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第18話 もう一度、魔法を

 翌朝、キツキは治療術師に見守られながら、寝台から降りた。


 床に足をつけ、ゆっくりと立ち上がる。身体の奥にはまだわずかな重さが残っていたが、昨日までのような痛みはなかった。


「そのまま、部屋の端まで歩いてみてください」


「分かりました」


 言われたとおりに数歩進み、窓際で向きを変える。足がもつれることも、傷が痛むこともなかった。


 治療術師はキツキの歩き方を確認したあと、胸元と背中に薄い光を当てた。


「傷は問題なく塞がっています。身体の動きにも異常はありません」


「じゃあ、もう戻っても?」


「ええ。午前中は支度に使い、午後から授業へ戻って構いません。ただし、激しい運動は今日一日控えてください」


 ようやく治療室から出られる。そのことには、素直に安心できた。


「魔法についても、低い出力であれば使用して問題ありません」


 だが、続いた一言に、キツキの返事はわずかに遅れた。


「……魔法も?」


「魔力の流れや身体への負担に、異常は確認されていません。最初から大きな魔法を使わなければ、問題はないでしょう」


「分かりました」


 口ではそう答えたものの、胸の奥がわずかに強張った。


 使える。


 少なくとも、身体の状態だけを見れば、もう魔法を使えない理由はなかった。


 それでも、術式を組もうと考えただけで、砕けた障壁の音が頭の奥に蘇った。


「体調に変化があれば、すぐに戻ってきてください」


「はい。ありがとうございました」


 治療術師に頭を下げ、キツキは寝台の脇に置いていた制服へ手を伸ばした。


 午後には、教室へ戻る。そして放課後には、昨日レニアと約束した最初の魔法が待っていた。


 そのことを思い出すと、強張っていた指から、ほんの少しだけ力が抜けた。



 午後の授業が始まる少し前、キツキは事件以来初めて、教室の扉を開けた。


 中に満ちていた話し声が、一瞬だけ細くなる。


 すぐに元のざわめきへ戻ったものの、向けられた視線までは消えなかった。無事に戻ったことへの安堵もあれば、訓練場で起きたことを確かめるような目もある。


 事件の瞬間を直接見ていない生徒にとって、キツキは依然として、何をしたのかよく分からない平民の新入生だった。


「キツキ!」


 その中で、最初に声をかけたのはブロムだった。


 立ち上がって近づいてくると、キツキの姿を上から下まで確かめる。


「もう歩いて平気なのか?」


「ああ。激しい運動は今日まで禁止だけど、授業に出る分には問題ないって」


「そうか。よかった」


 ブロムは素直に表情を緩めた。


 その言葉に促されたように、近くの生徒からも短い声が飛んでくる。


「もう大丈夫なのか?」


「傷、かなりひどかったんだろ?」


「まあ、見た目ほどじゃなかったらしい」


 実際には見た目どおりの重傷だったが、詳しく説明するつもりはなかった。


 キツキは曖昧に笑いながら、自分が以前座っていた場所へ向かう。その途中で、レニアと目が合った。


 彼女は何も言わなかった。ただ、キツキが自分の足で教室へ入ってきたことを確かめるように、わずかに視線を留めていた。キツキも小さく頷く。それだけで、昨日交わした約束が、2人の間に確かに残っていることが分かった。


