第26話 もう一回
第26話 もう一回
キツキとキュルが戻ると、エリルは中央棟の廊下にいた。
窓際の壁に背を預け、手元の小さな紙片に何かを書きつけている。紙の端には日付と短い名前がいくつか並んでいた。
何の名前かは分からなかったが、今聞いてもたぶん答えは返ってこない。
「あ、おかえり。どうだった?」
「見てきた」
キツキは、掲示板で分かったことだけを短く話した。
掲示を見るだけでも、周囲から意味を持たされること。仮配属のままレニアのそばにいる自分の行動は、レニアとも結びつけられること。
エリルは聞きながら、紙片の端に小さく印をつけた。
聞いていないわけではないらしい。キツキが言葉を切ると、エリルはすぐ顔を上げた。
「じゃあ、短期目標は決まったね」
「短期目標?」
「仮配属を外すってこと」
言葉にされると、思っていたよりはっきりした。
キツキは小さく頷く。
「……うん。まずは、そこだと思う」
「なら、分けて考えた方がいいよ」
「分ける?」
「知識と実技。術式の理解や魔力計算なら、レニア姫が向いてる。私は、情報の見方なら少し手伝える」
「少しなのか」
「無料分だからね」
エリルは悪びれずに笑う。
「でも、実際に使う方は別。今のキツキがどれくらい魔法を扱えるのかは、動かしてみないと分からないでしょ」
実際に使う方。
その言葉で、キツキの手が少し止まった。
魔法に対する恐怖は、まだ残っている。
「……魔法を出す方か」
「うん。別解のときみたいに考える力があるのは見せた。じゃあ次に見られるのは、たぶんそこ」
エリルはそこまで言うと、隣のキュルを見た。
「じゃ、私たちはこっち」
「こっち?」
「別件。キュル、行くよ」
「うん」
キュルはエリルの方へ歩きかけて、一度だけキツキを見た。
「じゃあね。キツキ」
キツキは少しだけ返事に遅れた。
「ああ……またな」
それを聞いてから、キュルはエリルの後ろについていった。
廊下に、キツキだけが残る。
――低い出力でも、安定して使えるかどうか、か。
「……行くか」
キツキは鞄の紐を握り直し、基礎鍛錬区画へ向かった。
◇
基礎鍛錬区画には、まだ何人かの生徒が残っていた。
放課後の中央棟とは違い、ここにいる生徒たちはあまり話さない。決められた範囲で魔力を流す者。短い詠唱を繰り返す者。教師がいない場所でも、慣れた様子で基礎練習を続けている。
キツキは入口の近くで足を止めた。
思っていたより静かで、聞こえるのは靴音や息遣い、たまに小さく弾ける魔力の音くらいだった。
レニアの前で小さな氷板を作ってから、キツキも何もしていなかったわけではない。
一人で、短い練習は続けていた。単層の障壁を出す。小さな氷を作る。魔力を少しだけ流して、すぐ止める。
怖さはまだ残っている。それでも、回数を重ねるうちに、前よりは崩れにくくなり、出すだけなら何度かできた。
だから、外から見てどう見えるのかを確かめに来た。
その相手になりそうなブロムは、区画の奥にいた。
彼は、木剣を片手に素振りをしている。
ただ振っているだけではない。踏み込み、止まり、構え直す。そのたびに、木剣の縁に薄い光が乗った。
光はすぐに消える。
けれど、一つ一つの動きが乱れず、同じ位置でぴたりと止まっている。
キツキは少しの間、それを見ていた。
ブロムは最後の一振りを終えると、ゆっくり息を吐いた。それから、こちらに気づいて顔を上げる。
「キツキ?」
「ああ。邪魔して悪いな」
「いや、ちょうど区切りにするところだったんだ」
ブロムは木剣を下ろし、汗を拭った。
その動きにも、妙な余裕があった。疲れていないわけではない。呼吸も少し乱れている。それでも、無理をしている感じがない。
積み重ねてきた人間の動きだった。
「何かあったのかい?」
「少し、頼みたいことがある」
言ってから、キツキは自分の声が思ったより硬いことに気づいた。
ブロムはすぐには返事をしなかった。
ただ、木剣を壁際の台に戻し、キツキの方へ向き直る。
「僕でよければ」
キツキは少し迷ってから、言った。
「俺が今、他人の前で、ちゃんと基礎魔法を使えているように見えるかを見てほしい」
言ってしまうと、少しだけ喉が詰まった。
ブロムも、そこで少しだけ眉を動かした。
「使えているように見えるかって?」
「ああ」
キツキは頷いた。
「仮配属をどうにかしたい。そのためには、自分でできたと思うだけじゃ足りないんだ」
キツキは一度、言葉を切った。
「他の生徒から見ても、ちゃんと基礎魔法として使えているように見えるか。それを知りたい」
頼もうと思えば、レニアにも頼める。それに、彼女ならきっと引き受けてくれるだろう。
けれど今、何でもレニアに頼るわけにはいかなかった。
レニアのそばにいること自体が、もう自分だけの問題ではなくなっている。
「正式な評価がほしいわけじゃない」
「なるほど」
ブロムは少し考えるように目を伏せた。
