第24話 順番に見る
第24話 順番に見る
「座りなさい」
レニアはそう言って、長方形のテーブルの奥側にノートを広げた。
キツキは言われるまま、その隣に座る。さらに隣にはエリルが腰を下ろし、キュルはなぜか、キツキとエリルの間の少しはみ出した位置に収まった。
「そこ、座りにくくないか?」
「問題ない」
「あるように見えるけど」
「ない」
キュルは短く返し、それ以上は動かなかった。
エリルはその様子を見て、楽しそうに笑っている。
「まあ、キュルはそういうところあるからね」
「そういうものなのか……?」
「そういうものなの」
少なくとも、キツキにはよく分からなかった。
レニアは小さく息をつき、ノートの端を指で整えた。
「まずは、あなたがどこで詰まっているのかを確認するわ」
「いきなり怖い始まり方だな」
「必要な確認よ」
「もう少し優しい言い方はないのか?」
「あなたに足りないところを洗いだすだけよ」
「それが怖いんだよ」
言い返しながら、キツキは鞄からノートを取り出した。
それから、眼鏡をかける。
「キツキって、勉強するときは眼鏡なんだ」
隣から、エリルの声がした。
「まあな。こっちの方が調子出るっていうか」
「前の別解のときもかけてたよねー」
キツキは手を止めた。
「よく見てるな」
「見るでしょ。あのとき、結構目立ってたし」
エリルは楽しそうに笑う。
キツキが返事に迷っていると、レニアもこちらを見ていた。
「……そういえば、かけていたわね」
「レニアも覚えてるのか」
「たまたまよ」
「ふうん」
エリルが、にこりと笑った。
「レニア姫、ちゃんと見てたんだ」
「エリル」
「はいはい」
キツキは眼鏡の位置を直しながら、何も言わないことにした。ここで何か言えば、たぶん余計に面倒になる。
「話を戻すわ」
レニアは咳払いをしてから、自分のノートをキツキの方へ少し寄せた。
そこには、細い線がいくつか組み合わさった術式が書かれている。授業で何度か見たことのある、基本の補助式だった。
「基礎術式と魔力計算は、別々に覚えても意味がないわ。術式の形だけを覚えても、魔力の流れと計算が合わなければ、実際には崩れるから」
「最初から難しくないか?」
「基礎よ」
「基礎の顔をした何かに見える」
「あなたの基礎が足りないという話をしているの」
「それはそうなんだけどさ……」
キツキはレニアのノートを覗き込んだ。
形は分かるし、線も追える。
ただ、どこから考えればいいのかが分からない。
「この術式は、形だけなら難しくないわ。問題は、どこにどれだけ魔力を通すか。流れの量がずれると、結果もずれる」
「そこまでは分かる」
「では、この場合、最初に見るべき場所はどこ?」
「ええと……真ん中?」
「なぜ?」
「中心っぽいから」
「理由になっていないわ」
「だよな」
キツキはノートに視線を戻した。
分からないわけではない。けれど、答えを選ぶための手がかりがまだ見えていなかった。
「レニア姫の説明は間違ってないよ」
横からエリルが言った。
「ただ、その聞き方だと、キツキはたぶん勘で答えるしかないんじゃないかな」
レニアが顔を上げる。
「勘?」
「うん。どこを見るかを聞く前に、何を手がかりにするかを教えた方が早いと思う」
キツキは思わずエリルを見た。
「……なんで分かるんだよ」
「顔」
「顔で分かるもんか?」
「分かりやすいよ?」
「そんなにか」
「そんなに」
エリルはさらりと答えたあと、レニアのノートを指さした。
「たとえば、これを地図だと思えばいいんじゃない? 中心が大事に見えるのは分かるけど、最初に見るのは目的地じゃなくて、入口と道の分かれ方。魔力がどこから入って、どこで分かれて、どこで戻るのか。そこを見ないと、中心だけ見ても迷う」
その言い方で、少しだけ形が変わった。
ノートの上の線が、ただの模様ではなく、流れの道筋に見える。
「ああ……そういうことか」
キツキはそこでようやく分かった。
レニアの説明が分からなかったのではなく、自分には、まだそれを理解するための順番が見えていなかった。
レニアは一拍だけ黙った。
エリルの説明がキツキに届いたことを、少し意外に思ったようだった。
「……なるほど」
レニアは小さく言った。
「では、説明を変えるわ」
「お」
エリルが楽しそうに目を細めた。
「対抗する?」
「対抗ではないわ。やり方を変えるだけよ」
「そういうことにしておくね」
「エリル」
「はいはい」
レニアはノートに書かれた術式の端を指で押さえた。
「なら、式として見直すわ」
「地図じゃなくて?」
「術式よ。たとえ話のまま覚えないで」
「はい」
レニアの指が、術式の外側から内側へゆっくり移る。
「まず、魔力が入り込む位置を見る。次に、そこから負荷がどこへ分散するか。最後に、余った魔力がどこで収まるかを確認する」
「入る位置、負荷の分散、収まる場所」
「そう。順番に追えば、中心が何のためにあるのかも分かるわ」
