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第17話 怖いままでも

 治療棟に着くと、レニアは警備担当を廊下に残し、キツキのいる治療室へ向かった。


 扉の前には、昨日と同じ治療術師が待っていた。


「今日は目を覚ましています。ただ、まだ長時間のお話はお控えください」


「分かったわ」


 治療術師が扉を開け、レニアを中へ通した。


 窓から差し込む夕日は、昨日よりも低い位置から治療室を照らしていた。白い寝台の上では、キツキが枕に頭を預けたまま、窓の外を眺めている。


 扉の音に気づき、顔だけをこちらに向けた。


「……レニア?」


 その声には、隠しきれない驚きが混じっていた。


「何よ、その顔は」


「いや。昨日も来たから、今日は来ないと思ってた」


「私がいつ来るかは、私が決めることでしょう」


「それはそうだけど」


 キツキは何度か瞬きをしたあと、レニアの腕に抱えられた紙の束に目を向けた。


「それ、何だ?」


「今日の授業で使った資料よ」


 レニアは寝台の脇まで進み、置かれていた小卓に資料を載せた。


「ガルド教官から、あなたの分を預かったの」


「わざわざ持ってきてくれたのか」


「教室に戻るまで、そのままにしておくわけにもいかないでしょう」


 誰かが預かる必要があった。


 だから自分が預かった。


 レニアの中では、何度も繰り返してきた説明だった。


 キツキは上に置かれた資料を取り、その下に挟まれていた数枚の紙に気づいた。


「こっちは?」


「今日の授業内容をまとめたものよ。資料だけでは、教官が口頭で説明した部分までは分からないから」


「これ、レニアが書いたのか?」


「見れば分かるでしょう」


「いや、分かるけど……」


 キツキは紙に目を落とした。


 細く整った文字は読みやすく、ところどころに柔らかな丸みがあった。


 ――この子、字まで可愛いのか。


 そんな感想が浮かんだことに、キツキ自身が少し驚いた。


 授業で扱われた内容は順番に整理され、術式図の横には短い補足が書き加えられていた。教科書のどのページを見ればよいかまで、分かりやすく記されている。


 欠席した生徒に渡す記録としては、必要以上に丁寧だった。


「ここまでしてくれたんだな」


「授業についていけなくなれば、あとで困るのはあなたよ」


「そうだけどさ」


 キツキは紙を持ったまま、少しの間黙った。


 いつもの彼なら、礼を言う前に何か一言を挟んでいたかもしれない。だが今は、取り繕うより先に素直な言葉が口から出た。


「……ありがとう。本当に助かる」


 レニアは、わずかに目を見開いた。


 昨日のキツキは、言葉を返していても、どこか遠くにいるようだった。今日も資料を淡々と受け取るだけだと思っていた。


 こんなふうに、まっすぐ礼を言われるとは思っていなかった。


「その程度で大げさね」


「大げさじゃない。これがなかったら、教官が説明したところは分からないままだった」


「そういう意味ではなくて――」


 言いかけた言葉を、レニアは飲み込んだ。


 何を否定しようとしたのか、自分でもうまく説明できなかったからだ。


 キツキはそんなレニアを見て、わずかに口元を緩めた。


 昨日のように、意識が遠くへ沈んでいるわけではない。


 それでも、笑みはまだ普段よりも薄かった。


「じゃあ、ありがたく使わせてもらうよ」


「ええ。そのために持ってきたのだから」


 キツキは資料を膝の上に置き、最初のページを開いた。


 この日の授業は、初級魔法に用いられる基礎術式の構造についてだった。


 紙の中央には、魔力を外に流し、術式を形作るまでの経路が描かれている。その隣には、簡単な障壁を例にした図が添えられていた。


 ページを押さえていたキツキの指が止まった。


 紙の端が、かすかに震える。


 先ほどまで残っていた小さな笑みも、いつの間にか消えていた。


 レニアは何も言わず、その手を見つめた。


 キツキは震えに気づいたのか、紙から指を離した。


「……どうしたの?」


「何でもない」


 返事は早かった。


 だが、開かれた資料にもう一度触れようとはしなかった。


 紙の中央に描かれているのは、初歩的な障壁の術式にすぎない。昨日使った三重障壁とは構造も規模も違う。