その間、キツキは変に言葉を足さなかった。
言い訳をしようと思えば、いくらでもできる。出力が低い。知識に穴がある。失敗したら目立つ。
それでも、先に並べたくはなかった。
「分かった」
ブロムは顔を上げた。
「見るだけなら、僕にもできる。ただ、僕は教師じゃない。正式な評価はできないよ」
「それでいい」
「じゃあ、何を見ればいい?」
キツキは一度、手を開いた。
「氷板を出す」
キツキはゆっくり答えた。
「大きいものじゃない。クラス1の範囲で、安定して形にできているように見えるかを見てほしい」
「分かった」
ブロムは区画の空いている方へ視線を向けた。
「なら、あそこを使おう。周りに人が少ない」
「助かる」
「僕は、外から見えたことを言えばいいんだね」
「ああ。それでいい」
キツキは頷いた。
手のひらに、少しだけ汗がにじんでいる。
怖さは、まだある。
それでも、ここで引くつもりはなかった。
キツキはブロムに案内され、空いた区画へ歩き出した。
◇
ブロムに案内された先は、鍛錬区画の端にある空いた場所だった。
特別な設備があるわけではない。床に少し傷が残っていて、壁際に練習用の木剣や簡単な標的が並んでいるだけだ。少し離れたところでは、何人かの生徒が基礎練習を続けていた。
キツキは右手を前に出した。
小さな氷板。
一人でも何度か試している。単層の障壁も、小さな氷も、クラス1の範囲なら形にはなる。
それでも、魔力を通そうとした瞬間、喉の奥が少し詰まった。
キツキは息を吐き、指先に魔力を集めた。
冷気が生まれる。
白い霧のようなものが集まり、氷になる前にほどけた。
「……今のは?」
キツキが聞くと、ブロムは少し考えてから答えた。
「魔力は出ていた。でも、氷になる前に引っ込んだように見えた」
「引っ込んだ?」
「うん。外から見ると、途中で自分から止めたように見える」
ブロムは見えたものをそのまま言ってくれた。
キツキは自分の右手を見る。
止めたつもりはなかった。
けれど、言われると、そうだった気もする。
形になる前に、自分で引いた。
失敗する前に。
「もう一回やる」
「分かった。次は、形になるところまで見たい」
ブロムは余計なことを言わなかった。
キツキはもう一度、右手を上げる。
今度は、すぐに形を作ろうとしない。
指先に集まった冷気を、そのまま留める。
戻しそうになる。
それでも、引かない。
薄い氷が生まれた。
手のひらより少し大きいくらいの、小さな氷板だった。端は歪み、厚みもそろっていない。
それでも、そこにあった。
「……出た」
ブロムはしばらく黙って見ていた。
「今のは、基礎魔法としては形になっていたと思う」
「本当か?」
「不安定ではある。でも、途中で消えなかった。外から見ても、さっきとは違う」
派手な褒め言葉ではなかった。
だからこそ、キツキは信じられた。
氷板は、短い間だけ残った。それから端から白くほどけて消えた。
キツキは手を下ろした。
怖さは、まだある。
けれど、途中で引かなかった感覚も残っていた。
「もう一回、やる」
キツキは右手を上げた。
今度は、さっきより少しだけ早かった。
◇
何度目かの氷板は、最初のものより少しだけ長く残った。
形はまだ不安定だった。端は歪み、魔力を足すたびに細く揺れる。
それでも、キツキは手を下ろさなかった。
「さっきより安定している」
ブロムが言った。
「本当か?」
「少なくとも、形を保とうとしているようには見える」
そのとき、基礎鍛錬区画の入口近くで、足音が止まった。
レニアだった。
鍛錬用の上着を羽織り、両手に訓練用の杖を持っている。自分の鍛錬に向かう途中だったのだろう。
区画へ入ろうとしたレニアの視線が、途中で止まる。
少し離れた場所で、キツキが右手を前に出し、その向かいでブロムが何かを確かめるように見ていた。
キツキの指先には、小さな氷板が浮かんでいた。
「広げるより、今は保つ方だと思う」
ブロムの声が届いた。
「分かった」
キツキは短く答えた。
レニアは入口の近くに立ったまま、その声を聞いていた。
キツキの右手は、まだ前に出ていた。
指先の氷板は頼りなく揺れている。レニアの前で作ったときも、同じように不安定な氷だった。
けれど今、それを見ているのはブロムだった。
氷板の端が白くほどけかけたところで、キツキが小さく息を吐く。
揺れが、ほんの少しだけ収まった。
「……できた」
キツキが小さく言った。
「今のは、さっきよりいいよ」
ブロムが頷く。
「次につなげられると思う」
キツキは右手を下ろし、氷板の消えた場所を見ていた。
やがて、もう一度右手を上げる。
「もう一回いいか?」
「もちろん」
ブロムが短く答える。
レニアは声をかけないまま、入口の近くでその姿を見ていた。
銀髪の先が、かすかに揺れる。
それが収まっても、レニアはまだそこに立っていた。