さっきより、少し分かりやすい。エリルのたとえで見えたものを、レニアが術式の用語に戻してくれている。言葉を選び直した分だけ、説明がキツキのところまで近づいていた。
「今のは分かった?」
「さっきよりは」
「さっきより?」
「いえ! かなり分かりました!」
「最初からそう言いなさい」
レニアは少しだけ満足そうに頷いた。
その横で、エリルがにこにこしている。
「よかったね、レニア姫」
「何が?」
「ちゃんと伝わったね」
「あなたに言われることではないわ」
「うんうん。そういうことにしておく」
キツキは2人を交互に見た。
こうしていると、本当にただの勉強会みたいだった。
レニアが真面目に教えて、エリルが横から茶化して、キュルが妙な位置でじっとしている。
悪くない。
けれど、そのありがたさとは別に、胸の奥にはまだ小さな焦りが残っていた。
教えてもらえば、少しずつ分かる。
でも、教えてもらうまで分からないままなら、また同じことになる。
あの場で、自分は何も返せなかった。
「キツキ」
ふいに、キュルの声がした。
「焦ってる」
キツキは顔を上げた。
「……そう見えるか?」
「見える」
「否定しにくいな」
キュルはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
キツキは小さく息を吐いてから、レニアのノートに視線を落とした。
「……さっきの先輩って、俺のことを分かってて言ったんだよな」
レニアの指が、ノートの上で止まった。
エリルも笑みを消しはしなかったが、少しだけ目を細めた。
「仮配属って言ったのも、別解のことを出したのも、たまたまじゃないよな」
レニアはすぐには答えなかった。
答えなかった時点で、キツキには少し分かった。
「偶然ではないでしょうね」
レニアは静かに言った。
「少なくとも、あなたが私の近くにいることと、別解に関わったことは知っていたはずよ」
「やっぱりか」
「あの人は、ギレル魔法学院の3年生よ。術式研究会に所属しているわ」
「術式研究会」
「研究会そのものに、学院の正式判断を変える権限があるわけではないわ」
レニアは淡々と答えた。
「ただ、上級生で、実績のある生徒の言葉は、無視しにくいものとして受け取られることがある」
「無視しにくい……」
「正しいかどうかとは別にね」
エリルが横から補足した。
「それに、セドリック先輩はキツキだけを見ていたわけじゃないと思うよ」
「俺だけじゃない?」
「うん。キツキを通して、レニア姫に言っていたんだと思う」
すぐには飲み込めなかった。自分が何かを言われたのだと思っていたし、それは間違っていない。
けれど、あの場でセドリックが突きつけていたのは、キツキ個人だけではなかった。仮配属で、別解に名前を並べて、レニアの隣にいる生徒。そういうキツキの立ち位置ごと、レニアに向けていたのだ。
「嫌な言い方をするなら」
エリルは茶化さずに続けた。
「キツキは、先輩にとってちょうどいい材料だったんだと思うよ」
「材料……」
「レニア姫に直接、あなたの判断は軽率です、とは言いにくいでしょ? でも、仮配属の子と不用意に行動するのはどうなんですか、なら言える」
「言われた側としては、どっちも十分きついんだけどな」
「それはそうだろうね」
レニアが少しだけ眉を寄せた。
「エリル」
「言い方は悪いけど、大事なところだよ。先輩が正しいかどうかの話じゃない。あの場で何を材料にされたのかは、知っておいた方がいい」
キツキは返事をしなかった。
ノートの上には、さっきまで見ていた術式がある。
入口、分かれ方、安定する場所。順番に追えば、流れが分かる。
そして、さっきの会話にも順番があった。
セドリックは、ただキツキを悪く言ったのではない。
レニアを「殿下」と呼び続けたうえで、仮配属のキツキがそばにいること、別解の成果と身元は別だということを重ねていた。
最後には、それがレニアの判断の話に変わっていたように思える。
何を言われたのかは、分かったつもりでいた。
けれど、そこへどう運ばれていたのかまでは見えていなかった。
分かった気はする。
それでも、胸の奥に残ったものが、すぐに軽くなるわけではなかった。
「仮配属って、そんなに弱い立場なのか?」
レニアは答えた。
「弱いというより、まだ定まっていないということね。正式に否定された立場ではない。けれど、正式に認められた立場でもない」
どっちでもない。
それは、キツキが最近ずっと感じていたものに近かった。
Sクラスの中にいるが、正式なものではない。
今もこうして、レニアたちの隣に座っている。
けれど、同じ場所に立てているようには思えない。
「でも、あなたの価値がそれで決まるわけではないわ」
レニアは静かに言った。
「仮配属の判断は学院がすることよ。上級生に何か言われたからといって、あなた自身が変わるわけではないわ」
その言葉は、ありがたかった。
ありがたかったのに、胸の奥の焦りは消えなかった。
「分かってる」
キツキはそう答えた。
