第143話 ……でっっか
プライムフォーラムへの出発を翌日に控えた午後、レニアは研究室を出たところで声をかけられた。
「殿下、少々よろしいでしょうか」
振り返ると、そこにはセドリックがいた。
レニアは先ほどまでキツキと、提出済みの研究の細かな調整や発表内容の確認をしていた。研究室の前で別れたところを、セドリックも見ていたのだ。
「……何かご用ですか?」
正直、あまり話したくない相手だった。どうせまたろくでもない話だろうと思いつつ、レニアは表情に出さないようにしていた。
「ええ。明日のプライムフォーラムのことなのですが……」
セドリックは一度言葉を切った。
「キツキ……あの男には、くれぐれもお気をつけください」
レニアはわずかに眉を寄せた。
「以前から申し上げていることですが、あの男の素性はいまだにはっきりしておりません。それなのに、今回のプライムフォーラムにまで参加するというのは……」
「それが何か?」
「失礼ながら、正当な方法で参加資格を得たとは到底思えないのです。何かしらの手を使ったに違いありません」
あまりに断定的な言い方に、レニアは少し呆れた。
「……何か証拠でもあるのですか?」
「それは……」
「キツキは正式な参加資格を得ています。そこに不正はありません」
「ですが、殿下。どのような経緯で資格を得たのか、ご存じなのですか?」
「知っています。ですが、その詳細をあなたに説明するつもりはありません」
セドリックは一度口を閉じたが、それでも引き下がろうとはしなかった。
「……ですが、仮に参加資格が正式なものだったとしても、あの男を信用できるとは限りません。プライムフォーラムは各地から多くの人が集まる公の場です。あのような素性の知れない者を、殿下のそばに置くのは危険です。やつがわざと殿下のお立場を損なうような真似をするかもしれません」
その言葉に、レニアの目がすっと冷たくなった。
「キツキはそんなことをする人ではありません」
その声には、先ほどまでになかった鋭さがあった。
「根拠もないのに、彼をそのように決めつけないでください」
「しかし、殿――」
「お話がそれだけでしたら、失礼します。明日の準備もありますので」
レニアは会話を切り上げ、その場を離れた。
残されたセドリックは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
本来は、出発を控えたレニアに激励の言葉をかけるつもりだった。ところが、キツキと親しげに別れるように見えたことで、以前から抱えていた不満が抑えられなくなってしまった。
結局、激励どころか、レニアを怒らせてしまっただけではないか。そう思うと、今さらながら自分の振る舞いが悔やまれた。
一方のレニアは、いつもより少し足早に廊下を歩いていた。あれほど勝手なことを言われては、さすがに気分も悪い。
キツキがわざと自分に恥をかかせるなど、考えられなかった。
◇
レニアと別れたキツキは、研究室を離れてまもなくブロムとすれ違った。
「明日は頑張ってきてね」と応援してくれたうえに、出発前に英気を養っておこうと、食堂で食事までおごってくれたのだ。
おかげで腹も満たされ、すっかりいい気分になったキツキが学院の共用スペースを通りかかると、エリルとキュルが並んで話していた。
「あ、キツキ」
エリルが軽く手を挙げ、にやりと笑った。
「いよいよ明日だね~。どう、緊張してるんじゃないの?」
からかうような口調に、キツキは少し面倒くさそうな顔をした。
「そういうお前はどうなんだよ」
「えー、私は別に――」
エリルが答えている途中で、隣にいたキュルがキツキの方へ歩み寄った。
「……キツキ」
「ん?」
キュルは服のポケットに手を入れると、ごそごそと何かを取り出した。
小さな手をキツキに向けて差し出す。そこには、透明な包み紙に包まれた水色の飴が1つ乗っていた。
「ファイト」
キツキは少し驚きながら飴を受け取り、キュルの顔を見た。
「キュル……ありがとな」
キュルが小さく頷く。なんだか嬉しくなって、キツキも笑った。
エリルはそんな2人を、にこやかに見守っていた。
その日の夜、キツキは自室で明日の荷物をまとめていた。
プライムフォーラムでは、大勢の人を前に研究を発表するのだと聞いている。多少の緊張はあったが、初めて乗る飛行船や、まだ見ぬ学究都市カルネアへの期待の方が大きかった。
必要なものを一通り詰め終えたところで、ズボンのポケットに何か入っていることに気づいた。
「あ、そういえば」
取り出してみると、昼間キュルからもらった飴だった。
別に今ここで食べてしまってもいいのだが、なんとなく、その気になれなかった。
「……お守りみたいなもんかな」
自分でも少し変な気がしたが、キツキは飴を出発用の荷物へしまった。
これで準備はひとまず終わりだ。
明日はいつもより早く起きないといけない。そう思って寝る支度を始めたものの、明日のことを考えると、なんだか落ち着かない。楽しみな気持ちが先に立って、すぐには眠れそうになかった。
◇
翌朝、キツキが集合場所へ向かうと、すでにレニアやエリルの姿があった。少し離れたところには、3年生の女子学生、ウインス・エルダンと、4年生の男子学生もいた。
今回、ギレル魔法学院からプライムフォーラムに参加する学生は、この5人だ。
周囲では騎士団の者たちが荷物や同行者の確認をしていた。エストや緋石塔の関係者も姿を見せている。
学院長も見送りに来ており、集まった5人に短く激励の言葉をかけてくれた。
「ではマリベル先生、学生たちをよろしくお願いします」
「はい、お任せください」
学院長の言葉ににこやかに答えたマリベルは、そのまま学生たちへ向き直った。
「それでは皆さん、そろそろ向かいましょうか」
キツキたちは荷物を持ち、発着場へ向かった。
そして、発着場に停泊している飛行船が見えた瞬間、キツキは思わず足を止めた。
「……でっっか」
目の前には大きな船体があり、その上には想像していたよりもはるかに巨大な気嚢が広がっていた。実物を間近で見ると、まるで迫力が違う。
こんな大きなものが、本当に空を飛ぶのか。
キツキはしばらくその姿を見上げていた。
もうすぐ、この船で初めて訪れるカルネアへ向かう。そう考えると、自然と笑みがこぼれた。




