第14話 わからないまま
ガルドが治療室を出てから、およそ1時間が過ぎていた。
その間、キツキはほとんど寝台から動かなかった。
身体を動かせなかったというより、動こうという気になれなかった。魔法を使うのが怖い。その事実を自覚してからも、何をすればいいのかは分からないままだった。
1時間という時間は、傷ついた身体をわずかでも休ませるものにはなった。けれど、初めて知った恐怖を整理するには、あまりにも短かった。
一方、訓練場で狙われた可能性の高いレニアには、以前より厳重な警備がつけられていた。
身体と魔力の検査はすでに終わっている。追跡に使われる印も、不自然な魔力の痕跡も発見されなかったが、だからといって、すぐに単独行動を許せる状況ではない。
学院の警備担当に付き添われ、レニアは治療室へ続く廊下を歩いていた。
廊下の先に、目的の扉が見える。
それだけで、足取りがわずかに遅くなった。
ここへ来るまでに、何度も言葉を考えていた。
まず助けてくれた礼を言う。そのあと、以前の態度を謝る。そして、どうして今回も自分を助けたのかを聞く。
順番まで決めていた。
それなのに扉へ近づくほど、用意してきた言葉のどれもが薄っぺらく思えてきた。
ありがとう。
申し訳なかった。
そんな言葉だけで、彼が負った傷や味わった苦痛を埋め合わせられるはずがない。
治療室の前で、警備担当が足を止めた。
「私はここで待機いたします」
扉の脇に控えていた女性治療術師が、レニアへ一礼する。
「キツキさんは先ほど目を覚ましました。治療後の状態も安定しています」
「話はできるかしら」
「はい。ただ、まだ身体への負担が残っています。面会は短時間でお願いします」
「ええ、分かったわ」
即座に返事をしたものの、扉へ伸ばした右手は途中で止まった。
入学初日、自分はキツキに放っておいてほしいと言った。それからも、教室で目が合うたびに顔を背けていた。
そのくせ、彼が自分の代わりに傷ついた途端、こうして会いに来ている。
ひどく身勝手な行動に思えた。
扉の向こうにいるキツキが、自分をどう思っているのかも分からない。拒絶されたとしても、文句を言える立場ではなかった。
「レニア殿下?」
治療術師の声に、レニアは止めていた息を静かに吐いた。
「……入るわ」
扉を押し開ける。
夕暮れの光が差し込む治療室には、薬草に似た淡い匂いが残っていた。
窓辺では、背をわずかに起こした寝台に、キツキが身体を預けていた。
左肩から胸元までは、厚い包帯と固定具に覆われていた。訓練場で見た血はもう残っていない。それでも、傷の大きさまでは隠しきれていなかった。
レニアの足が、入口で止まった。
キツキは物音に気づき、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
普段より顔色が悪い。目は開いているのに、その視線は遠い場所から戻ってきたばかりのように見えた。
「……レニア」
名前を呼ばれ、胸の奥がわずかに揺れた。
レニアが彼の顔を見返すと、キツキは驚いたように何度か瞬きをした。
「来てくれたのか」
思いがけない訪問を確かめるような、静かな声だった。
そこに喜びがあったのか、レニアには分からない。ただ、普段なら続くはずの軽口はなかった。
「ええ」
それだけ返すのが精いっぱいだった。
用意してきた感謝も謝罪も、包帯に覆われた彼を前にした途端、何ひとつ言葉にならない。
沈黙が落ちた。
何か言わなければと思うほど、喉の奥が固くなる。レニアが入口に立ち尽くしていると、キツキは寝台の脇へ目を向けた。
「そこ、座れるよ」
小さな丸椅子が置かれていた。
「……ええ」
レニアは扉を静かに閉め、寝台のそばまで歩いた。
椅子へ腰を下ろしても、キツキとの間には、手を伸ばしても届かないほどの距離を残した。
「身体は……どうなの?」
「治療は終わった。自力で起き上がれるのは、早くても2日後らしい」
「そう」
