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第3話 助ける方法は、飛び込んでから考える

「待て!」


 背後から教師の声が飛んだ。


 だが、キツキは止まらなかった。


 出口に殺到する生徒たちの間を縫い、軋み続ける防護結界へ近づくにつれて、空気は重くなっていった。


 目に見えない圧力が全身にのしかかり、足を前に出すたび体力を奪われる。水晶を中心に荒れ狂う魔力は、半透明の結界越しでも肌がひりつくほど濃密だった。


「っ……なんだよ、これ……!」


 結界の内側では、熱気と冷気が交互に渦巻いていた。


 炎が床の氷を溶かし、蒸気を暴風が吹き散らす。その中を雷光が走るたび、結界が激しく明滅した。


 火・氷・風・雷――レニアの4属性が、制御を失って噴き出していた。


 教師たちが展開した結界は、その魔力を検査室の外に出さないためのものだった。当然、外から内側に入ろうとする者も拒む構造になっている。


 正面から飛び込んでも、弾き飛ばされるだけだ。


 キツキは走りながら、再びメガネをかけた。


 まだ頭痛は残っていた。それでも、結界を抜けられる場所を探すには、これしかなかった。


 ――中に入れる場所はないのか。


 そう意識した瞬間、結界を構成する幾重もの術式が視界に浮かび上がった。


《複数術者による防護結界》


《内部魔力の遮断および封鎖》


《展開境界に一時的な接続不均衡あり》


 情報が頭に流れ込み、こめかみの奥が熱を持った。


 どこだ。


 キツキは結界の表面に目を走らせた。


 複数の教師が、それぞれ異なる位置から魔力を注ぎ込んでいる。結界は強固だったが、別々の術式をつなぎ合わせている以上、完全に均一ではない。


 教師たちが結界を補強するたび、表面を走る光がわずかに揺らいでいた。


 左側。


 2人の教師が立つ、その間。ほんの一瞬だけ、重なっていた結界の層がずれた。


「そこか!」


 キツキはメガネを外し、直前に見た位置に進路を変えた。


「何をしている! 戻れ!」


 最も近くにいた教師が、キツキを止めようと手を伸ばした。


「彼女と装置の接続を切れる場所が分かります!」


「何を言って――戻れ! 素人が近づけば死ぬぞ!」


 その言葉に、足がわずかに鈍った。


 死ぬ。


 異世界に来てから、まだ数時間も経っていない。魔法の1つも使えず、自分の能力がどこまで通用するのかさえ分かっていない。


 そんな自分が、この中に入る。


 怖くないはずがなかった。


 それでも、結界の向こうには水晶から手を離せず、1人で暴走の中心に立つレニアがいる。


 接続を切るための場所を知っているのは、自分だけだ。


 キツキは身を沈め、教師の手をすり抜けた。


 結界の表面を走る光が揺らぐ。


 今だ。


「馬鹿、やめろ!」


 キツキは肩から結界にぶつかった。


 全身を凄まじい衝撃が貫く。見えない壁に押し返され、息が詰まった。それでも足を踏ん張り、歯を食いしばって肩をねじ込む。


 結界の光が激しく揺らぎ、重なっていた層の隙間にキツキの体が少しずつ沈んでいった。


「ぐっ……!」


 次の瞬間、抵抗が不意に消えた。


 押し込んでいた勢いのまま結界の内側へ飛び出し、キツキは床に肩から転がった。


「痛っ――」


 床に打ちつけた痛みに顔をしかめる間もなく、背後で結界が閉じる。同時に、外とは比べものにならない轟音が全身を叩いた。


「うっ……!」


 思わず両手で耳を塞ぐ。結界越しに聞こえていた音など、ほんの一部にすぎなかった。


 水晶が軋む音。魔力が弾ける破裂音。台座の内部で、金属が悲鳴を上げるような音。


 こんなものの中心で、レニアはたった1人、声も上げずに耐えていたのか。


 熱いと思った次の瞬間には、指先が凍えるほど冷たかった。暴風に制服の裾を煽られ、雷光が床を焼きながらすぐ横を走り抜けた。


 キツキは床に膝をついたまま顔を上げた。