 やがてガルドが教室へ入り、午後の授業が始まった。


 欠席していた分の内容は、レニアがまとめてくれた紙のおかげで追うことができた。教官が昨日の内容に触れるたび、対応する補足がすぐ目に入る位置に書き込まれている。


 改めて見ても、細く整った文字には柔らかな丸みがあり、どこか女の子らしい可愛らしさがあった。


 授業中に余計なことを考えている場合ではない。


 そう思いながらも、キツキは一度だけ、少し離れた場所に座るレニアへ目を向けた。


 彼女は黒板を見たまま、こちらには気づかなかった。



 午後の授業が終わると、生徒たちはそれぞれ帰り支度を始めた。


 キツキも資料をまとめていると、隣に人影が立つ。


「キツキ。今日の放課後、時間はあるかな?」


 顔を上げると、ブロムが立っていた。


「ああ、どうした?」


「よければ、一緒に鍛錬しないかと思ってね」


「鍛錬……」


「ああ。僕も試したいことがあるんだ。君が使った障壁についても、少し話を聞いてみたい」


 キツキが魔法を恐れていることを、ブロムは知らない。


 それでも、障壁の話を聞いた途端、胸の奥がわずかに強張った。


 それに、放課後にはレニアとの約束がある。


 断ればいい。


 ただそれだけなのに、鍛錬へ誘われた理由をどう説明すればよいのか、すぐには言葉が出てこなかった。


「今日は……」


 言いかけたまま、キツキは通路を挟んだ少し前へ目を向けた。


 自分の席で資料をまとめていたレニアも、いつの間にか手を止め、こちらを見ていた。


 ほんの一瞬、目が合う。


「彼は今日、私と先約があるの」


 レニアは席に着いたまま、何でもないことのように言った。


 教室の空気が、一拍遅れて揺れた。


 必要以上に誰かと関わろうとしなかった王女が、自分から平民の少年との先約を口にした。向けられた視線には、驚きも、詮索も、わずかな嫉妬も混じっていた。


 そのざわめきの中で、エリルだけが口元を隠すように頬杖をついた。


 細められた目は、また一つ面白いものを見つけたと語っていた。


「……先約?」


 ブロムも一瞬だけ目を丸くした。


 だが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。


「そうか。なら、また今度にしよう」


「ああ。悪い、ブロム」


「謝ることじゃないよ。君も戻ったばかりなんだ。無理はしない方がいい」


 ブロムはそれ以上理由を尋ねず、軽く手を上げて離れていった。


 キツキはその背中を見送ったあと、改めてレニアへ目を向ける。


「助かったよ」


「事実を言っただけよ」


 レニアは止めていた手を動かし、資料を鞄へ収めた。


「それより、早く支度をしなさい。時間を無駄にするつもりはないわ」


「ああ、分かった」


 キツキも慌てて残りの紙をまとめる。


 周囲の視線はまだ残っていたが、レニアは気に留める様子もなかった。



 放課後、レニアがキツキを連れてきたのは、基礎鍛錬区画に設けられた小さな個人練習室だった。


 石造りの室内は、壁と床に最低限の保護術式だけが刻まれた、低出力の魔法を試すための部屋だった。


 教室を出てからここへ来るまで、並んで歩く2人には何度も視線が集まっていた。


 警備担当を廊下に残して扉を閉めると、それもようやく途切れた。


「随分、見られてたな」


「気にする必要はないわ」


「レニアはそうかもしれないけどさ」


「あなたも気にしなければいいでしょう」


 簡単に言ってくれる。


 キツキが苦笑している間に、レニアは鞄を壁際に置いた。


「先に確認しておくけれど、治療術師からは何と言われたの?」


「低い出力なら魔法を使ってもいいって。激しい運動は今日まで禁止」


「なら、今日は一つの魔法を、無理のない範囲で試すだけにしましょう」


「成功するまでやるんじゃないのか?」


「あなたは今日、治療室を出たばかりなのよ」


 咎めるような赤い瞳を向けられ、キツキは言葉に詰まった。


 成功するまで何度も繰り返すのではない。


 まず魔法に触れ直す。レニアが昨日約束したのは、その最初の一歩を見届けることだった。


「……分かった。無理はしないよ」


「最初からそう言えばいいのよ」


 レニアは満足したように頷いた。


「それで、何を使いたいの?」


「決めていいのか?」


「あなたが使う魔法でしょう。私が勝手に決めてどうするの」


 言われてみれば、そのとおりだった。


 キツキは室内を見回した。


 攻撃魔法を試す気にはなれない。術式を思い浮かべただけで、あの魔力弾の光が頭をよぎった。


 いきなり恐怖の中心へ踏み込む必要はない。それでも、自分から選ぶのなら、意味のある魔法がよかった。


「レニアが使ってた、氷の壁」


「《氷壁》?」


「ああ。あのとき、魔力弾を止めようとして出してただろ」


 レニアはわずかに目を見開いた。


 キツキが、攻撃魔法ではなく、あの日彼女が使った防御魔法を選ぶとは思っていなかった。


「それを覚えたい」


「いきなりクラス3の《氷壁》を使うつもり?」


「駄目なのか?」


「駄目に決まっているでしょう。そもそも、あなたはクラス1なのよ」


 予想以上に早く否定された。


 正確には、キツキは術式さえ知れば、階級に関係なく魔法そのものは使える。ただし、今の身体から引き出せる出力はクラス1相当に制限されていた。


 その能力について、今ここでレニアに説明する必要はない。


 レニアは呆れたように息を吐くと、片手を胸の前に上げた。


「《氷壁》は、氷を出せば完成する魔法ではないわ。形と厚さを保ちながら、衝撃を受けても崩れないよう、全体に魔力を巡らせる必要があるの」


 掲げられた手のひらに、青白い魔力が集まった。


 冷気が広がり、その中心に薄い氷の板が形作られていく。


 大きさは、指先から手首までを覆う程度しかない。それでも表面は滑らかで、どこにも歪みは見当たらなかった。


