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第12話 残された音

 その最悪の考えが頭から離れないまま、いくつもの足音がキツキの周囲に集まってきた。


「聞こえるか?」


 すぐ近くで、ガルドの低い声がした。


 返事をしようとしたが、浅く息を吸っただけで胸の奥に激痛が走った。喉から漏れたのは、かすかな吐息だけだった。


「無理に話すな。目だけで答えろ」


 キツキは固く閉じていた瞼を持ち上げた。


 視界に入ったガルドの輪郭は、少しも霞んでいなかった。その向こうでは、訓練場に駆け込んできた数人の治療術師が、慌ただしく道具を広げていた。


 白い外套をまとった女性がキツキの隣に膝をつき、左肩から胸元に手をかざす。淡い緑色の光が身体をなぞった。


「左の鎖骨と肋骨が複数折れています。胸部にも損傷。肺にも負荷がかかっている可能性があります」


「助かるか?」


「今すぐ治療を始めれば。ただ……」


 女性の声が、わずかに揺れた。


「出血が止まっています」


 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。


 傷口は開いたままだった。左肩から胸にかけて訓練着は破れ、その下には焼けた皮膚と傷が残っていた。それなのに、流れていた血だけが不自然に止まり、それ以上は一滴も流れ出していなかった。


 別の治療術師が胸元に光を当て、険しい表情を浮かべた。


「容体も悪化していません。これだけ損傷しているのに、脈も呼吸も一定のままです」


「治癒しているのか?」


「いいえ。傷はそのままです。治っているのではなく……これ以上、悪くなっていないだけです」


 治療術師たちの言葉はすべて耳に入っていたが、意味を理解するまでに少し時間がかかった。


 やはり、健康な身体のせいなのだろう。


 壊れた身体を治してくれるわけではない。ただ、死なない状態で無理やり固定している。


 痛みも一緒に残したまま。


 その考えにたどり着いた途端、左半身を焼き続ける感覚が急に強くなった気がした。キツキの呼吸がわずかに乱れる。


「大丈夫です。今から意識を落とします」


 女性の治療術師が、安心させるように声を落とした。


 その言葉だけは、すぐに理解できた。


 ようやく、この痛みから逃れられる。


 額に柔らかな光が触れ、温かな魔力が頭の内側に染み込んでくる。張り詰めていた身体から、少しずつ力が抜けていった。


「そのまま目を閉じて。すぐに眠れます」


 キツキは言われたとおり瞼を閉じた。


 暗い。


 だが、それだけだった。


 治療術師の呼吸も、衣擦れの音も、遠くで誰かが泣いている声も、すべて変わらず聞こえていた。


 意識は沈まない。


 むしろ、今度こそ眠れると期待した分だけ、失敗したことがはっきりと分かった。


 治療術師は額に触れたまま、術式に流す魔力をわずかに強めた。それでも意識は少しも沈まず、額に添えられていた指がほんの一瞬だけ止まった。


「……効いていない?」


 女性の戸惑った声が聞こえ、胸の奥が冷たくなる。


 やはり駄目だった。


 傷の痛みでも、精神的な衝撃でも、魔法でも、意識を手放すことはできない。


 キツキが目を開くと、治療術師と視線が合った。その顔には、隠しきれない困惑が浮かんでいた。


「もう一度――」


「いや」


 ガルドが即座に止めた。


「効かない術式を重ねるな。鎮痛と局所麻酔に切り替えろ」


「分かりました」


 女性はすぐに表情を引き締め、キツキの胸元に両手をかざした。


「意識は残りますが、痛みは抑えられます。少しだけ耐えてください」


 淡い青色の光が、左肩から胸にゆっくりと広がっていく。


 最初は何も変わらなかったが、しばらくすると、焼けつくようだった痛みの輪郭が少しずつぼやけ始めた。呼吸をするたびに胸の奥を引き裂いていた感覚も、鋭い痛みから重い圧迫感に変わっていく。


 意識は残ったままだった。それでも痛みが弱まるだけで、ようやく周囲を見る余裕が生まれた。


 少し離れた場所に、レニアが立っていた。


 薔薇色に染まっていた毛先は、すでに銀色へ戻り始めている。顔色は白く、両手は強く握り締められていた。赤い瞳が、まっすぐキツキに向けられている。


 視線が合い、レニアの唇が動きかけた。


「レニア姫は下がってください。今は治療を優先します」


 治療術師に遮られ、レニアは何も言えないまま足を止めた。キツキも声を出せなかった。


 彼女が無傷で立っている。


 それだけは分かった。


 安堵したはずなのに、胸の中には何も広がらなかった。代わりに、3枚の障壁が順番に砕けていく音だけが、耳の奥でもう一度響いた。


「担架を」


 ガルドの声に応じ、治療術師たちがキツキの身体の周囲に固定用の術式を展開した。


「今から治療室に運びます。身体はこちらで支えるので、動こうとしないでください」


 光の膜が背中と首を包み、身体がゆっくりと床から持ち上げられる。揺れはほとんどなかったが、それでも左肩がわずかに動いただけで、抑えられたはずの痛みが奥から蘇り、キツキの身体が小さく強張った。


