それ以上聞く意味のある言葉には思えなかった。
「私は行きます」
「……失礼いたします、殿下」
セドリックは頭を下げ、道を空けた。
最後まで、呼び方は変わらなかった。
レニアは何も返さず、その横を通り過ぎる。
セドリックはすぐには顔を上げなかった。
やがて礼を解いたあとも、何かを言うわけではない。ただ、通り過ぎたレニアの背を、ほんの短い間だけ見ていた。
それは、追いかけるほどの視線ではない。
けれど、道を譲っただけの相手に向けるには、少しだけ長かった。
廊下のざわめきが、少しずつ戻っていく。
レニアは、その中を一人で歩いた。
立場。噂。周囲の目。王族としてあるべき距離。
セドリックの言葉は、どれも聞き慣れた形をしていた。だからこそ、すぐに振り払えるはずだった。
けれど、ひとつだけ残っている。
落ち着いた。
セドリックは、そう言った。
キツキがこちらへ来なくなったように見えることを、あの人は落ち着いたと呼んだ。
それが嫌だったのだと、レニアはそこでようやく分かった。
なぜ嫌なのかまでは、まだ分からない。
けれど、嫌だった。
レニアは答えを持たないまま、廊下を曲がった。
その先に、見慣れた黒髪があった。
キツキだった。
廊下の端で、鞄の紐を肩にかけ直している。隣に誰かがいるわけではない。手元のノートを確かめるように見てから、どこかへ向かおうとしていた。
レニアは、足を止めなかった。
「キツキ」
名前を呼ぶと、キツキが顔を上げた。
「あ、レニア」
少し驚いたような顔だった。
けれど、すぐにその目がレニアの顔で止まる。何かを言いかけるように、キツキの眉が少しだけ寄った。
「何かあったのか?」
「何もないわ」
レニアはすぐに答えた。
何もない。
そう答えたあとで、胸の奥に残っていたものが、まだ何も消えていないことに気づく。
けれど、それをここで言うつもりはなかった。
キツキは少し迷ったようにレニアを見る。
「そっか」
「ええ」
短いやり取りで終わるはずだった。
キツキは頷き、また鞄の紐を握り直す。どこかへ行くつもりなのだろう。
そのまま、また離れていく。
そう思った瞬間、レニアは口を開いていた。
「明日の放課後、時間はある?」
キツキの動きが止まった。
「明日?」
「ええ」
「放課後に?」
「そうよ」
キツキは一瞬、返事に詰まった。
何かを考えたように見えた。けれど、すぐに視線を逸らし、少しだけ咳払いをする。
「……ある。たぶん、大丈夫」
「たぶん?」
「いや、あるよ。大丈夫」
言い直すのが少し早かった。
レニアはそれを見て、ほんの少しだけ眉を動かす。
「じゃあ、明日の放課後。小演習室に来なさい」
「小演習室?」
「そうよ」
「ああ……分かった」
キツキは頷いた。
その声には、どこか拍子抜けしたような響きが混じっていた。
レニアには、その理由までは分からなかった。
「遅れたら承知しないわよ」
「分かってる」
「本当かしら」
「そこまで信用ないのかよ」
いつものような返事だった。
それを聞いて、胸の奥に残っていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
何が変わったのかを考える前に、レニアはそれ以上何も言わず、踵を返した。
長い銀髪が、遅れてふわりと弧を描く。
廊下に差し込む光を受けて、その一筋一筋が淡くほどけるように揺れた。
背後で、キツキがまだこちらを見ている気配がした。
聞きたかったこととは、少し違う言葉だった。
けれど、今はそれで足りることにした。
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