第18話 もう一度、魔法を
翌朝、キツキは治療術師に見守られながら、寝台から降りた。
床に足をつけ、ゆっくりと立ち上がる。身体の奥にはまだわずかな重さが残っていたが、昨日までのような痛みはなかった。
「そのまま、部屋の端まで歩いてみてください」
「分かりました」
言われたとおりに数歩進み、窓際で向きを変える。足がもつれることも、傷が痛むこともなかった。
治療術師はキツキの歩き方を確認したあと、胸元と背中に薄い光を当てた。
「傷は問題なく塞がっています。身体の動きにも異常はありません」
「じゃあ、もう戻っても?」
「ええ。午前中は支度に使い、午後から授業へ戻って構いません。ただし、激しい運動は今日一日控えてください」
ようやく治療室から出られる。そのことには、素直に安心できた。
「魔法についても、低い出力であれば使用して問題ありません」
だが、続いた一言に、キツキの返事はわずかに遅れた。
「……魔法も?」
「魔力の流れや身体への負担に、異常は確認されていません。最初から大きな魔法を使わなければ、問題はないでしょう」
「分かりました」
口ではそう答えたものの、胸の奥がわずかに強張った。
使える。
少なくとも、身体の状態だけを見れば、もう魔法を使えない理由はなかった。
それでも、術式を組もうと考えただけで、砕けた障壁の音が頭の奥に蘇った。
「体調に変化があれば、すぐに戻ってきてください」
「はい。ありがとうございました」
治療術師に頭を下げ、キツキは寝台の脇に置いていた制服へ手を伸ばした。
午後には、教室へ戻る。そして放課後には、昨日レニアと約束した最初の魔法が待っていた。
そのことを思い出すと、強張っていた指から、ほんの少しだけ力が抜けた。
◇
午後の授業が始まる少し前、キツキは事件以来初めて、教室の扉を開けた。
中に満ちていた話し声が、一瞬だけ細くなる。
すぐに元のざわめきへ戻ったものの、向けられた視線までは消えなかった。無事に戻ったことへの安堵もあれば、訓練場で起きたことを確かめるような目もある。
事件の瞬間を直接見ていない生徒にとって、キツキは依然として、何をしたのかよく分からない平民の新入生だった。
「キツキ!」
その中で、最初に声をかけたのはブロムだった。
立ち上がって近づいてくると、キツキの姿を上から下まで確かめる。
「もう歩いて平気なのか?」
「ああ。激しい運動は今日まで禁止だけど、授業に出る分には問題ないって」
「そうか。よかった」
ブロムは素直に表情を緩めた。
その言葉に促されたように、近くの生徒からも短い声が飛んでくる。
「もう大丈夫なのか?」
「傷、かなりひどかったんだろ?」
「まあ、見た目ほどじゃなかったらしい」
実際には見た目どおりの重傷だったが、詳しく説明するつもりはなかった。
キツキは曖昧に笑いながら、自分が以前座っていた場所へ向かう。その途中で、レニアと目が合った。
彼女は何も言わなかった。ただ、キツキが自分の足で教室へ入ってきたことを確かめるように、わずかに視線を留めていた。キツキも小さく頷く。それだけで、昨日交わした約束が、2人の間に確かに残っていることが分かった。
やがてガルドが教室へ入り、午後の授業が始まった。
欠席していた分の内容は、レニアがまとめてくれた紙のおかげで追うことができた。教官が昨日の内容に触れるたび、対応する補足がすぐ目に入る位置に書き込まれている。
改めて見ても、細く整った文字には柔らかな丸みがあり、どこか女の子らしい可愛らしさがあった。
授業中に余計なことを考えている場合ではない。
そう思いながらも、キツキは一度だけ、少し離れた場所に座るレニアへ目を向けた。
彼女は黒板を見たまま、こちらには気づかなかった。
◇
午後の授業が終わると、生徒たちはそれぞれ帰り支度を始めた。
キツキも資料をまとめていると、隣に人影が立つ。
「キツキ。今日の放課後、時間はあるかな?」
顔を上げると、ブロムが立っていた。
「ああ、どうした?」
「よければ、一緒に鍛錬しないかと思ってね」
「鍛錬……」
「ああ。僕も試したいことがあるんだ。君が使った障壁についても、少し話を聞いてみたい」
キツキが魔法を恐れていることを、ブロムは知らない。
それでも、障壁の話を聞いた途端、胸の奥がわずかに強張った。
それに、放課後にはレニアとの約束がある。
断ればいい。
ただそれだけなのに、鍛錬へ誘われた理由をどう説明すればよいのか、すぐには言葉が出てこなかった。
「今日は……」
言いかけたまま、キツキは通路を挟んだ少し前へ目を向けた。
自分の席で資料をまとめていたレニアも、いつの間にか手を止め、こちらを見ていた。
ほんの一瞬、目が合う。
「彼は今日、私と先約があるの」
レニアは席に着いたまま、何でもないことのように言った。
教室の空気が、一拍遅れて揺れた。
必要以上に誰かと関わろうとしなかった王女が、自分から平民の少年との先約を口にした。向けられた視線には、驚きも、詮索も、わずかな嫉妬も混じっていた。
