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第25話 昨日より少しだけ

第25話 昨日より少しだけ


 放課後の教室には、まだ少しだけ授業の名残が残っていた。


 机の上に開かれたノート。片づけかけの筆記具。誰かが消し忘れた黒板の端の文字。


 生徒たちは少しずつ席を立ち、それぞれの行き先へ散っていく。鍛錬に向かう者。課題を相談する者。寮へ戻る者。


 その中で、キツキは鞄にノートをしまいながら、小さく息を吐いた。


「……よし」


 まずは、学院のことを知るところから。


 エリルが言っていた通りなら、中央棟の掲示には学院が出している案内がある。研究会のことも、何かは分かるかもしれない。


「あれ」


 隣の席から、エリルの声がした。


「どこか行くの?」


「ちょっと中央棟まで」


「昨日の続き?」


 言い当てられて、キツキは一瞬だけ止まった。


「……なんで分かるんだよ」


「顔」


「また顔か」


「うん。そういう顔してる」


 エリルは楽しそうに笑った。


 キツキは反論しかけて、やめた。こういうときのエリルに言い返しても、たぶん余計に分が悪くなる。


「掲示を見てくるだけだよ。研究会の案内とか、学院のこととか、そういうの」


「うん。それがいいと思うよ」


 エリルはあっさり頷いた。


「知ってるか知らないかで、見え方って全然変わるしね」


「昨日、それは思い知った」


「ふーん? あ、じゃあ、キュルを連れていくといいよ。特別に貸してあげる」


「貸すって言い方でいいのか?」


「キュルが嫌なら動かないから、大丈夫」


 キツキは、少し離れた席にいたキュルを見た。


 キュルはすでにこちらを見ていた。


「キュルはいいのか?」


「行く」


「多分面白いことはないぞ」


「行く」


 短い答えだったが、キュルは既に席を立っていた。


 エリルはそれを見て、満足そうに頷く。


「ほら、大丈夫」


「大丈夫の基準が分からないんだけど」


「キュルが行くって言ってるから大丈夫」


「そういうものなのか……?」


「そういうものだよ」


 少なくとも、キツキにはよく分からなかった。


 そのとき、ノートを閉じる音がした。


 レニアだった。


 レニアは何も言わず、ただ、キツキとキュルを一度見た。


 ほんの短い間だった。


 それから、机の上の筆記具をそろえようとして、少し強く置いた。


 かつん、と音が鳴る。


 レニアはその音に自分で気づいたようで、すぐ指先を止めた。


 けれど、何も言わない。


 そのまま席を立ち、教室を出ていった。


 キツキは、レニアの背中を少しだけ見送った。


「……何か用事でもあったのか?」


「さあね」


 エリルは楽しそうに笑っていた。


「何だよ、その顔」


「別に?」


「絶対別にじゃないだろ」


「それより、キツキは掲示を見に行くんでしょ?」


 話を戻されて、キツキは息を吐いた。


「そうだけど」


「なら、行っておいで。混む前の方が見やすいと思うよ」


「分かった」


 キツキは鞄を肩にかける。


 キュルは何も持たずに、すぐ横へ来た。


「本当に来るんだな」


「行く」


「分かった。じゃあ、行こう」


 キツキが教室を出ると、キュルも黙って後に続いた。


 背後で、エリルが小さく手を振っている気配がした。



 中央棟へ近づくにつれて、人の流れは少し変わった。


 教室へ戻る生徒よりも、掲示板や階段の方へ向かう生徒が増えていく。研究会の案内を見に来たらしい生徒。何かの予定を確認している生徒。上級生らしい数人が、掲示の前で短く話している姿もあった。