 その視線の先で、水晶に右手を固定されたレニアがこちらを見ている。半ば伏せられていた赤い瞳は、驚きに見開かれていた。


「何をしているの」


 魔力の轟音にかき消されそうな声だった。


「助けに来た!」


 キツキは、できる限り格好よく言い切った。その直後、横から吹きつけた暴風に足をすくわれ、肩から床に転がった。


「痛っ!」


 まるで決まらなかった。


 どうにか顔を上げると、レニアが呆然とこちらを見ていた。やがて驚きが薄れ、形のよい眉がわずかに寄る。


「……馬鹿なの?」


「初対面でそれ言う?」


 キツキは床に手をつき、よろめきながら立ち上がった。


「今すぐ戻りなさい!」


 レニアの声が飛んだ。


「あなたが来ても、何もできないわ!」


「あるんだよ、できることが!」


 言い返しながら、キツキは台座に目を向けた。


 接続維持部の位置は覚えている。正面から見て右下、水晶と台座の境目にある細い金属環の接合部。


 解析で分かったのは、そこを押し広げれば、強制抽出の経路を崩せるということだけだった。


 だが、何を使い、どうやって金属環をこじ開けるのかまでは分かっていない。


 つまりキツキは、止めるための場所と理屈だけを握り、肝心の手段もないまま結界の中に飛び込んできたのだ。


 無謀なのは、自分でも分かっていた。それでも、今は台座まで辿り着くしかない。


 ――方法は、そのあと考える。


 キツキは片腕で顔を庇い、1歩を踏み出した。途端に、足元で氷が弾けた。


「うわっ!」


 とっさに身を引いた直後、今度は炎が床を舐めるように走り抜けた。熱気に息が詰まり、さらに横殴りの風が体を押し戻した。


 それでも、台座から目を離さなかった。


「何をするつもりなの!」


「この装置、細工されてる!」


 レニアの表情が変わった。


「細工?」


「君から魔力を引き出し続ける術式が追加されてる。そこを止めれば、多分、装置との接続を切れる!」


「多分?」


「初めて見る装置なんだから仕方ないだろ!」


「なら、なおさら戻りなさい!」


 キツキは歯を食いしばり、さらに1歩進んだ。


「戻ったら、君が死ぬかもしれない!」


 その一言で、レニアが黙った。


 驚いたのか、呆れたのか。キツキには分からない。


 赤い瞳の奥で、何かがかすかに揺れたように見えた。けれど、その正体を確かめるより早く、弾けた雷光が彼女の表情を覆い隠した。


「……あなたには、関係ないでしょう」


 轟音の中、レニアの声だけが妙にはっきり届いた。


「関係あるかどうかは、俺が決める!」


 キツキは片足に力を込め、暴風に逆らって前に進んだ。


 台座まで、あと数歩。


 雷光が床を走り、慌てて足を上げる。その拍子に体勢を崩したところへ、氷の欠片が脇腹を掠めた。


 制服の表面が裂け、遅れて鋭い痛みが走る。


「っ……!」


 思わず足が止まった。


 痛い。


 異世界に来てから得た「健康な体」があるのだから、多少の怪我なら平気だと、どこかで思っていた。


 だが、裂けた制服の下からは、確かに血が滲んでいる。


 傷が塞がる様子もない。健康な体とは、怪我をしない体ではないらしい。


 怖くなかったと言えば、嘘になる。それでも、ここで引き返せば、レニアは装置に魔力を奪われ続ける。


 キツキは痛む脇腹を押さえ、再び足を踏み出した。


 あと3歩。


 2歩。


 最後の1歩を踏み込み、台座の前に滑り込んだ。


 キツキはその場に膝をついた。


 目の前には、何重にも重なった細い金属環がある。その接合部の奥で、元凶の黒い光が脈打っていた。


 場所は間違っていない。ここを押し広げればいい。理屈は分かっている。


 問題は、その手段だった。


 魔法は使えない。


 工具もない。


 手持ちの硬貨や身分証では、金属環の圧力に耐えられず、押し潰されるか弾き飛ばされるだけだろう。


 上着の内側に手を入れかけ、ふと動きを止めた。