そのざわめきの中で、エリルだけが口元を隠すように頬杖をついた。
細められた目は、また一つ面白いものを見つけたと語っていた。
「……先約?」
ブロムも一瞬だけ目を丸くした。
だが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「そうか。なら、また今度にしよう」
「ああ。悪い、ブロム」
「謝ることじゃないよ。君も戻ったばかりなんだ。無理はしない方がいい」
ブロムはそれ以上理由を尋ねず、軽く手を上げて離れていった。
キツキはその背中を見送ったあと、改めてレニアへ目を向ける。
「助かったよ」
「事実を言っただけよ」
レニアは止めていた手を動かし、資料を鞄へ収めた。
「それより、早く支度をしなさい。時間を無駄にするつもりはないわ」
「ああ、分かった」
キツキも慌てて残りの紙をまとめる。
周囲の視線はまだ残っていたが、レニアは気に留める様子もなかった。
◇
放課後、レニアがキツキを連れてきたのは、基礎鍛錬区画に設けられた小さな個人練習室だった。
石造りの室内は、壁と床に最低限の保護術式だけが刻まれた、低出力の魔法を試すための部屋だった。
教室を出てからここへ来るまで、並んで歩く2人には何度も視線が集まっていた。
警備担当を廊下に残して扉を閉めると、それもようやく途切れた。
「随分、見られてたな」
「気にする必要はないわ」
「レニアはそうかもしれないけどさ」
「あなたも気にしなければいいでしょう」
簡単に言ってくれる。
キツキが苦笑している間に、レニアは鞄を壁際に置いた。
「先に確認しておくけれど、治療術師からは何と言われたの?」
「低い出力なら魔法を使ってもいいって。激しい運動は今日まで禁止」
「なら、今日は一つの魔法を、無理のない範囲で試すだけにしましょう」
「成功するまでやるんじゃないのか?」
「あなたは今日、治療室を出たばかりなのよ」
咎めるような赤い瞳を向けられ、キツキは言葉に詰まった。
成功するまで何度も繰り返すのではない。
まず魔法に触れ直す。レニアが昨日約束したのは、その最初の一歩を見届けることだった。
「……分かった。無理はしないよ」
「最初からそう言えばいいのよ」
レニアは満足したように頷いた。
「それで、何を使いたいの?」
「決めていいのか?」
「あなたが使う魔法でしょう。私が勝手に決めてどうするの」
言われてみれば、そのとおりだった。
キツキは室内を見回した。
攻撃魔法を試す気にはなれない。術式を思い浮かべただけで、あの魔力弾の光が頭をよぎった。
いきなり恐怖の中心へ踏み込む必要はない。それでも、自分から選ぶのなら、意味のある魔法がよかった。
「レニアが使ってた、氷の壁」
「《氷壁》?」
「ああ。あのとき、魔力弾を止めようとして出してただろ」
レニアはわずかに目を見開いた。
キツキが、攻撃魔法ではなく、あの日彼女が使った防御魔法を選ぶとは思っていなかった。
「それを覚えたい」
「いきなりクラス3の《氷壁》を使うつもり?」
「駄目なのか?」
「駄目に決まっているでしょう。そもそも、あなたはクラス1なのよ」
予想以上に早く否定された。
正確には、キツキは術式さえ知れば、階級に関係なく魔法そのものは使える。ただし、今の身体から引き出せる出力はクラス1相当に制限されていた。
その能力について、今ここでレニアに説明する必要はない。
レニアは呆れたように息を吐くと、片手を胸の前に上げた。
「《氷壁》は、氷を出せば完成する魔法ではないわ。形と厚さを保ちながら、衝撃を受けても崩れないよう、全体に魔力を巡らせる必要があるの」
掲げられた手のひらに、青白い魔力が集まった。
冷気が広がり、その中心に薄い氷の板が形作られていく。
大きさは、指先から手首までを覆う程度しかない。それでも表面は滑らかで、どこにも歪みは見当たらなかった。
「今日は、これを作るところから始めるわ」
「この小さいのを?」
「ええ。《氷壁》を作りたいのなら、まずはここからよ」
キツキは浮かぶ氷板を見つめた。あの日の巨大な氷壁とは比べものにならないほど小さい。それでも、同じ魔法へ続く最初の形だった。
「術式は?」
「今からもう一度見せるわ。一度で覚えられなくても構わないから、よく見ていなさい」
キツキは眼鏡をかけ、レニアの手元へ意識を向けた。
レニアが氷板を消し、もう一度術式を組み始める。眼鏡は、その魔力の流れをいくつかの段階に分けて示した。
細かな原理のすべてを理解したわけではない。それでも、どの順番で魔力を動かせばよいのかは分かる。
「分かったかしら?」
「ああ。多分、できる」
レニアは返事の代わりに、わずかに目を細めた。
「見るのと、実際にやるのは違うだろ」
「分かっているなら、それでいいわ」
レニアは作り出した氷板を消し、キツキの前から一歩下がった。
近すぎず、それでも何かあればすぐに手を伸ばせる距離だった。