「今日は、これを作るところから始めるわ」


「この小さいのを?」


「ええ。《氷壁》を作りたいのなら、まずはここからよ」


 キツキは浮かぶ氷板を見つめた。あの日の巨大な氷壁とは比べものにならないほど小さい。それでも、同じ魔法へ続く最初の形だった。


「術式は?」


「今からもう一度見せるわ。一度で覚えられなくても構わないから、よく見ていなさい」


 キツキは眼鏡をかけ、レニアの手元へ意識を向けた。


 レニアが氷板を消し、もう一度術式を組み始める。眼鏡は、その魔力の流れをいくつかの段階に分けて示した。


 細かな原理のすべてを理解したわけではない。それでも、どの順番で魔力を動かせばよいのかは分かる。


「分かったかしら?」


「ああ。多分、できる」


 レニアは返事の代わりに、わずかに目を細めた。


「見るのと、実際にやるのは違うだろ」


「分かっているなら、それでいいわ」


 レニアは作り出した氷板を消し、キツキの前から一歩下がった。


 近すぎず、それでも何かあればすぐに手を伸ばせる距離だった。


「急がなくていいわ」


 キツキは右手を持ち上げた。


 眼鏡が示した手順に従い、魔力を集め、手のひらほどの氷板を思い描く。あとは術式へ流し、外へ出すだけだった。


 それでも、魔力を外に出そうとした瞬間、指先がかすかに震えた。


 最後の一歩だけが踏み出せない。


 魔力を放とうとした途端、砕けた障壁の音が蘇った。


 あのときとは違う。


 今作ろうとしているのは、攻撃魔法でも、あの魔力弾を受け止める障壁でもない。手のひらほどの氷を形にするだけだ。


 そう分かっていても、身体は言うことを聞かなかった。


 集めかけた魔力が散り、何も生まれないまま術式が消える。


 静かな練習室に、キツキの浅い息だけが残った。


「……悪い」


「なぜ謝るの?」


「せっかく教えてもらったのに、何もできなかったから」


「何もできなかったわけではないわ」


 レニアは、震えの残るキツキの右手を見ていた。


「怖くても、あなたは魔法を使おうとしたでしょう」


 昨日、キツキは術式図に触れることさえためらっていた。それでも今は、自分の意思で魔力を外へ出そうとした。


「でも、手順は分かってる。今のも、間違ってなかったはずなんだ」


「なら、術式の問題ではないのでしょう」


 簡単に言い切られ、キツキは返す言葉を失った。


 レニアは、もう一度試すよう急かさなかった。


 成功するまで繰り返せとも、怖がる必要はないとも言わない。昨日約束したとおり、ただそこにいた。


 キツキは一度右手を下ろし、強く握っていた指をゆっくりと開いた。


「……もう一回だけ、やってもいいか?」


「ええ」


「今度も、何も出ないかもしれないけど」


「それでも見ているわ」


 迷いのない返事だった。


 顔を上げると、レニアは少し離れた場所に立ったまま、まっすぐキツキを見ていた。


 レニアは、できると決めつけることも、急かすこともなかった。ただ、キツキが自分で選ぶのを待っていた。


 その姿を見て、キツキは昨日の言葉を思い出した。レニアもまた、使うのが怖い魔法を抱えている。それでも今、こうして自分のそばで見守ってくれている。


 もう一度、右手を持ち上げる。


 眼鏡に示された手順をたどり、魔力を集めた。


 手のひらほどの薄い氷板を思い描く。だが、砕けた障壁の音がまた頭の奥で鳴り、指が震えた。魔力の流れも、今にも途切れそうになる。


 怖さは消えていなかった。それでも、レニアが見ていてくれる今、何もできないまま終わりたくはなかった。彼女の前で、もう一度だけ前へ進みたい。その思いが、恐怖をほんの少しだけ上回った。


 キツキは震える指先から魔力を外へ押し出した。青白い光がかすかに瞬き、冷気が手のひらを撫でる。その上に白い欠片が生まれ、最初は爪ほどしかなかったそれが、ゆっくりと形を広げていった。


 表面は歪み、厚さも揃っていない。レニアが見せたものとは比べものにならないほど頼りなかった。


 それでも、薄い氷の板は確かにそこにあった。


「……できた?」


 声にした瞬間、集中が途切れた。


 氷は細かな欠片となって崩れ、床へ落ちる前に淡い光へ変わって消えた。


 残ったのは、手のひらを包む冷たさだけだった。


「今の、できたってことでいいのか?」


 自信のない問いに、レニアはすぐには答えなかった。


 消えた氷ではなく、まだ震えの残るキツキの手を見ている。


 やがて赤い瞳がゆっくりと細められ、その顔に柔らかな笑みが浮かんだ。


「ええ。ちゃんと見ていたわ」


 キツキの息が止まった。


 それは、王女として人前で形を整えるための笑みではなく、レニアの内側からこぼれた、本物の笑顔だった。


 なぜ彼女がそんなふうに笑ったのか、その胸の内までキツキには分からない。けれど、その笑顔が今、キツキに向けられているということだけは分かった。


 胸の奥に、先ほど生まれた氷とはまるで違う熱が広がっていく。


 転生の際に望んだ、最高にかわいいヒロイン。


 曖昧な希望を勝手に受理した、得体の知れない仕組み。


 彼女は本当に、あの希望によってキツキの前に現れた「ヒロイン」なのかもしれない。


 だとしても、もう関係なかった。


 誰かに用意された出会いであろうとなかろうと、今、キツキの胸を奪ったのは、目の前で笑うレニアだった。


 可愛いと思うだけではない。「ヒロイン」として惹かれるのでもない。


 その笑顔を見た瞬間、キツキは初めて、本当の意味でレニア・フォルテアという少女に恋をした。


ここまで読んでくださってありがとうございます!


基本、毎日2話更新です!


続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、

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