第13話 使える魔法と、出せる力
目を開けると、白い天井が淡い橙色に染まっていた。
窓から差し込む夕日が、治療室の壁や寝台に長い影を落としている。室内は静かで、遠くから聞こえる足音と、規則正しく時を刻む時計の音だけが耳に届いた。
キツキは何度か瞬きを繰り返し、ここがどこなのか思い出すより先に、身体を包む柔らかな寝具と、左肩から胸に残る重い痛みを認識した。
訓練場。三重障壁。砕けた光。
記憶が一気に戻り、呼吸が止まりかけた。
だが、目の前に魔力弾はない。身体も石床ではなく、治療室の寝台に横たわっている。
キツキはゆっくりと息を吐き、その途中で、自分が眠っていたことに気づいた。
訓練場から運び込まれたあと、折れた骨と傷ついた肺を治療された。意識を落とす魔法は最後まで効かなかったが、痛みが弱まり、治療が終わってからは自然に眠れたらしい。
苦痛や魔法では意識を手放せなくても、自然な睡眠まで奪われたわけではなかった。
そのことには、わずかに安堵した。けれど胸の奥はほとんど動かず、事実だけをどこか他人事のように受け止めていた。
右手を動かし、身体の状態を確かめる。
指先には力が入った。痛みは抑えられている。呼吸もできる。治療も終わり、こうして目も覚めていた。
けれど、左肩から胸にかけては固定具と厚い包帯に覆われ、少し動こうとしただけで鈍い痛みが返ってきた。
「っ……」
その痛みに重なるように、身体が石床に叩きつけられた感覚が蘇る。キツキはすぐに力を抜き、天井に視線を戻した。
「起きたか」
低い声が聞こえた。
顔だけを右に向けると、寝台から少し離れた椅子にガルドが座っていた。膝の上には数枚の書類が重ねられている。
「……先生」
「具合はどうだ」
「大丈夫です」
反射的にそう答えてから、少し遅れて考える。
大丈夫なのだろうか。
目を閉じれば魔力弾の光が浮かび、わずかな痛みだけで身体が強張った。
「そうは見えんな」
ガルドは書類から目を上げ、キツキの顔を見た。以前と同じ、遠慮のない物言いだった。
普段なら何か言い返していたかもしれない。だが今は、適当な軽口すら思いつかなかった。
「レニアは……」
自分でも驚くほど自然に、名前が口から出た。
「怪我はない。身体と魔力の検査も終わっている」
「そうですか……」
胸の奥に詰まっていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
訓練場で無傷の姿を見てはいた。それでも、改めて問題がなかったと聞けたことで、ようやく事実として受け取れた気がした。
「最後の弾は、フォルテアを狙った可能性が高い」
緩みかけた呼吸が、再び浅くなる。
「やっぱり、あれは事故じゃ……」
「現時点では断定できん。装置には通常の術式とは別の経路が組み込まれていたが、誰が、いつ仕込んだものかは調査中だ」
壁際から鋭く向きを変えた光が、キツキの脳裏に蘇った。
あのとき気づくのが遅れていたら。走り出すのが、あと一瞬でも遅れていたら。
痛みと恐怖の奥に沈んでいた怒りが、今になって込み上げてきた。
入学してまだ3日しか経っていない。それなのに、学院の装置はすでに2度も異常を起こし、そのたびにレニアが危険にさらされている。自分も今、治療室の寝台から動けない。
普段なら、相手が教師であることを考えて、もう少し言葉を選んでいたかもしれない。だが、今はそんな余裕がなかった。
「……この学院、入学して3日で装置が2回もおかしくなってるんですけど。管理、少し甘すぎませんか」
「否定はできんな」
ガルドは言い訳をせずに認めた。
「それに、どうしてレニアばかり――」
「その先は学院が調べる」
ガルドの声が、まとまりきらないキツキの考えを遮った。
「今のお前が考え続けても、答えは出ん。学院に任せろ」
「……分かりました」
納得したわけではなかった。それでも、今ここで考え続けたところで、答えにたどり着けないことだけは分かった。
キツキが黙り込むと、ガルドは膝の上に置いていた書類を持ち上げた。
「それより、お前には先に伝えておくことがある」
紙の上には、見慣れない数字と術式図が並んでいた。中央には、3枚重なった障壁らしき図も描かれている。
それを目にした瞬間、キツキの右手がわずかに強張り、甲高い破砕音が耳の奥に蘇りかけた。
「訓練場には、使用された魔法の構造と出力を記録する術式が組み込まれている。お前が最後に使った三重障壁についても、記録が残っていた」
ガルドはキツキの反応に気づいていたはずだが、説明を止めなかった。
キツキは包帯の巻かれた胸元に目を落とした。
3枚とも出た。
メガネも、術式は正常だと示していた。
それなのに、障壁は魔力弾を止められなかった。
「……何が、間違ってたんですか」
「術式の構造に間違いはない。3層すべて正常に形成され、それぞれをつなぐ魔力経路も機能していた」
思わず、ガルドの顔を見た。
「だったら、どうして……」
「問題は出力だ。お前の瞬間出力は、クラス1相当しか出ていない」
意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
「……クラス1?」
「ああ」
「でも、三重障壁はクラス3の魔法ですよね」
「術式の階級と、実際に出た力は別だ。完成した三重障壁に供給されていた総出力はクラス1相当で、その力が術式に従って3層に配分されていた」
