第21話 答えまでの道
第21話 答えまでの道
黒板に書かれた式は、すでに最初の数行だけでキツキの理解を置き去りにしかけていた。
ブロムは正攻法の流れを、できるだけ噛み砕いて説明してくれた。3つの属性を同時に通せば、それぞれの間で干渉が起きる。正攻法では、その干渉を1つずつ調べ、失われる魔力を補うように配分を整えるらしい。
そこまでは、キツキにも何とか分かった。
だが、ブロムが数値を書き加え始めると、すぐに追えなくなった。どの数字がどの干渉を示しているのか、どこから次の値が出てきたのかが分からない。
「……悪い。もう少しゆっくり頼む」
「ここを省いたから分かりにくかったんだね」
ブロムは嫌な顔もせず、途中の計算を書き直した。
実際には、計算が苦手なのではなく、この学院で常識とされる前提知識がほとんどないだけだった。だが、その事情を説明するわけにもいかず、キツキは曖昧に頷くしかなかった。
「それで、よく正解だけは書けたものね」
隣で黒板を見ていたレニアが言った。
「俺も今、それを不思議に思ってるところだよ」
キツキが言い返すと、レニアはわずかに口元を緩めた。
正攻法が完成するまでには、3組の干渉を別々に求め、それぞれに必要な補正を加えなければならない。
キツキが答案に書いた数値は、そのどの計算とも一致していなかった。
「やっぱり、途中を省いただけではなさそうね」
レニアは自分で解き直した紙と、キツキの答案を並べた。
「途中の計算を省略したなら、最終的な配分は私たちと同じになるはずよ。でも、あなたの答えは配分そのものが違う」
「それなのに、魔力の損失は少ないと認められている」
ブロムも黒板の前で腕を組む。
「同じ結果へ短い道でたどり着いたのではなく、最初から別の処理をしているのかもしれない」
「別の処理……」
キツキは自分の答案に描かれた術式を見つめた。
完成形は知っている。
どこをつなぎ替えるのかも、どれだけ魔力を流せばよいのかも分かっている。
だが、正攻法と並べられて初めて、その答えが何をしているのかを考え始めていた。
「今のところ、分かっている違いは?」
机に着いて議論を聞いていたエリルが尋ねた。
その前には、3つに分けた疑問と、ここまでに出た情報が整理されている。
「接続の数が少ない」
ブロムが答えた。
「補正に使う魔力も少ないわ」
レニアが続ける。
「それから、正攻法では3組を別々に扱っているけど、キツキの答えでは分けていない」
エリルはそれぞれの言葉を紙に書き加えた。
「つまり、キツキの術式は干渉を全部なくしているわけではないんだね」
「なくしてない?」
キツキが聞き返す。
「だって、全部なくすなら、それぞれに補正が必要でしょ?」
エリルは黒板に描かれた正攻法を指した。
「それをしていないのに損失が減っているなら、干渉が起きないようにしたんじゃなくて、起きたあとに何か別のことが起きてるんじゃないかな」
術式の専門知識を持つレニアとブロムが、同時に黒板へ目を戻した。
しばらく誰も話さなかった。
壁際では、キュルが紙の擦れる音にも構わず本を読んでいる。
「……向き」
やがて、レニアが小さく呟いた。
「何か分かったのか?」
「まだ分からないわ。ただ、ここを見て」
レニアはキツキの答案に描かれた2本の接続線を、指でたどった。
「この2か所で生じる干渉は、魔力を押し返す向きが逆になっている」
ブロムがすぐに自分の計算を見直した。
「強さは?」
「元の術式では違う。でも、キツキの配分に置き換えると……」
レニアは途中で言葉を止め、黒板の空いている場所へ数値を書き始めた。
ブロムもその意図に気づいたらしく、隣で別の組み合わせを計算する。
キツキには、2人がどこへ向かっているのか、まだ完全には分からなかった。
それでも、黒板に並んでいく数値には見覚えがあった。
自分の答案に書いた、理由の分からなかった配分。
ブロムが最後の数値を書き終え、手を止めた。