「見た目ほど危なくはないよ」
安心させようとしたのだろう。
けれど、その声には普段のような軽さがなかった。口元に浮かびかけた笑みも、形になる前に消えてしまう。
見た目ほど危なくないはずがない。
左肩から胸元を覆う固定具も、少し姿勢を変えただけで寄せられた眉も、彼の言葉を否定していた。
それでもレニアは、何も言い返せなかった。
膝の上で重ねた両手に、知らず力が入る。
「助けてくれて……ありがとう」
最初に伝えると決めていた言葉だった。
ようやく口にできたはずなのに、やはりひどく足りないものに聞こえた。
キツキは少し間を置いてから、静かに答えた。
「レニアが無事なら、それでいいよ」
責める言葉はなかった。
レニアを責めるような目もしていなかった。
そのことに安堵するより先に、胸の奥が苦しくなった。
「ごめんなさい」
「何が?」
問い返され、レニアは顔を上げた。
キツキは本当に分からないような顔をしていた。
「私を庇ったせいで、あなたはそんな怪我をした。それに、入学初日も助けてもらったのに、私は……放っておいてほしいなんて言ったわ」
「あれは――」
キツキは何かを言いかけ、口を閉じた。
視線が一度だけ窓の方へ外れる。言葉を選んでいるようにも、考えをまとめる力が残っていないようにも見えた。
「怒ってないよ。君にも、何か理由があったんだろ」
責められると思っていたレニアは、思わず彼の顔を見返した。
こうして間近で見ると、整った顔立ちには、思っていたよりも少年らしい柔らかさが残っていた。
どこか可愛らしい。
そんな言葉が浮かんだことに、レニアは遅れて戸惑った。今は彼の顔立ちを眺めに来たわけではない。
それでも、目の前にいるのが英雄ではなく、自分と同じ17歳の少年なのだという事実だけは、急に重くなった。
そんな彼が、自分の代わりにあの魔力弾を受けた。
「それで済ませていい話ではないわ」
「……意外と頑固なんだな」
キツキはそれだけ言うと、再び窓の方へ視線を戻した。
からかうつもりはなかった。レニアを拒んでいたわけでもない。ただ今の彼には、これ以上言葉を選び、会話を続けるだけの力が残っていなかった。
けれど、そんな事情を知らないレニアには、窓へ逸らされた視線が、会話を終わらせたがっているようにも思えた。
それでも、ここで引き下がることはできなかった。
何を求めているのかさえ、自分でも分からないまま。
謝って許されたいのか。
礼を告げて、負った借りを少しでも軽くしたいのか。
それとも、キツキが自分を助けた理由さえ分かれば、胸の内に渦巻くものを整理できると思っているのか。
どれも違う気がした。
そもそも、自分は本当に助かりたかったのだろうか。
何もかもに疲れ、いっそ消えてしまえたらと思ったことは、一度や二度ではない。それなのに魔力弾が迫った瞬間、身体は炎を呼ぼうとした。
消えてしまいたいと願っていた自分と、生き延びようとした身体。
どちらを本心と呼べばよいのか、レニアにはまだ分からなかった。
ただ、自分ですら持て余している命のために、目の前の少年がこれほどの傷を負った。
その事実だけは、何事もなかったように受け入れられない。
考えようとするほど、疑問も感謝も罪悪感も絡まり、どれひとつ答えにはならなかった。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「どうして、また私を助けたの?」
キツキの表情が止まった。
「入学初日も、今日も。あなたは自分が傷つくかもしれないのに、迷わず私のところへ来た」
レニアは膝の上の手を握り締めた。
「前は、目の前で困っている人がいたからだと言ったわね」
「……うん」
「でも、そんな理由だけで、2度も命を懸けられる人がいるなんて、私には信じられない」
キツキはすぐには答えなかった。
窓から差し込む夕日はさらに傾き、彼の横顔に落ちていた光も、少しずつ薄れていく。
「前と同じだよ」
長い沈黙のあと、キツキは言った。