レニアが気にするなと言ってくれていることも、エリルが必要な範囲で教えてくれていることも、キュルが黙ってこちらを見ていることも。
全部、ありがたい。
けれど、そのありがたさに寄りかかったままでは、また同じところで止まる気がした。
「でも、知らないままなのは嫌なんだ」
言ってから、少しだけ声が低くなったことに気づいた。
「学院のことも、研究会のことも、あの先輩のことも。何も知らないままだと、また誰かに助けてもらうだけになる」
そこで一度、言葉が止まった。
レニアたちを責めたいわけではない。
助けてもらったことを、なかったことにしたいわけでもない。
ただ、それだけで終わらせたくなかった。
「だから、知っておきたい」
キツキは言った。
「気にしすぎるなって言われても、知らなくていいとは思えない」
誰もその言葉に、すぐには答えなかった。
「知ろうとすること自体は、悪いことではないわ」
レニアが静かに言った。
「ただし、焦って一人で判断しないこと」
「一人で?」
「あなたはまだ、この学院のことを十分に知らない。相手の言葉がどういう意味を持つのか、どこまで本気で、どこから牽制なのかも判断しづらいでしょう」
「それは、そうだけど」
「だから、知らなくていいとは言わないわ。けれど、知らないまま動けばいいとも言わない」
それは、レニアらしい言い方だった。
止めているようで、否定しているわけではない。
エリルが軽く頷いた。
「順番だね」
「また順番か」
「さっきの術式と同じ。入口を飛ばして中心だけ見ようとすると迷う」
エリルはレニアのノートを指先で軽く叩いた。
「学院のことを知りたいなら、いきなり本人に突っ込むより、まずは見えている情報から。研究会が何をしているのかとか、上級生がどう動いているのかとか。そういうところから見た方がいいよ」
「見えている情報……」
「掲示とか、学院が出している案内とかね。中央棟にも、そういうものはあるでしょ」
その言葉に、キツキは小さく頷いた。
いきなりセドリック本人に聞きに行くつもりはなかった。
なかった、はずだ。
けれど、エリルに先に言われると、自分が少しそれに近いことを考えていたような気もしてくる。
「もしかして、ほんとに直接聞こうとしてた?」
「してない」
「ほんと?」
「してないって」
「してた」
キュルが横から言った。
「キュルまで言うのかよ」
「してた」
「おい」
エリルが笑った。
レニアも、ほんの少しだけ表情を緩める。
重くなりかけていた空気が、そこで少し戻った。
「今は勉強を続けるわよ」
レニアはノートを指で示した。
「あなたが知らなければならないことは、学院のことだけではないでしょう」
「はい」
「返事が素直すぎて逆に不安ね」
「今の流れで逆らう勇気はない」
「それでいいのよ」
「はい! 姫様!」
キツキがそう答えると、エリルがまた楽しそうに笑った。
レニアは何も言わず、キツキを見た。
「……すみません」
キツキが小さく言うと、レニアはようやく視線をノートに戻し、端にもう一つ簡単な術式を書き足した。
その後もしばらく、勉強は続いた。
レニアが術式の見方を順番に示し、エリルが横から噛み砕く。キュルはほとんど何も言わないが、キツキが同じところで止まると、なぜか先にこちらを見る。
そのたびに、キツキは少しだけ気まずくなった。
けれど、悪くなかった。
ノートの端には、レニアが書いた術式と、その横にキツキの字で書き足した言葉が並んでいる。
入口、分かれ方、安定する場所。
学院のことも、研究会のことも、セドリックの言葉も、何も知らないまま見れば、どこから考えればいいのか分からなくなってしまう。
全部を一度に分かる必要はない。
けれど、分からないままにしていいわけでもない。
「キツキ」
レニアが名前を呼んだ。
「ん?」
「今は、この式を見なさい」
「あ、はい」
考えが逸れていたのは、すぐにばれた。
エリルが隣で笑っている。キュルも、何も言わないままこちらを見ていた。
「……なんでそういうところだけ、みんな気づくんだよ」
「わかりやすいからでしょう」
レニアはノートから目を離さないまま言った。
「味方がいない……」
「いるわよ」
レニアは当然のように言った。
キツキは思わずレニアを見た。
レニアはノートから目を離さないまま続ける。
「だから、焦らずに覚えなさい」
「レニア……」
レニアがどういうつもりでそう言ったのか、キツキには分からなかった。
慰めたのか、叱ったのか、それともただ当然のことを言っただけなのか。
それでも、彼にとっては十分だった。
味方はいる。
それだけは、今のキツキにも分かった。
だからこそ、頼るだけじゃなく、同じ場所に並んで立てるようになりたい。
キツキはもう一度、ノートに目を落とした。
まずは、目の前の術式を追う。
それから、自分がまだ知らないものを見る。
研究会のことも、セドリックのことも。
誰かに庇われたあとで黙っている自分のままでは、嫌だった。
だから、まずは知るところから始めようと思った。




