第15話 2人分の資料
翌朝、ギレル魔法学院では、昨日までと同じように授業が始まろうとしていた。
鐘は決められた時刻に鳴り、生徒たちは寮から教室に向かい、教師たちも普段どおりに廊下を行き交っている。けれど、学院の空気まで同じだったわけではない。
実践訓練場に続く通路は、夜のうちに封鎖されていた。
入口には警備担当が立ち、関係者以外の立ち入りを禁じている。その向こうでは、学院所属の術式技師や教師たちが、今も訓練装置の調査を続けていた。
入学式から昨日までの、わずか3日間。その短い間に、学院の設備はすでに2度も異常を起こしていた。しかも、2度目の事件では生徒1人が重傷を負っている。
その事実に、生徒たちの口が閉じるはずもなかった。
最後の魔力弾は、レニア姫を狙って軌道を変えたらしい。
新入生の男子が、それを庇って倒れた。
訓練用ではあり得ない威力だった。
装置には、誰かが細工をしていた。
朝のうちに広がった話には、確認された事実もあれば、誰かの推測がいつの間にか事実に変わったものもあった。
キツキへの評価も、一つには定まらなかった。
現場をはっきり見た者は、彼がレニアを庇ったことを疑っていない。一方で、混乱の中で一部始終を追えなかった者や、訓練場にいなかった者は、その行動をどう受け取るべきか決めかねていた。
尊敬と疑念。心配と警戒。
同じ噂を耳にしても、そこから受け取るものは人によって違っていた。
そして、噂のもう一方の中心にいたレニアにも、多くの視線が向けられていた。
露骨に責める者はいない。相手はフォルテア王国の第3王女であり、そもそも狙われた側でもある。軽々しく非難できる立場ではなかった。
ただ、何の意味も持たない視線でもなかった。
入学初日の適性検査に続き、またレニアの周囲で異常が起きた。
その偶然をどう受け取ればよいのか、生徒たち自身にも分かっていない。ただ、彼女の近くでは何かが起こる。その印象だけが、答えのないまま残り始めていた。
レニアは警備担当に付き添われ、教室に入った。
ざわめきが完全に止まることはなかった。それでも、彼女が通る間だけ、いくつかの声がわずかに低くなった。
レニアは誰とも目を合わせず、昨日までと同じ場所に向かった。
周囲の視線を無視し、普段どおりに腰を下ろして授業が始まるのを待つ。入学してからの3日間、レニアはそうして周囲との距離を保ってきた。
けれど、この日は座るより先に、その隣の机に目が向いた。
昨日、キツキが座っていた場所には、誰もいなかった。
彼が教室に来ないことは、入る前から分かっていた。少なくとも2日は安静にする必要があると、昨夜、治療室で本人から聞いていた。
それでも、空いたままの席を実際に見ると、胸の奥に小さな重さが落ちた。
昨日までなら、そこにキツキがいても、レニアは意識して視線を外していた。
今は、彼のいない席から目を離せなかった。
もっとも、その席を気にしていたのはレニアだけではない。
教室にいる生徒の多くが、昨日キツキの座っていた場所を一度は見ていた。
最後の一撃をはっきり目撃した者にとっては、彼が重傷を負った事実を突きつける空席だった。だが、位置や混乱のために一部始終を追えなかった者には、何が起きたのか判断しきれないままだった。
「本当に、レニア姫を狙って曲がったのか?」
教室の後方から、抑えた声が聞こえた。
「そう見えたって話だろ。俺の位置からじゃ、最後は障壁の光でよく見えなかったけど」
「なら、あいつが勝手に飛び込んだだけかもしれないじゃないか。最初から王女に近づこうとしてたとか」
露骨な悪意はなかった。
ただ、事実が見えなかった者ほど、空白を自分に理解できる理由で埋めようとする。命を懸けて他人を庇ったという話より、何か裏があったと考える方が納得しやすい者もいた。
「それは違うよ」
ブロムが口を開いた。
大きな声ではなかったが、教室に散っていた会話は少しずつ止まっていった。
ブロムは自分に集まった視線を気にする様子もなく、昨日の光景を思い返していた。
殿下の背後に向きを変えた魔力弾。
完成しきらなかった自分の光。
その間を、迷わず駆け抜けていったキツキ。
「彼は、最後の弾が殿下の方に曲がった直後には、もう走り出してた」
「でも、たまたま近くにいたから――」
「近くには僕もいたよ」
ブロムの返答に、続きかけた言葉が止まった。
「ガルド先生も、ほかの生徒もいた。それでも、最初に殿下の前に入ったのは彼だった。少なくとも、偶然巻き込まれただけじゃない」
それはキツキを英雄にするための言葉ではなかった。
