第19話 安い支払い
「……どうしたの?」
レニアの声で、キツキは我に返った。
気づけば、柔らかく笑う彼女の顔をじっと見つめたまま固まっていた。
「いや、何でもない」
慌てて視線を逸らす。だが、自分でも分かるほど返事が不自然だった。
「何でもないようには見えないけれど」
「本当に何でもないって」
つい先ほどまで、普通に話せていたはずだった。
魔法への恐怖を打ち明けたときも、震える手を見られたときも、ここまで落ち着かなくなることはなかった。
それなのに、あの笑顔を見たあとでは、どこへ目を向ければいいのかすら分からなかった。
「顔が赤いわよ」
「赤くない」
「鏡も見ていないのに、どうして分かるの?」
「……なんとなく」
「そう」
まったく納得していない声だった。
レニアが顔色を確かめるように、一歩近づいた。
青い薔薇を思わせる、涼やかでほのかに甘い香りが鼻先をかすめる。急に縮まった距離にも耐えきれず、キツキは反射的に半歩下がった。
「退院したばかりなのに、無理をしたんじゃないでしょうね?」
「違う。これは、その……魔法を使ったから少し暑いだけだ」
「氷の魔法で?」
即座に返され、言葉に詰まった。
自分でも無理があると思う。けれど、たった今あなたに恋をしたからです、などと言えるはずもなかった。
レニアはしばらく疑うようにキツキを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「少しでも異常を感じたら、すぐに治療室へ戻りなさい」
「ああ。分かってる」
「本当に分かっているのかしら」
そう言いながら、レニアは床へ散る前に消えた氷の跡へ目を向けた。
「今日はここまでね」
「もう終わりか?」
「最初に、無理のない範囲で一つだけ試すと言ったでしょう」
「そうだったな」
できることなら、もう少しこのまま一緒にいたかった。
これまでも、レニアともっと話したい、彼女のことを知りたいとは思っていた。けれど、その気持ちの正体を知ってしまった今は、ようやく2人きりで過ごせた時間が終わることまで、以前よりずっと惜しく感じられた。
レニアは壁際に置いていた鞄を手に取り、扉へ向かった。
今言わなければ、このまま終わる。
「あのさ、レニア」
「何?」
呼び止められたレニアが振り返る。
ただそれだけで、心臓が大きく鳴った。
「今日は付き合ってくれて、ありがとな。その……よかったら、お礼に、このあと一緒に夕飯でもどうだ?」
言えた。
途中で声が裏返らなかっただけでも、今のキツキには十分な成果だった。
「無理よ」
返事は一瞬だった。
「……そっか」
「このあと、私も自分の鍛錬があるもの」
レニアは断ったことを特に気にする様子もなく、当然の予定を告げるように続けた。
「あなたがもう一度魔法を使うところを見届けるとは約束したけれど、自分の鍛錬まで怠るつもりはないわ」
「ああ、そうだよな」
嫌われたわけではない。ただ予定があったから断られただけだ。
頭では分かっているのに、胸の奥は分かりやすく沈んだ。
初めての誘いは、わずか数秒で終わった。
「それに、あなたは今日は休みなさい」
「分かってるって」
「さっきから、その返事ばかりね」
レニアはそう言って扉を開けた。
廊下で待っていた警備担当が姿勢を正す。
先に部屋を出たレニアを追いながら、キツキは小さく息を吐いた。
そう簡単にうまくいくはずはない。
それでも、断られたことよりも、自分から誘えたことの方が、少しだけ嬉しかった。
胸の鼓動は、練習室を出たあともなかなか静まらない。先ほど見た笑顔も、間近で感じた青い薔薇のような香りも、いつまでも頭から離れてくれなかった。
◇
翌日の午前授業が終わると、教室には昼休みを迎えた生徒たちの声が広がった。
キツキは机の上に教材を重ねながら、通路を挟んだ少し前へ目を向けた。
レニアは教卓のそばで、ガルドに何かを尋ねている。昨日と変わらない横顔だった。
変わったのは、レニアではなく、彼女を見るキツキの方だった。
銀色の髪が揺れるだけで目が向き、声が聞こえれば意識がそちらへ引かれる。目が合いそうになるたび、今度は自分から逸らしてしまう。
昨日までは、もっと自然に見られていたはずなのに。
「随分、忙しそうだね」