キツキは書類に描かれた3枚の障壁を見つめた。
「じゃあ、1枚ずつの強さは……」
「通常の単層障壁よりも低い。複数の層を維持し、つなぐためにも力を使っているからな」
昨夜、三重障壁にどれだけ魔力を流し込もうとしても、厚さも輝きも変わらなかった。
あれは、すでに限界まで力を出していたからなのか。
「俺は……クラス3の魔法を使えたんじゃないんですか」
「使えてはいる」
ガルドは否定しなかった。
「そもそも、通常はクラス1の回路でクラス3の術式を完成させること自体ができん。必要な経路を維持できず、形成の途中で崩れる」
記録をなぞっていたガルドの指が、3枚目の障壁の上で止まった。
「だが、お前は3層すべてを形成し、最後まで術式を成立させた。少なくとも、学院の記録には同じ例がない」
「それなら……」
「クラス3の術式を扱えることは事実だ。異常と言っていい。だが、そこに流せる力はクラス1までだ。上位の術式を使えることと、上位の威力を出せることは別だ」
「構造はクラス3で、出力はクラス1……」
「そういうことだ」
胸の奥に、重いものが沈んでいく。
願ったのは、すべての魔法を使える力だった。
実際、三重障壁は発動した。3枚とも形になり、メガネも術式が正常だと示していた。
嘘ではなかった。
ただ、肝心なことが何も説明されていなかっただけだ。
「保有する魔力量と、一度に外へ出せる出力は別物だ」
ガルドが続けた。
「どれだけ多くの魔力を持っていても、回路が通せる量を超えて一度に放つことはできん。どれほど魔力を流そうとしても、回路の上限を超えた分は術式に届かない」
キツキは右手を見つめた。
魔力は、まだ胸の奥にあった。三重障壁を使ったあとも、減ったような感覚はない。
だが、どれだけ残っていても、一度に外へ出せる量がクラス1なら、その意味は大きく変わる。
底の見えないほど大量の水があっても、出口が細ければ流れ出る量は増えない。
なら、炎や雷の威力だけではなく、ほかの魔法もすべてクラス1相当に留まるのだろう。
使える魔法は、すべて。
出せる力は、クラス1。
「……それ、先に説明してくれよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
ガルドは何も聞き返さず、別の書類を手に取った。
「最後に飛んだ魔力弾についても、記録を確認した。正確な値はまだ解析中だが、少なくともクラス4相当の出力があった」
「クラス4……」
キツキの喉がわずかに詰まった。
自分が防ごうとしたのは、クラス1の訓練弾ではなかった。
「お前の障壁では、正面から防ぎ切れなくて当然だ。ただし、無意味だったわけでもない。3層が順番に砕けたことで、魔力弾の威力は確実に削られている。障壁がなければ、今よりはるかに深い傷を負っていた」
左肩から胸に残る鈍い痛みが、急に輪郭を取り戻した。
あれ以上。
想像しようとしただけで、身体が強張った。
「フォルテアに直撃していた場合も、重傷は避けられなかっただろう」
その言葉に、レニアが炎を形にしようとしていた姿が浮かんだ。
あと一瞬遅ければ、彼女があの光を受けていた。
守れた。
それだけは、間違いない。
なのに、安堵より先に、自分の身体に衝撃が叩き込まれた感覚が蘇った。
「それと、キツキ」
名前を呼ばれ、キツキはゆっくり顔を上げた。
「教師として、これからも同じ真似をしろとは言えん。自分の防御力も相手の威力も分からないまま飛び込んだ。無謀だったと言わざるを得ない」
「……はい」
「だが、そのおかげでフォルテアは助かった」
ガルドはまっすぐキツキを見ていた。
「あの異常に最初に気づき、危険だと断定できる前から走り出した。実際に自分の身体を張れる人間は多くない。誰にでもできる行動ではない」
少し間を置いたあと、ガルドは一度だけ視線を書類に戻した。
「俺は、そういう奴は嫌いじゃない」
それは、ガルドがキツキに対して初めて口にした、個人的な評価だった。
キツキは、その意味を少し遅れて受け取った。
自分の行動を認められている。レニアを守ったことも、確かに評価されている。だが、ガルドの言葉は胸の奥まで届かなかった。
「今日はもう休め。詳しい検査と今後の授業については、身体がもう少し回復してから話す」
ガルドは書類をまとめ、椅子から立ち上がった。
「何かあれば、治療術師を呼べ」
「……分かりました」
扉が閉まり、治療室に静けさが戻った。
ガルドがいる間は、どうにか問いかけに答えられていた。だが、独りになった途端、抑え込まれていた震えが再び指先へ戻ってきた。
キツキは右手を持ち上げた。
昨夜は、この手から初めて障壁が生まれたことが嬉しかった。次はどんな魔法を覚えようかと考えるだけで、胸が高鳴った。
今は違う。
魔力を動かし、もう一度障壁を出す自分を想像する。
それだけで右手が強張り、3枚の障壁に亀裂が走る光景が脳裏に浮かんだ。その向こうから、止められなかった魔力弾が迫ってくる。
身体は治療されている。今、目の前に危険はない。
頭では、分かっていた。
それでも、静まり返った治療室では、自分の浅い呼吸と、震える指先が包帯を擦る音ばかりがやけに大きく聞こえた。
「……」
何かを言葉にしようとして、喉がわずかに動いただけだった。
魔法を使うのが、怖かった。