「危ないと思ったから、助けようとした」
「それだけ?」
「……分からない」
あまりに飾りのない返事に、レニアは言葉を失った。
それは誤魔化しではなかった。キツキ自身にも、まだ一つの言葉にまとめられないだけだった。
危ないと思った。助けたいと思った。
そこから先は、まだ彼にも分からない。
キツキは視線を落とし、寝具の上に置かれた右手を見つめた。
「考える前に身体が動いた。どうしてそこまでできたのかって聞かれても、今の俺にはうまく説明できない」
ゆっくりと開こうとした指先が、途中で止まった。
「でも、助けたことは後悔してない。それだけは本当だ」
その言葉に、レニアの胸の奥に張りついていたものが、わずかに緩んだ。
けれど、キツキは顔を上げなかった。
「ただ……」
右手の指先が小さく震え始めた。
「また同じことが起きたとき、同じように動けるかは、今は分からない」
静かな声だった。
レニアには、弱音を吐いているようにも、同情を求めているようにも聞こえなかった。ただ、キツキ自身も認めたくない事実を、そのまま口にしているようだった。
キツキの視線は、何もない右手の先に向けられていた。
そこに、砕けた障壁や迫る魔力弾が見えているかのように。
レニアは何も言えなかった。
助けたことは後悔していない。
けれど、自分を助けたことで、彼の内側にも確かな傷が残ってしまった。
その傷は、包帯で覆えるものだけではなかった。
「私が狙われたから、あなたは――」
「それは違う」
キツキが顔を上げた。
疲れの残る声だったが、その一言だけは迷わなかった。
「狙われた側が悪いわけじゃないだろ。悪いのは、あの弾を仕込んだ奴だ」
「でも、あなたが傷ついた事実は変わらないわ」
「それでも、レニアのせいじゃない」
はっきりと言い切られ、続けようとした言葉が喉の奥で止まった。
キツキが自分を責めていないからといって、何もなかったことにはできない。
その言葉にすがって、自分だけが楽になっていいとも思えなかった。
それでも、キツキが自分を恨んでいないことには、安堵してしまった。
感謝も、罪悪感も、安堵も、まだ何ひとつ綺麗な形にはならなかった。
やがて扉が軽く叩かれ、面会時間の終わりを告げる治療術師の声が聞こえた。
レニアは膝の上で握っていた手を、ゆっくりと開いた。
「前に、放っておいてほしいと言ったでしょう」
「……うん」
「あの言葉は、撤回するわ」
キツキが何度か瞬きをした。
レニアは、その反応を見ても視線を逸らさなかった。
「あなたを理解できたわけじゃない。今も、どうしてそこまでしてくれたのか分からないわ」
それどころか、自分が何を求めているのかさえ、まだ分かっていなかった。
「それでも、何も知らないまま、あなたを遠ざけるのはやめる」
言い終えた途端、急に恥ずかしさが込み上げた。
随分と勝手なことを言っている。
拒絶したのは自分なのに、今度は一方的にそれを撤回しようとしているのだから。
けれど、もう言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「……そっか」
キツキが返したのは、短い一言だけだった。
喜んでいるのか、戸惑っているのか、レニアには分からない。
ただ、寝具の上で強張っていた右手だけが、ほんの少し緩んだ。
レニアは椅子から立ち上がった。
「……時間を取らせたわね。もう休んで」
「うん」
扉まで歩き、取っ手へ手をかける。
「レニア」
背後から呼ばれ、レニアは振り返った。
「来てくれて、ありがとう」
キツキは寝台の上から、静かにこちらを見ていた。
赤い瞳と、彼の視線が重なる。
入学初日も、教室でも、先に顔を背けたのはいつもレニアだった。
理解できないものから離れることは、彼女が長いあいだ自分を守るために身につけてきた方法でもあった。
けれど今は、理解できないままでも、向き合うと決めた。
今度は、目を逸らさなかった。




