第16話 それぞれの放課後
放課後になっても、実践訓練場に続く通路の封鎖は解かれなかった。
警備担当の向こうでは、術式技師たちが今も装置を調べていた。そのため、生徒が自由に使えたのは、魔導装置を必要としない基礎鍛錬区画だけだった。
石畳に引かれた白線の上を、ブロムが駆け抜ける。
身体を包んだ光が脚に集まり、踏み込むたびに速度を押し上げた。前方には、昨日レニアが立っていた位置に見立てた訓練用の杭がある。
その前に滑り込むと同時に、右手を突き出した。
「《光障壁》」
淡い光が広がり、杭を覆う。
だが、障壁が完全な形を取ったのは、ブロムがその場に到達してから一瞬あとのことだった。
遅い。
昨日の魔力弾が相手なら、その一瞬で間に合わなくなる。
ブロムは障壁を消し、呼吸を整えた。
「ブロム様、今日も頑張ってますね」
声をかけられて振り返ると、訓練着姿の女子生徒が立っていた。
「これ、よかったらどうぞ」
差し出されたのは、よく冷えた水だった。
「僕に?」
「ずっと走ってたでしょう。休憩も必要ですよ」
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたんだ」
ブロムが笑って受け取ると、女子生徒の表情も明るくなった。
「無理はしないでくださいね」
「ああ。気をつけるよ」
女子生徒は何度か振り返りながら、友人たちの待つ場所へ戻っていった。
こうして声をかけられることは珍しくない。
名門アステリオン家の出身で、光属性に高い適性を持ち、勇者候補にも選ばれている。人当たりもよく、誰に対しても態度を変えないブロムは、入学して間もない学院でもすでに多くの生徒に知られていた。
期待されることも、好意を向けられることも、昔から当たり前のようにあった。
ブロムは受け取った水を一口飲み、訓練用の杭を見た。
勇者候補。
その呼び名に恥じない自分でありたい。その思いは、今も変わっていない。
だからこそ昨日、最初に動けなかった事実が重かった。
勇者候補である以前に、同じ場所にいた1人の生徒として、殿下を守れなかった。
受け取った水は冷たいままだった。それなのに、その冷たさだけが急に遠のいた。
ブロムは水を白線の外に置き、もう一度開始位置に戻った。
今度は走り出す前から障壁を作る。
光の壁を維持したまま地面を蹴ったが、先ほどより明らかに足が遅い。障壁を崩さないことに意識を割けば、その分だけ身体の動きが鈍った。
途中で障壁を消し、もう一度やり直す。
先に走れば、障壁が遅れる。
先に障壁を作れば、辿り着くのが遅れる。
両方を同時に行えば、どちらも中途半端になった。
「……違うな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
障壁をもっと早く出せれば、結果は変わったのか。
もっと速く走れれば、キツキより先に殿下の前に入れたのか。
それとも、足りなかったのはそのどちらでもないのか。
ブロムには分からなかった。
昨日の自分は、魔力弾の軌道が変わったことには気づいていた。防御魔法を使おうともした。何もせず立ち尽くしていたわけではない。
だが、光を形にするより先に、キツキは走り出していた。
相手の威力も、自分の防御が間に合うかどうかも分からないまま。
あの行動を、ただ正しかったと言い切ることはできない。実際、キツキは重傷を負い、今も治療室から出られずにいた。
同じことを繰り返せば、次は助からないかもしれない。
それでも、彼が動かなければ、傷を負っていたのは殿下だった。
無謀だった。
だが、無意味ではなかった。
その2つは、同時に成立していた。
ブロムは再び走った。
障壁を小さくしてみる。作り始める瞬間を変えてみる。身体に流す光を脚だけに集中させ、少しでも早く杭の前に入ろうとする。
何度試しても、納得できる形にはならなかった。
やがて呼吸が乱れ、額から落ちた汗が石畳に小さな跡を作った。繰り返し走った脚は重くなり、障壁を作り続けた右腕にも震えが残った。
それでも、ブロムは止まらなかった。
何が足りなかったのか、まだ分からない。
速さか。
魔法か。
判断か。
あるいは、そのどれでもない何かなのか。
勇者候補と呼ばれる自分なら、何ができると思っていたのか。
そして実際には、何ができなかったのか。
答えが見つからないからこそ、今できることを一つずつ試すしかなかった。
ブロムは荒くなった息を一度だけ吐き、再び開始位置に立った。
右手に光が集まる。
同時に、脚にも力を巡らせる。
そしてまた、昨日は間に合わなかった距離を走り始めた。
◇
同じ頃、校舎から寮へ続く渡り廊下を、エリルとキュルが並んで歩いていた。
放課後の廊下には、教室を出た生徒たちの声がまだ残っている。けれど、歩く速度の遅い2人の周囲からは、少しずつ人の姿が減っていった。
「それでね、レニア姫ったら、キツキの資料を自分から預かったんだよ」
「そうなんだ」
キュルは前を向いたまま答えた。
「しかも、今日の授業内容まで別の紙にまとめてた。昨日まで、あんなにキツキのことを避けてたのにだよ?」
「へえ」
「もう少し驚いてくれてもいいと思うんだけどな」
「驚くところなの?」