 それでもキツキの目には、3枚の障壁に走った亀裂が浮かんでいた。


 甲高い破砕音。


 光の向こうから迫る魔力弾。


 次に魔法を使えば、また同じことが起きるのではないか。


 そんなはずはないと頭では分かっていても、身体が先に拒んでいた。


「傷が痛むの?」


「いや、傷は大丈夫だ」


「じゃあ、なぜ手を離したの?」


 キツキは答えなかった。


 誤魔化すための言葉を探したが、普段ならすぐに出ていたはずの軽口も浮かばない。


 レニアは急かさず、開かれた資料とキツキの顔を交互に見た。


 術式図を目にした途端に止まった指。浅くなった呼吸。紙に戻ろうとしない視線。


 昨日、彼が右手を見つめながら震えていたことを思い出す。


「魔法が、関係しているのね」


 問いかけではなかった。


 キツキは一度だけ目を閉じた。


 石床に叩きつけられた感覚も、障壁が砕ける音も、身体に衝撃が突き抜けた瞬間も、口にするつもりはなかった。


 それを話せば、レニアはきっと自分のせいだと思ってしまう。


 助けたことを後悔していないのに、そのことで彼女に新しい罪悪感を与えたくはなかった。


「……少しだけ」


 キツキは視線を資料に落としたまま言った。


「魔法を使うのが、怖いんだと思う」


 レニアには、それが少しだけではないことが分かった。


 術式図を見ただけで、彼の手は震えていた。傷の痛みを隠すときよりも、声がわずかに硬くなっている。


 けれど、レニアは「怖がる必要はない」とは言えなかった。


 そんな言葉で恐怖が消えないことを、知っていたからだ。


 銀色の髪の先を、薔薇色に染める炎。


 どの魔法よりも確実に応えてくれる、最も信頼している力。それでもレニアは、今なおその炎を恐れていた。


 そのことを知っているのは、母だけだった。誰かに話そうと思ったことさえない。


 それなのに、目の前で震える手を見ていると、何も知らない者のように振る舞うことはできなかった。


「……私にもあるわ」


 キツキが顔を上げた。


「何が?」


 レニアは一度、言葉を止めた。


 ここで黙れば、キツキはそれ以上尋ねないだろう。


 それでも、今度は視線を逸らさなかった。


「使うのが怖い魔法が、私にもあるの」


 キツキはしばらく何も言わなかった。


 レニアにも、魔法を恐れることがある。


 その事実を、目の前の彼女とすぐには結びつけられなかった。


 4つの属性を高い水準で扱い、実践訓練でも迷いなく魔法を放っていた。少なくともキツキの目には、彼女にも使うことを恐れる魔法があるようには、一度も見えなかった。


「レニアにも……?」


「ええ」


「どんな魔法――」


 そこまで口にして、キツキは言葉を止めた。


 レニアは自分から話してくれた。それでも、何を恐れているのかまでは言わなかった。


 聞かない方がいい。


 その意図が伝わったのか、レニアの張っていた肩から、わずかに力が抜けた。


「悪い。今のは忘れてくれ」


「別に、謝ることではないわ」


 レニアはそう答えたものの、続きを話そうとはしなかった。


 キツキも、もう尋ねなかった。


 短い沈黙が治療室に落ちる。


 怖い魔法があると明かしただけで、何かが解決したわけではない。キツキの指はまだ、開かれた術式図から離れたままだった。


 それでも、自分だけではないと知ったことで、胸の奥に張りついていたものがほんの少しだけ緩んだ。


「でも、レニアは……そんなふうには見えなかったけど」


「使えることと、怖くないことは同じではないわ」


 キツキは答えず、もう一度資料に目を落とした。


 レニアがどのようにその恐怖を抱えてきたのかは分からない。それでも、その言葉は、安易な慰めよりもずっと近くに感じられた。


「……俺も、また使えるようになるかな」


 声に出してから、ひどく弱いことを言った気がした。


 だが、レニアは笑わなかった。


「分からないわ」


 迷いのない返事だった。


 キツキが顔を上げる。


「そこは、大丈夫って言ってくれるところじゃないのか?」


「私が大丈夫だと言えば、あなたの恐怖がなくなるの?」


「……なくならないな」


「なら、無責任なことは言わないわ」


 冷たい言葉ではなかった。


 できると決めつけることも、今すぐ立ち直るよう求めることもせず、ただ今のキツキをそのまま見ていた。