「痛みますか?」


 問いかけられてから、返事をするまでに少し間が空いた。


「……少し」


 声は、思ったより普通に出た。だからこそ、痛みが薄れた今も、自分の中ではまだ最後の障壁が砕け続けていることなど、誰にも分からない気がした。


 担架は治療術師たちに囲まれたまま、訓練場の出口に運ばれていった。



 担架が訓練場の出口に消えても、レニアはその場から動けずにいた。


 治療術師たちに囲まれたキツキの姿は、もう見えない。それでも、石床に叩きつけられた音だけが、耳の奥に残り続けていた。


「レニア姫、お怪我はありませんか?」


 近くにいた女生徒から声をかけられ、レニアはわずかに遅れて顔を向けた。


「……ええ。問題ないわ」


 そう答えた声は、普段と変わらなかった。


 周囲では、残っていた治療術師が軽傷者の状態を確認していた。足をひねった者や、転倒して腕を擦った者はいるものの、キツキ以外に大きな怪我を負った生徒はいないらしい。


 ブロムは怯えた生徒たちに声をかけ、訓練場の端に誘導していた。エリルも座り込んだ者をまとめ、そのすぐそばではキュルが装置から目を離さずに立っていた。


 誰もが、すでに次にすべきことを始めていた。


 レニアだけが、キツキの倒れていた場所を見つめていた。


 焦げた石床にはわずかな血の跡が残り、その手前には、砕けた三重障壁の残光が消えかけた光の粒となって漂っていた。


 3枚とも、確かに形成されていた。


 それでも魔力弾は止まらず、キツキの身体に叩き込まれた。


 最後の瞬間が、何度も脳裏に蘇る。


 背後から迫る光。反射的に持ち上げた右手。炎が形になるより先に、自分の前へ滑り込んだ黒髪の少年。


 ――どうして、また彼が。


 入学初日、キツキは結界の中へ飛び込んできた理由を、「目の前で困っている人がいたから」と答えた。


 理由は聞いていた。けれど、そんな一言だけで、自分の身を危険にさらせる人間がいるとは、どうしても信じられなかった。


 まして自分は、礼を言うどころか、放っておいてほしかったと彼を突き放した。普通なら距離を置かれて当然だった。


 それなのに、これで2度目だ。


 まともに言葉を交わしたことすらない。自分が視線を避けていたことにも、きっと気づいていたはずだ。


 それでもキツキは、今回も迷わず自分の前に立った。


 あの魔力弾が危険だということくらい、分かっていたはずだ。


 レニアは無意識に右手を握り締めた。炎を生みかけた掌には、まだわずかな熱が残っていた。


 だが、間に合わなかった。


 もしキツキが飛び込んでいなければ、石床に倒れていたのは自分だった。


 レニアは出口に足を向けた。


「私も治療室に行きます」


「フォルテア、お前は待て」


 低い声に止められ、レニアは振り返った。


 ガルドは壊れた射出装置の前に立ち、警備担当に周囲を封鎖するよう指示していた。すでに訓練場の出入口には学院職員が配置され、誰も装置や壁際に近づけないよう動き始めていた。


「なぜですか」


「最後の1発は、お前を狙った可能性がある。まず身体と魔力に、追跡の印や不自然な痕跡が残っていないか調べる」


「私に怪我はありません」


「怪我の有無だけの話ではない。検査が終わるまで単独で動くな。警備担当と別室に移れ」


「ですが、キツキは――」


「治療術師に任せろ。今のお前が追いかけても、できることはない。容体が分かり次第、必ず伝える」


 反論しようとして、言葉が止まった。


 正しい判断だと分かっていても、キツキから離れることには納得できなかった。


 今から治療室に向かったところで、傷を治せるわけではない。むしろ自分が動けば、護衛や警戒の手間を増やすだけかもしれない。


 レニアは従うほかなかった。


 近づいてきた警備担当に促されながら、レニアは担架が消えた出口へ、もう一度視線を向けた。


 キツキに、聞かなければならない。


 けれど、何を。


 どうして、また自分を助けたのか。放っておいてほしいと突き放した相手を、なぜ今度は命を懸けてまで守ったのか。


 その疑問を追いかけようとした途端、別の考えが割り込んだ。


 あの魔力弾は、なぜ自分を狙ったのか。誰が仕組んだのか。


 真っ先に脳裏へ浮かんだのは、姉たちの派閥だった。だが、疑うだけの証拠はない。そもそも今は、冷静に考えを整理することすらできなかった。


 それよりも、キツキは本当に助かるのか。


 もし、このまま戻ってこなかったら。


 理由を確かめることも、助けてくれた礼を伝えることも、あの日の言葉を謝ることさえできない。


 疑問も、疑念も、後悔も、次々と浮かんでは絡まり、何ひとつ答えの形にならなかった。


 訓練場にキツキの姿はもうない。


 それでもレニアの耳には、彼の身体が石床に叩きつけられた音だけが、いつまでも残り続けていた。  

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