「昨日までのレニア姫を見てたら、かなりね」
「そうなんだ」
「またそれ」
エリルは隣を見た。
キュルの表情には、驚きも興味もほとんど浮かんでいない。もっとも、それは普段から変わらなかった。
「キュル、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる」
「本当に?」
「レニア姫がキツキの資料を預かって、授業の内容もまとめてたんでしょ」
「そうだけど」
「なら、聞いてる」
それで会話を終えたつもりらしく、キュルは再び前を向いた。
エリルはしばらくその横顔を見たあと、小さく息を吐いた。
キュルがこういう返事しか返さないことなど、今に始まったことではなかった。意見を求めても滅多に長く話さず、興味がないように見えて、あとで聞いた内容だけはきちんと覚えている。
だからエリルも、返事を期待して話しているわけではなかった。
気になったことを口に出しながら、自分の考えを整理する。その隣にキュルがいることは、いつの間にか2人の間で当たり前になっていた。
「でも、責任を感じてるだけなのかな。助けてもらったから、放っておけないとか」
「かもね」
「それとも、昨日のあとに何か話したのかな」
「さあ」
どれだけ言葉を投げても、キュルは簡単に答えを決めなかった。
エリル自身も、まだ何かを断定するつもりはなかった。レニアがキツキをどう思っているのか、たった数日の言動だけで分かるはずもない。
ただ、昨日までとは違って見えた。
今は、それだけで十分だった。
「まあ、次に会ったときの反応を見れば、もう少し分かるかな」
「見るんだ」
「気になるもん」
「そう」
キュルは足を止めず、短く返した。
エリルはその横で、少しだけ目を細めた。
「キュルは気にならないの?」
「何が?」
「レニア姫とキツキ」
「別に」
「昨日、目の前であんなことがあったのに?」
キュルはそこで初めて、わずかに考えるような間を置いた。
「キツキが無事なら、それでいいんじゃない」
それだけ言うと、キュルはまた前を向いた。
エリルは一瞬だけ目を丸くしたあと、その背中を追った。
「やっぱり、ちゃんと聞いてるんじゃない」
「聞いてるって言ったよ」
「そういう意味じゃなくて」
「分からない」
「だろうね」
エリルは笑い、キュルの隣に戻った。
2人の会話は、最後まで噛み合っているようには見えなかった。
それでも、どちらかが歩みを速めることも、離れていくこともなかった。
◇
その少し前、放課後の鐘が鳴っても、レニアはすぐには席を立たなかった。
机の上には、自分の資料と、キツキのために預かった資料が並んでいた。キツキの資料には、授業中にまとめた数枚の紙も挟まれていた。
書き漏らしがないことを確かめ、順番を整える。最後にすべてを重ねると、1人分よりわずかに厚くなった束を腕に抱えた。
教室を出たところで、待機していた警備担当がレニアの後ろについた。
昨日の事件を受け、学院内での警備は増やされていた。教室への行き帰りだけでなく、放課後も、レニアが校舎内を移動する際には誰かが同行することになっていた。
普段なら、この時間に向かう場所は決まっている。
授業を終えたあとも訓練を重ね、夕食を挟んでから、その日の復習を行う。幼い頃から続けてきた習慣であり、学院に入ってからも変えるつもりはなかった。
才能があるからといって、努力を怠ってよい理由にはならない。むしろ、与えられたものが多いほど、それを磨かずにいることは許されない。
少なくとも、レニアはそう考えてきた。
だから、今日の鍛錬も休むつもりはなかった。面会時間に間に合うよう、始める時間を夕食後に移してあった。
それでも、自分の予定を誰かのために動かしたことなど、これまでほとんどなかった。
階段を下り、校舎の中央通路に出る。
正面には、複数の棟へ分かれる廊下が伸びていた。右に曲がれば、基礎鍛錬区画に続く道がある。
その角に近づいたところで、レニアの歩みがわずかに遅くなった。
昨日までなら、迷うことなどなかった。
だが、治療室への面会が許されていたのは、放課後から夕刻までの短い時間だけだった。先に鍛錬に向かえば、今日はもうキツキに会えない。
腕に抱えた資料の端が、わずかに歪んだ。
別に、今日でなければならない理由はない。
資料なら教師に預けてもいい。明日になってから渡したところで、授業に戻れるのはさらに先なのだから、困ることもないはずだった。
後ろを歩く警備担当が、わずかに視線を動かした。
「治療棟へ向かわれるのですか」
「ええ」
レニアはそれだけ答えた。
自分でも、なぜ今日のうちに行かなければならないのか、うまく説明できなかった。
ただ、昨日の別れ際に見たキツキの顔が、何度も頭に浮かんでいた。
言葉を交わしている間も、彼はどこか遠くを見ていた。
身体の傷だけではないものが、彼に残っていることには気づいていた。だが、それが何なのかも、自分に何ができるのかも、まだ分からない。
だからといって、何もしないままでいることもできなかった。
夕暮れの光が、腕に抱えた紙の端を淡く照らしていた。
レニアは、いつもなら曲がるはずの角を通り過ぎた。
腕の中には、2人分の資料があった。