「壊れないものなら、1つ持ってるだろ……!」


 キツキはわずかに口元を緩め、上着の内側からメガネを取り出した。


 片方のつるを握り、金属環の接合部に先端を当てる。


 隙間は狭い。押し込もうとしても、硬い金属同士が擦れるだけで、つるは奥まで入らなかった。


「くそっ……!」


 場所は合っている。


 あとは、このメガネをてこにして接合部を押し広げるだけだ。だが、メガネが壊れなくても、キツキの腕力で金属環を動かせる保証はない。


 それでもやるしかない。


 背後で雷が弾けた。


 キツキは反射的に身を縮める。床を走った雷光が台座にぶつかり、青白い火花を散らした。


「っ……!」


 手を止めている時間はない。


 キツキはつるの角度を変え、接合部のわずかな隙間に先端を押し当てた。


 右へ。


 入らない。


 少し下にずらす。


 硬い手応えの奥で、何かに引っかかった。


「ここか……!」


 両手でフレームを握り、接合部を押し広げるように横へひねった。だが、金属環はびくともしない。


「開け……!」


 腕に力を込める。


 細いフレームが手のひらに食い込み、鋭い痛みが走った。それでもメガネは曲がらず、折れる気配もない。


 壊れない。なら、このまま押し込める。


 キツキは片膝を立て、全体重を両腕に乗せた。


 金属同士が軋み、接合部がほんのわずかに開いた。その隙間から黒い光が漏れ出し、脈打つように明滅した。


「あと、少し……!」


 次の瞬間、横殴りの風がキツキの体を襲った。上体が大きく揺れ、つるの先端が隙間から外れかける。


 キツキは歯を食いしばり、フレームを握り直した。


 ここで外せば、最初からやり直しだ。


「離しなさい!」


 レニアの声が飛んできた。


「そのままでは、あなたまで巻き込まれるわ!」


「もう巻き込まれてるよ!」


 言い返した直後、氷の欠片が頬を掠めた。熱を持った痛みとともに、頬を血が伝う。


 怖い。痛い。今すぐ手を放して、結界の外に逃げ出したい。


 だが、彼女を助けるために飛び込んできたのだ。痛いから、怖いからと、今さら1人だけ置いて逃げるなんてできない。


 キツキは歯を食いしばり、フレームを握る手にさらに力を込めた。


 メガネのつるが、少しずつ接合部の奥に沈んでいく。ついに、フレームの半ばまでが金属環の隙間に食い込んだ。


 キツキはそのままメガネを横に倒し、開いた接合部に楔のように噛ませる。


「これで……どうだ!」


 金属環が元に戻ろうと収縮した。


 だが、挟まったメガネは折れない。隙間を押し広げたまま、閉じようとする力を受け止めていた。


 直後、黒い光が激しく乱れ、台座の奥で何かが弾けた。


 レニアから水晶へ流れていた魔力が途中で2つに分かれ、行き場を失った力が本来の排出経路へ流れ込んでいく。


 台座の側面から白い蒸気が噴き出し、水晶の輝きがわずかに弱まった。


 同時に、レニアの右手と水晶の間に、わずかな隙間が生まれた。


「今だ!」


 キツキが結界の外に向かって叫ぶと、教師の1人が、その変化に気づいた。


「接続が緩んだ! 切断術式を通す!」


 防護結界の一部が、術式だけを通せるほど細く開いた。


 その隙間を青白い光が一直線に走り、水晶とレニアの手をつなぐ魔力経路に突き刺さった。


「レニア殿下、手を引いてください!」


 レニアは空いた左手で右腕を掴み、全身の力を込めて後ろに引いた。水晶に貼りついていた指先が、わずかに離れる。


 だが、残った魔力が細い糸のように手のひらに絡みつき、完全には切れない。


「もう一度だ!」


 教師が切断術式を重ねると、再び青白い光が魔力の糸を横切った。


 甲高い音とともに、接続が断ち切られ、弾かれるように、レニアの右手が水晶から離れた。


 その瞬間、荒れ狂っていた魔力が急速に勢いを失った。床を這っていた氷の筋が途切れ、暴風と雷光も次々に消えていく。