「急がなくていいわ」
キツキは右手を持ち上げた。
眼鏡が示した手順に従い、魔力を集め、手のひらほどの氷板を思い描く。あとは術式へ流し、外へ出すだけだった。
それでも、魔力を外に出そうとした瞬間、指先がかすかに震えた。
最後の一歩だけが踏み出せない。
魔力を放とうとした途端、砕けた障壁の音が蘇った。
あのときとは違う。
今作ろうとしているのは、攻撃魔法でも、あの魔力弾を受け止める障壁でもない。手のひらほどの氷を形にするだけだ。
そう分かっていても、身体は言うことを聞かなかった。
集めかけた魔力が散り、何も生まれないまま術式が消える。
静かな練習室に、キツキの浅い息だけが残った。
「……悪い」
「なぜ謝るの?」
「せっかく教えてもらったのに、何もできなかったから」
「何もできなかったわけではないわ」
レニアは、震えの残るキツキの右手を見ていた。
「怖くても、あなたは魔法を使おうとしたでしょう」
昨日、キツキは術式図に触れることさえためらっていた。それでも今は、自分の意思で魔力を外へ出そうとした。
「でも、手順は分かってる。今のも、間違ってなかったはずなんだ」
「なら、術式の問題ではないのでしょう」
簡単に言い切られ、キツキは返す言葉を失った。
レニアは、もう一度試すよう急かさなかった。
成功するまで繰り返せとも、怖がる必要はないとも言わない。昨日約束したとおり、ただそこにいた。
キツキは一度右手を下ろし、強く握っていた指をゆっくりと開いた。
「……もう一回だけ、やってもいいか?」
「ええ」
「今度も、何も出ないかもしれないけど」
「それでも見ているわ」
迷いのない返事だった。
顔を上げると、レニアは少し離れた場所に立ったまま、まっすぐキツキを見ていた。
レニアは、できると決めつけることも、急かすこともなかった。ただ、キツキが自分で選ぶのを待っていた。
その姿を見て、キツキは昨日の言葉を思い出した。レニアもまた、使うのが怖い魔法を抱えている。それでも今、こうして自分のそばで見守ってくれている。
もう一度、右手を持ち上げる。
眼鏡に示された手順をたどり、魔力を集めた。
手のひらほどの薄い氷板を思い描く。だが、砕けた障壁の音がまた頭の奥で鳴り、指が震えた。魔力の流れも、今にも途切れそうになる。
怖さは消えていなかった。それでも、レニアが見ていてくれる今、何もできないまま終わりたくはなかった。彼女の前で、もう一度だけ前へ進みたい。その思いが、恐怖をほんの少しだけ上回った。
キツキは震える指先から魔力を外へ押し出した。青白い光がかすかに瞬き、冷気が手のひらを撫でる。その上に白い欠片が生まれ、最初は爪ほどしかなかったそれが、ゆっくりと形を広げていった。
表面は歪み、厚さも揃っていない。レニアが見せたものとは比べものにならないほど頼りなかった。
それでも、薄い氷の板は確かにそこにあった。
「……できた?」
声にした瞬間、集中が途切れた。
氷は細かな欠片となって崩れ、床へ落ちる前に淡い光へ変わって消えた。
残ったのは、手のひらを包む冷たさだけだった。
「今の、できたってことでいいのか?」
自信のない問いに、レニアはすぐには答えなかった。
消えた氷ではなく、まだ震えの残るキツキの手を見ている。
やがて赤い瞳がゆっくりと細められ、その顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
「ええ。ちゃんと見ていたわ」
キツキの息が止まった。
それは、王女として人前で形を整えるための笑みではなく、レニアの内側からこぼれた、本物の笑顔だった。
なぜ彼女がそんなふうに笑ったのか、その胸の内までキツキには分からない。けれど、その笑顔が今、キツキに向けられているということだけは分かった。
胸の奥に、先ほど生まれた氷とはまるで違う熱が広がっていく。
転生の際に望んだ、最高にかわいいヒロイン。
曖昧な希望を勝手に受理した、得体の知れない仕組み。
彼女は本当に、あの希望によってキツキの前に現れた「ヒロイン」なのかもしれない。
だとしても、もう関係なかった。
誰かに用意された出会いであろうとなかろうと、今、キツキの胸を奪ったのは、目の前で笑うレニアだった。
可愛いと思うだけではない。「ヒロイン」として惹かれるのでもない。
その笑顔を見た瞬間、キツキは初めて、本当の意味でレニア・フォルテアという少女に恋をした。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
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続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、
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