ブロム自身、あの行動を正しいと無条件に認めているわけではない。相手の威力も、自分の防御力も分からないまま身体を投げ出したのだから、無謀だったことに違いはなかった。
ただ、あの場で動けなかった自分が、動いた彼の行動を憶測だけで疑うことは、ブロムにはできなかった。
「無茶だったとは思うけどね」
ブロムは一度、昨日キツキが座っていた場所を見た。
「僕に同じことができたかは、分からない」
静かな言葉だった。
だからこそ、軽い疑念だけで続いていた会話を止めるには十分だった。
教室から噂が消えたわけではない。キツキへの評価が、これだけで一つに決まったわけでもなかった。
それでも、現場を見た者の証言には、想像だけで作られた話を押し戻すだけの重さがあった。
レニアはブロムの方を見なかった。
礼を言う理由などないはずだった。ブロムは、見た事実を口にしただけだ。
それでも、膝の上で重ねていた指から、わずかに力が抜けた。
その小さな変化に気づいた者がいた。
レニアの隣に座るエリルは、頬杖をついたまま、彼女と空いた席を交互に眺めていた。
昨日までのレニアなら、周囲が何を話していようと、顔色一つ変えなかったはずだ。
少なくとも、エリルがこの3日間に見てきたレニアは、誰かの空席をあれほど長く見つめるような人物ではなかった。
何かが変わったように見えた。
それが昨日の事件だけによるものなのか、その後にも何かあったのかまでは分からない。
エリルはすぐには尋ねなかった。正面から聞くより、少し遠回しに触れた方が、レニアの反応を見られそうだった。
人から話を聞き出すには、正しい質問より、相手が反応せずにはいられない言葉を選ぶ方が早い。
エリルは口元にわずかな笑みを浮かべた。
もっとも、その機会は間もなく向こうから訪れることになる。
やがて始業を告げる鐘が鳴り、教室の扉が開いた。
入ってきたガルドは、普段より多くの書類を抱えていた。服装に乱れはなかったが、目元にはわずかに疲れが残っていた。昨日、キツキを治療室に運んだあとも、学院側との確認や装置の調査に追われていたためだ。
それまで残っていた小声も、ガルドが教卓の前に立つ頃には途絶えていた。
彼はすぐに授業を始めず、教室を一度見渡した。
「昨日の実践訓練について、現時点で伝えられることだけ話す」
誰も口を挟まなかった。
「まず、キツキの命に危険はない。治療もすでに終わっている。少なくとも今日と明日は安静が必要だが、経過に問題がなければ、その後は起き上がれる見込みだ」
教室の空気が、わずかに緩んだ。
現場でキツキの負傷を見ていた生徒ほど、その言葉を聞くまで安心しきれなかったのだろう。ブロムも小さく息を吐き、昨夜から残っていた緊張をようやく少しだけ解いた。
レニアは前を向いたまま、何も反応を見せなかった。
昨夜、すでに本人と話していた。命に危険がないことも、2日ほど動けないことも知っていた。
それでも、教室の中で改めて事実として告げられると、胸の奥に残っていた重さがわずかに和らいだ。
「次に、最後に発射された魔力弾についてだ。あれは通常の訓練弾ではない。正確な解析は終わっていないが、訓練で想定された上限を大きく超える出力が記録されている」
先ほどまでとは違うざわめきが広がった。
「装置には、本来の術式とは別の経路が組み込まれていた。誰が、いつ、何の目的で行ったのかは現在も調査中だ。したがって、現段階で事故とも意図的な犯行とも断定はしない」
事故ではないと決まったわけではない。
だが、偶然の故障として片づけられる段階でもなくなっていた。
「調査が完了するまで、実践訓練場と同型の装置はすべて使用を停止する。実技授業の内容も変更する。学院内の警備についても、今日から増員される予定だ」
学院は、少なくとも何もなかったように授業を続けるつもりではなかった。
その事実に安心する者もいれば、警備を増やさなければならないほどの事件なのだと、かえって不安を強めた者もいた。
「最後に一つ」
ガルドの声が、もう一度教室を静めた。
「昨日の件で責任を負うべきなのは、装置を管理していた学院側だ。狙われた可能性のある者にも、それを庇った者にも、責任はない」
誰の名も挙げなかった。
それでも、その言葉が誰に向けられているのかは、教室にいる全員が理解していた。
何人かの視線が、反射的にレニアに向かった。
レニアはその視線を受けても、俯かなかった。
「見た事実を話すことまで禁じるつもりはない。だが、確認されていない推測を事実のように広めるな。調査の妨げになるだけでなく、無関係な人間を傷つけることになる」