 最後まで残った炎が空気に溶けると、水晶の光も台座の奥へ吸い込まれ、検査室を揺らしていた轟音が止んだ。


 突然訪れた静寂の中、台座から剥がれた小さな金属片が床に落ち、乾いた音を立てた。


 楔として差し込んだメガネは、接合部に挟まったまま、びくともしていなかった。


 キツキは台座の前に膝をついたまま、荒い息を繰り返した。


 頬も、脇腹も、両手も痛い。それでも顔を上げる。


 レニアの右手は、もう水晶から離れていた。


「……止まった」


 口から漏れた声とともに、全身から力が抜けた。


 キツキは台座に片手をつき、どうにか倒れ込むのを堪えた。耳の奥では甲高い音が鳴り続け、自分の荒い呼吸だけがやけに近く聞こえた。


 教師たちが防護結界を解くと、半透明の壁が光の粒となって消えていった。結界の外で対応していた教師たちが、一斉にこちらへ駆け込んできた。


「レニア殿下!」


「治療担当を呼べ!」


「装置には触れるな! 術式が完全に停止したか確認しろ!」


 いくつもの声が飛び交った。


 だが、キツキの意識は目の前の少女に向いていた。


 レニアは水晶から解放された右手を胸元に引き寄せ、浅い呼吸を繰り返している。白い指先はわずかに震え、手のひらには赤い痕が残っていた。


 それでも、倒れることなく立っていた。


 よかった。


 少なくとも、間に合ったらしい。


 そう思った途端、張り詰めていたものが切れた。キツキはその場に尻をつき、痛む脇腹を押さえた。


 頬から流れた血が顎を伝い、床に落ちる。両手にも、メガネのフレームが食い込んだ赤い痕が残っていた。


「君も動くな。すぐに診てもらえ」


 教師の1人がキツキに声をかけた。


「ああ、はい……」


 返事をしたものの、立ち上がるだけの力は残っていなかった。


 教師が装置の確認に視線を戻した、そのときだった。


 細い靴音が近づいてきた。


 キツキが顔を上げると、レニアが目の前に立っていた。


 彼女の赤い瞳が、キツキの裂けた制服、その下で血の滲む脇腹、傷ついた頬を順にたどっていく。その奥で何かが揺れたように見えたが、キツキが意味を読み取る前に消えてしまった。


 レニアはキツキと目線を合わせるように、その場に片膝をついた。長い銀髪が肩から滑り、床に流れ落ちる。


 近くで見ると、やはり息を呑むほど整った顔立ちをしていた。


 異世界に来て早々、命懸けでヒロインを救った。


 ――よし。救出イベントは成功だ。


 あとは感謝されて、少しくらい距離が縮まる。そういう流れに違いない。


 レニアの唇が、ゆっくりと開いた。


「どうして、助けたの?」


 来た。


 まさに待っていた台詞だ。


 キツキは痛む体を起こし、できるだけ何でもないような顔を作った。


「え? いや……」


 最初の一言でつまずいた。それでも、すぐに咳払いをして続ける。


「目の前で危ない目に遭ってる人がいたら、助けるのは当然だろ」


 ――決まった。


 今度こそ完璧だ。


 だが、レニアの表情に笑みは浮かばなかった。安堵も、喜びも、感謝さえ見えない。


 彼女は黙ったまま、キツキを見つめていた。


 やがて、半ば伏せられた赤い瞳が、静かに床へ落ちた。


「……そう」


 その声は、ひどく冷たかった。いや、冷たいというよりも、落胆しているように聞こえた。


 ――あれ?


 待て。なんか、おかしくないか? さっきまで思い描いていた流れと、まるで違う。彼女は笑うどころか、助かったことを喜んでいるようにすら見えなかった。


 やがて、レニアは何か言いかけたように唇を結び、短く息を吐いた。そして、再びキツキに視線を向ける。


「私は――」


 わずかな間が空いた。


「放っておいてほしかった」


 その瞬間、世界から音が消えた。キツキの頭の中で始まりかけていた恋愛イベントも、跡形もなく消し飛んだ。


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