すぐ横から声がして、キツキは肩を揺らした。
顔を向けると、エリルが机に片手をついていた。その隣には、キュルがいつもの無表情で立っている。
「何が?」
「目が」
「目?」
「レニア姫を見たり、見ていないふりをしたり」
「……してないけど」
「そうなんだ」
エリルはあっさり頷いた。
信じた様子はまったくなかった。
「それで、昨日はどうだったの?」
「どうって、何が」
「先約。教室中に宣言して連れていかれたでしょう?」
「魔法の練習をしただけだよ」
「へえ」
たった一言なのに、続きを待たれている気がした。
キツキは教材の端を無意味に揃え直す。
「本当に、それだけだからな」
「私は何も疑ってないよ?」
「その顔で言われても信用できない」
エリルは楽しそうに目を細めた。
「夕飯には誘ったけど、断られた」
なぜ自分から余計なことまで話したのか。
口にした直後に後悔したが、もう遅かった。
「誘ったんだ」
エリルの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「礼をしたかっただけだよ」
「そういうことにしておこうか」
「本当にそうだからな」
「顔、赤い」
それまで黙っていたキュルが言った。
「赤くない」
「赤い」
「……放っておいてくれ」
「わかった」
キュルはあっさり引き下がったが、その隣でエリルが堪えきれなくなったように小さく肩を揺らした。
「笑うなよ」
「ごめん。でも、少し分かりやすすぎるから」
「何が分かったんだよ」
「何かあったこと」
エリルは、それ以上を断定しなかった。
昨日までのキツキとは反応が違う。ただ、それだけを面白がっているらしい。
キュルはもう興味を失ったのか、近くの机に置かれた教材の背表紙を眺めていた。
「それで、からかうためだけに来たのか?」
「半分はね」
「半分もあるのかよ」
「残りの半分は、仕事の話」
エリルの笑みから、からかう色だけが薄れた。
声の大きさは変わらない。それでも、さっきまでとは明らかに温度が違った。
「レニア姫が狙われた件について、少し分かったことがある」
キツキの手が止まった。
「何が分かった?」
「ここで話すつもりはないよ」
エリルは周囲へ軽く目を向けた。
昼休みの教室には、まだ多くの生徒が残っている。誰もこちらを見ていないようで、会話を聞いていない保証はなかった。
「場所を変えようか」
「今から?」
「聞きたくないなら、別に構わないけど」
エリルはそう言いながら、すでに教室の出口へ歩き始めていた。
キュルも何も言わず、そのあとを追う。
キツキは教卓の方を見た。
レニアはまだガルドと話している。
昨日見た笑顔が一瞬だけ頭をよぎった。
彼女が狙われた理由も、事件を起こした相手も、何一つ分かっていない。
キツキは教材を机の中へ入れると、立ち上がった。
「待てよ。行くから」
振り返ったエリルの顔には、最初からそう答えると知っていたような笑みが浮かんでいた。
◇
エリルが足を止めたのは、中央棟の上階にある小さな演習室だった。
昼休みには使われていないらしく、中に人の姿はない。エリルが先に入り、キュルが最後に扉を閉めた。
「それで、何が分かったんだ?」
キツキが尋ねると、エリルは窓際の机に軽く腰を預けた。
「その前に、確認しておきたいんだけど」
「何を?」
「情報には値段があるってこと」
「やっぱり金を取るのか?」
「お金じゃなくてもいいよ」
予想していた答えではあった。
エリルは初めて会ったときから、情報も立派な取引材料として扱っていた。今回だけ無償で渡してくれるとは、キツキも思っていない。
「値段は?」
「学力試験の第1問」
「第1問?」
「複数属性の術式を扱った、最初の総合応用問題。完全に正解したのは、君とブロム・アステリオンの2人だけだった」
一般に発表されたのは順位と点数だけだった。第1問を誰が解いたのかまでは、掲示されていない。
「……なんで、それを知ってるんだ?」
「採点に関わった人間は、教師だけじゃないからね」
「それ、答えになってるか?」
「私がどこから情報を得たかは、今回の商品に含まれていないよ」
笑顔のまま、きっぱりと線を引かれた。
隣に立つキュルは、やり取りに興味がないのか、窓の外を眺めている。