 レニアは開かれた資料に視線を落とした。


「けれど、怖いままでも試すことはできる」


 キツキの指が、わずかに動いた。


 レニアは開かれた術式図を見つめたまま、すぐには次の言葉を続けなかった。


 ここから先は、キツキに求められたことではない。自分から誰かのために時間を差し出すことも、これまでのレニアにはほとんどなかった。


 一度だけ唇を結び、それからキツキを見た。


「復帰して、最初に魔法を使うとき……私が見ていてあげましょうか」


「……誰が?」


 考えるより先に、間の抜けた問いが口からこぼれた。


 レニアの眉がわずかに寄る。


「私以外に誰がいるのよ」


「いや、そうじゃなくて。聞き間違えたのかと思って」


 キツキはようやく言葉の意味を飲み込み、驚いたままレニアを見返した。


「本当に、いいのか?」


「私から申し出ているのよ」


「でも、レニアも色々と忙しいんじゃないのか?」


「時間くらい調整できるわ。それとも、私では不満なの?」


「そんなわけない」


 返事は、考えるより先に出ていた。


 レニアがわずかに目を見開く。


 キツキ自身も、その速さに少し驚いた。


 魔法を使うのは、まだ怖い。


 次に術式を組もうとしたとき、また身体が動かなくなるかもしれない。障壁が砕ける音も、迫ってきた光も、簡単には消えそうになかった。


 それでも、その瞬間にレニアがそばにいる。


 そう考えただけで、恐怖とは別の何かが胸の内に灯った。


「じゃあ……お願いするよ」


「ええ。明日、治療術師から許可が出たら、放課後に試しましょう」


「うん。頼むよ」


 レニアは小さく頷いた。その表情は、治療室に入ってきたときよりも、ほんの少しだけ柔らかかった。


 キツキは開かれた資料に、もう一度指を伸ばした。


 術式図を見れば、身体はまだ強張った。指先にも、かすかな震えが残っている。


 それでも今度は、紙から手を離さなかった。


 次に魔法を使うときは、もう一人ではない。



 日が沈み始めた頃、エリルとキュルはミザル西区の裏通りにいた。


 2人が入ったのは、看板も出ていない古道具屋だった。薄暗い店の奥では、くたびれた外套を羽織った男が待っていた。


「学生が来る場所じゃないぞ」


「私たちが学生に見えるなら、まだ目は悪くなってないみたいだね」


 昼間と変わらない軽い口調だったが、エリルの目に笑みはなかった。


 男は鼻を鳴らし、数字と記号の並んだ紙を卓上に滑らせた。


「頼まれていた件だ」


 エリルが紙を開く隣で、キュルは店の入口と奥の扉を確認した。


「学院の保守区画に入るための認証符が、事件の4日前に複製されてる」


「学院の認証符を?」


 キュルが短く聞き返す。


「ああ。本物は持ち主の手元にある。紛失届も出ていない」


「つまり、盗んだんじゃなくて、使える複製品が作られたってこと?」


「それを使えば、関係者を装って保守区画に入れる」


「持ち主も関わってる?」


「そこまでは分からん。本人が知らないうちに写された可能性もある」


「この取引を見つけるの、随分早かったね」


「以前から耳に入っていた話だ。昨夜お前から依頼を受けて、今回の件とつながった」


「買った人間は?」


「偽名だ。まだ追えていない」


 エリルは硬貨の入った小袋を卓上に置いた。


「なら、続きをお願い」


「深入りするなら気をつけろ。学院の設備に手を出せる人間だ。子供の遊びじゃ済まない」


「知らないままにしておく方が、私は気持ち悪いんだよね」


 エリルは暗号文を折り直し、制服の内側に入れた。


 それきり、店を出るまでキュルは口を開かなかった。


 外に出ると、細い路地には夜の影が落ち始めていた。


「学院が装置を調べるなら、私たちは認証符を買った人間を追おうか」


「うん」


 キュルはそれだけ答え、エリルより半歩前に出た。


 暗い路地の先と、背後の店へ一度ずつ視線を走らせる。エリルもその行動に何かを言うことなく、隣を歩き続けた。


「情報は、持っているだけじゃ役に立たないよ」


 エリルの口元に、昼間とは少し違う笑みが浮かんだ。


「相手より先に使わないとね」

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