「近い」
「ええ。完全に同じではないけれど、ほとんど同じ強さで逆方向へ働いているわ」
「別々に抑えているんじゃない」
エリルが、2人の言葉をつなぐように言った。
「互いに打ち消させているんだ」
その一言で、黒板に描かれた術式が、キツキにも初めて別の形に見えた。
正攻法では、3つの干渉をそれぞれ余分な魔力で抑えている。だがキツキの別解は、干渉そのものを利用し、逆向きの力をぶつけて相殺させていた。
ただし、それだけでは完全には釣り合わなかった。
キツキが眼鏡越しに接続を追うと、打ち消しきれずに残った力が、3本目の接続へ流れ込んでいるように見えた。
「……いや、余ってるんじゃない」
キツキは、3本目の線を指でなぞった。
「こっちに逃がしてるんだと思う」
「どうして、そう判断できるの?」
レニアの視線が向けられる。
一瞬、返事に詰まった。
「線の流れを追ったら、そう見えた」
嘘ではない。どのように見えたのかを、すべて説明していないだけだ。
レニアは数秒キツキを見つめたが、今は追及しなかった。
そこからは、ほとんど検証の連続だった。
ブロムが数値に置き換え、レニアが術式を組み直し、エリルが条件と結果を書き残す。キツキは眼鏡に映る流れを追い、負荷が偏る場所を伝えた。
何度も配分と接続を変えた。
それでも、キツキの答案と同じ条件では成立しても、属性の強さを少し変えるだけで均衡は崩れてしまう。
黒板が消しては書いた跡で白く曇り始めた頃、ブロムが書きかけの式を前に手を止めた。
「……比率を固定するから駄目なのかもしれない。必要なのは数値そのものじゃない。配分を決めるための順番だ」
「まず、反対方向に働く2つを選ぶ」
レニアが続けた。
「その2つができるだけ釣り合うように配分を決めて、残った差を3つ目の接続へ流す」
「最後に、3つ目が受け取れる量に合わせて全体を調整する」
エリルが紙に書かれた内容を読み上げる。
「これなら、最初の属性の強さが変わっても、同じ手順で計算し直せるんじゃない?」
ブロムは答える代わりに、先ほどとは異なる数値を黒板に書いた。
「別の条件で試そう」
反対方向に働く2つの干渉を選び、できるだけ釣り合うよう配分を調整する。打ち消しきれなかった差を3つ目の接続へ流し、最後に全体の負荷を均等にする。
ブロムが最後の値を書き、レニアが最初から検算した。
キツキも眼鏡越しに、完成した術式へ意識を向ける。
《魔力損失:最小》
「……合ってる」
「本当に?」
「ああ。今度は、どこにも負荷が偏ってない」
レニアはキツキの言葉だけで判断せず、もう一度すべての数値を確かめた。
やがて羽根ペンを置き、小さく息を吐く。
「計算でも成立しているわ」
ブロムの顔にも、ようやく笑みが浮かんだ。
「これなら、最初の数値が違っても同じ手順で答えまでたどり着ける。もう偶然正しい形になっただけではない」
「つまり?」
エリルが尋ねる。
「解法として完成した、ということね」
レニアが答えた。
キツキの答案に書かれた1つの答えを説明しただけではない。条件が変わっても、同じ順序で魔力の配分を導ける方法になっていた。
キツキは、黒板いっぱいに残された式と術式を見上げた。
答案にはなかった、答えまでの道が、今度は確かにそこに残っていた。
誰かが声を上げたわけではなかった。それでも、張り詰めていた空気が一度に緩んだ。
「これは、かなり価値のある情報になりそうだね」
エリルが、ここまでの記録を眺めながら楽しそうに言った。
「本人の前で、勝手に値段をつけるものではないでしょう」
レニアが冷ややかに言う。
「まだ売るとは言っていないよ」
「その顔は、もう売り方まで考えている顔よ」
「よく分かったね」
悪びれずに笑うエリルを、レニアがさらに冷ややかに見つめる。
そのやり取りを見て、ブロムが困ったように笑った。
「少なくとも、学院には報告した方がいいだろうね。想定解より効率のいい方法が見つかったんだから」