 キツキは足を止めた。


 中央棟の掲示板は、思っていたよりも広く、木枠で区切られた掲示面には、授業や研究会、提出物に関する案内がぎっしり並んでいた。


「……多いな」


 思わず声が出た。


 キュルも隣で掲示板を見上げている。


「多い」


「だよな」


 どこから見ればいいのか分からない。


 研究会の案内を探しに来たはずなのに、日付、場所、対象学年、担当教員、注意事項が同じ重さで目に入ってくる。


 キツキは小さく息を吐いた。


 昨日と同じだ。


 目立つ文字だけを追うのではなく、まず何がどこに分かれているのかを見る。


 キツキは掲示板の左上から、紙の区切りを追った。


 授業関係。


 寮関係。


 提出物。


 研究会。


 そこで、視線が止まった。


「あった」


 研究会案内と書かれた区画に、いくつかの紙が並んでいる。


 その中に、術式研究会の案内もあった。


 キツキが一歩近づくと、近くにいた何人かの生徒がこちらを見た。


 好奇心、値踏み、警戒。そのいくつかが混じった視線だったが、掲示に集中しているキツキは気づかなかった。


 その横で、キュルだけが静かに顔を上げる。


 何か言いかけていた生徒が口を閉じ、掲示板へ近づこうとしていた別の生徒が、足の向きを少しだけ変えた。


 キュルは何も言わない。


 ただ、長い前髪の奥から、じっと周囲を見ていた。


 キツキは、掲示の文字を追いながら呟いた。


「術式研究会……見学案内」


 活動日や場所だけではない。


 担当教員の名前、関係する上級生、注意事項。短い案内の中にも、誰が関わっているのかが少しだけ見える。


 キツキがもう少し近づいたとき、横から声がした。


「昨日の今日で、術式研究会か」


 キツキは動きを止めた。


 声の方を見ると、1人の男子生徒が立っていた。


 制服の着方や背の高さからして、上級生だろう。


 どこかで見たような気がした。


 キツキはすぐには思い出せなかったが、彼は昨日、セドリックの後ろにいた生徒の1人だった。


 男子生徒はキツキを見て、それから隣のキュルを見た。


 その視線が、ほんの少しだけ止まる。


 キュルは何も言わなかった。ただ、前髪の奥から男子生徒を見返している。


「術式研究会に興味があるのか」


「はい。少し、見ておこうと思って」


「見ておこう、か」


 男子生徒は短く繰り返した。


 その言い方に、キツキは少し引っかかった。


「何か、問題ありますか?」


「問題というほどではない。掲示を見るのは自由だからな」


「はい」


「ただ、昨日の今日でそれを見るのは、目立つだろうな」


「目立つ……ですか?」


「君が思っているよりは」


 男子生徒はそこで口を閉じた。


 それ以上を説明するつもりはないらしい。


 キツキは、掲示の前で言葉を失った。


 昨日、セドリックに声をかけられたこと。今、自分が術式研究会の案内を見ていること。そして、仮配属のまま、レニアのそばにいる生徒として見られていること。


 それらは、キツキの中では別々のことだったが、他人がそう見てくれるとは限らない。


「……分かりました」


 キツキは小さく頷いた。


「気をつけます」


「そうするといい」


 男子生徒は淡々と答えた。


 忠告なのか、牽制なのかは分からないが、親切に教えてくれているわけではないことだけは、キツキにも分かった。


 男子生徒は、もう一度キュルを見た。


「その子も一緒なのか」


 声の調子が、ほんの少しだけ変わった。


 キツキはその変化の意味までは分からなかった。


「はい。キュルも一緒に見に来ただけです」


 キツキは普通に答えた。


「キュルも何か見たいものがあったら言ってくれよ」


 キュルが、少しだけキツキを見た。


「ない」


「ないのか」


「今はない」


「じゃあ、俺の方を先に見てもいいか?」


「いい」


 キツキは頷いて、掲示へ向き直った。


 男子生徒はそのやり取りを見ていたが、何も言わなかった。ただ、キツキを見る目が、ほんの少しだけ変わった。


 それ以上は何も言わず、男子生徒は掲示板の前から離れていった。


 キツキは、そのまましばらく掲示板の前に残り、鞄から取り出したノートに、必要だと思う範囲だけ控えた。


 術式研究会の案内だけではない。演習室の使用案内や補講の告知にも、担当教員や上級生の名前、許可や手続きの有無が混じっている。


 掲示は、ただ情報を読む場所ではなかった。


 そこに誰の名前があり、誰が関わっていて、誰がそれを見ているのか。そういうものまで、学院の中では意味を持つ。


 さっきの男子生徒が言った「君が思っているよりは」という言葉が、まだ耳に残っていた。


 キツキが術式研究会の案内を見ることも、ただの情報集めでは終わらない。


 仮配属のまま、レニアのそばにいる生徒として見られている今の自分が何かをすれば、それはレニアと切り離して見てもらえない。


 キツキが軽く扱われれば、そんな相手を近くに置いているレニアまで軽く見られる。


 昨日のセドリックの言葉は、そういうことだったのかもしれない。


 キツキはノートを鞄に戻し、掲示板から一歩下がった。


 ふと隣を見ると、キュルはまだそこにいた。


 来たときと同じように、少し離れた場所に立っている。


「キュル」


 声をかけると、キュルは顔を上げた。


「付き合ってくれて助かったよ。ありがとな」


 キツキはそう言って、笑った。


 深く考えて言ったわけではない。


 ただ、掲示板の前で立ち止まっていたとき、隣に誰かがいるだけで、少し息がしやすかった。


 そのことを、そのまま言葉にしただけだった。


 キュルはしばらく黙っていた。


 それから、小さく答える。


「別に」


「いや、助かったのは本当だから」


「別に」


「二回言わなくても分かるって」


 キツキが苦笑すると、キュルは何も言わなかった。


「……戻るか」


「戻る」


 キツキが歩き出すと、キュルも当然のようについてきた。


 そこで、キツキは少しだけ気づいた。


 来たときより、少し近い。


 ほとんど隣に並ぶくらいの距離だった。


「エリルにも、見たことを話しておいた方がいいよな」


「うん」


「じゃあ、戻ったら――」


「一緒に」


 キツキは少しだけ目を瞬かせた。


「え?」


「キツキも一緒に」


 キュルはいつも通りの顔で答えた。


 それだけだった。


 けれど、距離は近いままだった。


「……うん。一緒に戻ろう」


「うん」


 短い返事だった。


 けれど、キュルはもう、半歩離れたところには戻らなかった。


 歩きながら、キツキはさっき掲示板の前で見たものを思い返した。


 分かったことより、分からないことの方がずっと多い。


 それでも、昨日よりは少しだけ進んだ気がした。


 レニアのそばにいたいなら、今のままでは駄目だ。


 まずは、仮配属をどうにかする。


 持っている情報をどう使えば、そこにつながるのか。今は、それを考えなければならない。


 キツキは、鞄の肩紐を直しながら、もう一度だけ掲示板を振り返った。

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