「それで、第1問の何が欲しいんだ? 答えなら、もう学院が持ってるだろ」
「答えはいらないよ」
エリルは人差し指を立てた。
「試験中の君が、何を見て、どう考えて、あの答えを書いたのか。それを聞かせてほしい」
「解き方を説明すればいいのか?」
「少し違う」
エリルの琥珀色の瞳が、キツキの反応を逃さないように細められた。
「正しい説明をあとから作ってほしいわけじゃないんだ。君があのとき実際に考えたことを、覚えている範囲で、嘘をつかずに話してほしい」
ずいぶん変わった要求だった。
だが、金を請求されるよりはずっと軽い。あのとき眼鏡に示されたものを思い出しながら話せば、それで済むはずだった。
「それだけでいいのか?」
「君にとって簡単かどうかと、私にとって価値があるかどうかは別だからね」
「いつ話せばいい?」
「答案が返されるのは明日だったよね。なら、明日の放課後に」
「返されたあとでいいのか?」
「その方が、試験中のことを思い出しやすいでしょう? 答案を見ながら、どこで何を考えたのか順番に話して」
エリルはそこで、念を押すように人差し指を立てた。
「ただし、あとから考えた理屈はいらないよ。私が知りたいのは、あのときの君が本当に考えていたことだから」
エリルはそこで一度言葉を切り、わずかに首を傾けた。
「取引する?」
キツキは少し考えた。
眼鏡の能力について話すつもりはない。しかし、問題を解いたときのことを説明するだけなら、秘密まで明かす必要はないはずだ。
「分かった。その条件でいい」
「成立だね」
エリルが満足そうに笑った。
「じゃあ、商品の話をしようか」
先ほどまでの軽い雰囲気が薄れ、キツキも自然と表情を引き締めた。
「レニア姫を狙った細工には、学院内で正式に発行された認証情報が使われていた」
「学院の中の人間がやったってことか?」
「まだ、そこまでは言えないよ」
エリルはすぐに否定した。
「使われた認証情報の持ち主は、細工が行われたと考えられる時間に、別の場所にいたことが確認されている」
「じゃあ、どうやって……」
「認証情報だけを複製したか、本人の知らないところで盗み出した可能性が高い」
偶然入り込んだ外部犯ではない。少なくとも、学院の認証制度を知り、その情報を手に入れられる相手が関わっていた。
「持ち主は誰なんだ?」
「それはまだ売れるほど確かな情報じゃない」
「分かってないのか?」
「候補はある。でも、確証のない名前を渡して、君が勝手に疑い始めても困るからね」
そこで止められると、余計に気になった。
だが、不確かな名前を事実のように渡さないのは、情報屋として筋が通っているのかもしれない。
「学院の中に協力者がいる可能性は?」
「ある。でも、外の人間が認証情報だけを手に入れた可能性も残っている」
エリルは机から腰を上げた。
「今は、それで全部だよ」
「この話、レニアに伝えてもいいのか?」
「本人に伝えるのは構わないよ。事実を確かめるのもね。ただし、私の情報源だけは探らないこと」
「分かった」
「これだけで、第1問の話を全部聞くのか?」
「不満?」
「いや……思ったより少ないなって」
「情報は量より、他の人より早く知ることの方が大事なんだよ」
エリルは扉へ向かいながら、肩越しに振り返った。
「それに、続きを調べるには、今の情報が正しいか確かめないといけないからね」
キュルも窓から離れ、当然のようにエリルの隣へ並んだ。
「明日の放課後、忘れないでね」
「ああ。第1問をどう解いたか話せばいいんだろ」
「そう。君が本当に考えたことを、そのまま」
念を押すような言葉だったが、キツキは深く考えなかった。
答えを書いたのは自分だ。どうやってそこへたどり着いたのかも、話そうと思えば話せるはずだった。
そのときのキツキには、それがずいぶん安い支払いに思えていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
基本、毎日2話更新です!
続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、
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