ブロムの言葉に、キツキは黒板を見上げた。
そこには、自分の答案だけではなく、ブロムの式も、レニアがたどった接続線も、エリルが整理した疑問も残っている。
「なら、俺だけの名前で出すのは違うだろ」
キツキが言うと、ブロムはわずかに目を丸くした。
「もとは君の答案だよ?」
「答えを書いただけだ。どうして成立するのかを見つけたのは、俺1人じゃない」
ブロムが正攻法を整理し、レニアが干渉の向きに気づいた。エリルが疑問と結果をまとめ、キツキは眼鏡を通して魔力の流れを確かめた。
どれか1つでも欠けていれば、黒板に残る解法は完成しなかった。
「なら、全員の成果ということにしよう」
ブロムは素直に頷いた。
「異論はないわ」
レニアも当然のように答える。
エリルだけが、自分の記録を胸元へ引き寄せた。
「私の取り分については、あとで相談させてもらうけどね」
「何の取り分だよ……」
キツキが呆れていると、壁際から本を閉じる音がした。
「終わった?」
キュルが無表情のまま尋ねる。
「今、終わったところだよ」
「帰れる?」
「もう少し待ってね」
エリルが答えると、キュルは何も言わず、閉じた本を膝の上に置いた。
窓から差し込む光は、いつの間にか赤みを帯びていた。
始めた頃には綺麗だった黒板も、今では数式と術式、消しきれなかった白い跡で埋まっている。
レニアは新しく完成した解法を紙へまとめ、ブロムは別の条件でも成立するか確かめていた。エリルは散らばった記録を順番に並べ直し、キュルは退屈そうに窓の外を眺めている。
キツキは、その光景の中で眼鏡の位置を直した。
この眼鏡は、正しい答えを見せる。
けれど、なぜそれが正しいのかまでは教えてくれなかった。
少し前までなら、その不完全さを単なる欠点だと思っていたはずだった。
何もかも分かれば、その方が楽に決まっている。知らない術式も、この世界の常識も、帰る方法さえも、眼鏡が答えてくれればよかった。
事件のあと、病室で横になっていた夜にも、キツキは何度も眼鏡を使った。
転生したときに持たされていた身分証から、室内に置かれた魔道具まで、手掛かりになりそうなものを片端から調べた。どこかに、元の世界へ帰る方法につながる情報があるのではないかと思ったのだ。
もう一度あんな目に遭うくらいなら、この世界から逃げたかった。
魔法と襲撃に怯える必要のない、以前の生活へ戻りたかった。
けれど、眼鏡に映るのは、今そこにあるものだけだった。
帰る道も、それを探す方法も、どこにも示されなかった。
答えを得られないまま、キツキは暗い病室で何度も同じことを考えていた。
どうすれば、帰れるのか。
その問いだけが、いつまでも頭から離れなかった。
「キツキ?」
名前を呼ばれ、意識が現在へ戻る。
顔を上げると、レニアが完成した解法を記した紙を手に、こちらを見ていた。
「どうしたの? さっきから、ぼんやりした顔をしているけれど」
「いや、何でもない」
「またそれかしら」
「今度は本当に何でもないよ」
答えながら、キツキは小さく息を吐いた。
もし、最初から理屈のすべてまで分かっていたなら、今日ここへ集まり、黒板を埋めながら答えを探す時間は生まれなかった。
眼鏡が完全ではないことを、よかったとまでは思えない。それでも今だけは、何もかも教えてくれないこの眼鏡も、悪いものではないと思えた。
「これ、あなたも持っておきなさい」
レニアが、完成した解法をまとめた紙を差し出した。
「いいのか?」
「あなたの答えでしょう。今度は、そこへ至る過程も含めてね」
キツキはその紙を受け取った。
そこには、答案にはなかった計算と、何度も書き直した跡、4人で見つけた答えまでの道が残っていた。
病室にいたとき、キツキはこの世界から逃げることばかり考えていた。
帰る方法を探すことを、諦めたわけではない。
それでも今は、帰れる日までただ耐えるのではなく、もう少しだけ、この世界で頑張ってみたいと思った。