短い沈黙のあと、ガルドは教卓に書類を置いた。
「昨日の話は以上だ。今日の実技は座学に変更する。資料を後ろへ回せ」
事件が起きても、学院の時間そのものが止まるわけではない。
書類が列ごとに配られ始め、生徒たちは授業という日常に戻ろうとした。
だが、最後まで配り終えたあと、1部だけ行き先を失った資料が残った。
昨日、キツキが座っていた場所の分だった。
「欠席者の資料は前へ戻せ」
ガルドがそう告げると、最後列から余った資料が教卓に回され始めた。
レニアは、その1部が自分の横を通り過ぎようとするのを見ていた。
手を伸ばしたのは、考えをまとめるより先だった。
「それは、私が預かるわ」
資料を持っていた生徒が、驚いたように動きを止めた。近くにいた数人の視線も、レニアの手元に集まった。
自分から口を出したあとで、何をしているのだろうとは思った。
キツキの資料を誰が預かろうと、彼女には関係がない。回復して教室に戻れば、教師から新しいものを受け取ることもできるだろう。
それでも、差し出した手を引っ込める気にはならなかった。
ガルドはレニアと資料を一度ずつ見たが、理由を尋ねることはなかった。
「そうか。では頼む」
「はい」
受け取った資料を、自分のものの下に重ねた。
それだけの行動だった。
だが、隣で一部始終を眺めていたエリルにとっては、待っていた機会として十分だった。
授業が始まり、ガルドが教科書の該当箇所を黒板に書き始めてから間もなく、エリルは上体をわずかにレニアの方に傾けた。
「へえ。レニア姫が、彼の分まで預かるんだ」
声は、周囲の授業を邪魔しない程度に抑えられていた。
レニアは黒板に向けていた視線を動かさなかった。
「欠席しているのだから、誰かが預かる必要があるでしょう」
「うん。誰かがね」
わずかに含みを持たせた返事だった。
レニアはようやくエリルを見た。
「何が言いたいの?」
「別に。少し意外だっただけ」
「何が意外なのかしら」
「あなたが、誰かのことを自分から気にするのが」
からかうような口調ではあったが、悪意はなかった。
エリルが知りたいのは、キツキの資料を預かった理由ではない。その程度なら、昨日の事件に対する責任感でいくらでも説明できる。
彼女が見ていたのは、その話題を向けられたときのレニアの反応だった。
すぐに否定するのか。
無視するのか。
それとも、理由を探して言葉を選ぶのか。
「昨日、彼は私を庇って怪我をしたのよ」
レニアが選んだのは、誰にも否定できない事実だった。
「その程度のことをするのは、当然でしょう」
「その程度、か」
エリルはそれ以上追及せず、黒板に視線を戻した。
あっさり引き下がったことが、かえってレニアには引っかかった。けれど、授業中に問い返すほどのことでもない。
レニアも自分の資料を開き、ガルドの説明を書き留め始めた。
この日の授業は、初級魔法に使われる基礎術式の構造についてだった。教科書に載っている図だけではなく、ガルドは回路を組む順序や、初心者が崩しやすい箇所まで黒板に書き加えていった。
キツキは、この説明を聞いていない。
そう気づくと、普段なら自分に必要な部分だけを書き留めるレニアの手が止まった。
黒板に書かれていない補足まで、残しておいた方がよいのだろうか。
そこまで考えたところで、隣から小さな声が届いた。
「資料を渡すだけじゃ、今日の説明までは分からないよ」
エリルは黒板を見たまま言った。
レニアは一瞬だけ黙り、自分のノートに目を落とした。
「……なら、私がまとめておくわ」
「まだ誰も頼んでないけど」
「必要になるでしょう」
返事は、考える間もなく出ていた。
エリルが横目でこちらを見た。
その口元には、またわずかな笑みが浮かんでいた。
「そうだね。必要になるね」
何に納得したのかは言わなかった。
レニアも尋ねなかった。
ただ、自分のノートとは別に白紙を1枚取り出し、右上に日付と授業名を書き込んだ。
ガルドの説明を最初から拾い直した。気づけば、自分のためなら省いていた補足まで、白紙の上に書き加えていた。
昨日までなら、彼が授業を欠席しようと、自分には何の関係もなかった。
それなのに今、レニアの机の上には、2人分の資料が重ねられていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
基本、毎日2話更新です!
続きが気になる、また読みに来てもいい、と思っていただけましたら、
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