第138話 まだ見たことのない景色
プライムフォーラムの5日前までに、発表に必要なものを学院に提出する。期限も、そろそろ「まだ先」で済ませにくいところまで近づいていた。
キツキとレニアは放課後になると研究室へ向かい、以前キツキが古い杖を使った時に感じた、あの妙な楽さの正体を探り続けている。だが、ここ数日はどうにも進みが悪い。形を変え、条件を変え、何度試しても、これだと思えるような手応えには届かなかった。
今日も同じだった。
レニアは机の上に広げた記録へ目を落としたまま、小さくため息をついた。
キツキも試作品を手にしたまま、うーん、と眉を寄せた。
ここまで何も見つからないと、さすがに何か根本から見方を間違えている気がしてくる。
そんな2人から少し離れたところでは、ホンペクが寝そべっていた。
放課後、教室を出たあたりからいつの間にかキツキの後ろをついてきて、そのまま研究室まで入り込んできたのだ。
最初はそのうちどこかへ行くと思っていた。
けれど、行かない。研究を始めてからも、ずっといる。
普段なら別に気にもしないのに、今日はやけにその姿が目についた。
こいつ、ほんとに何しに来たんだ。
また同じことを考えていると、ホンペクがふいに顔を上げた。その目がレニアへ向く。
そのままのっそりと起き上がると、彼女のところまで歩いていき、前脚でふくらはぎを軽く叩いた。
「っ……なに――」
不意に触れられ、レニアの肩が小さく跳ねる。
その言葉が終わるよりも早く、足元の感覚が消えた。
「うおっ!」
一瞬、足元が抜け、身体が宙に浮く。次の瞬間には、靴の裏に硬い岩の感触が戻ってきた。
キツキは反射的に踏ん張って顔を上げる。隣ではレニアもわずかに体勢を崩したものの、すぐに立て直して周囲を見回していた。
「……どこなの、ここ?」
キツキも答える前に、辺りへ目を走らせる。
足元には乾いた黒い岩が広がり、その先には浅い水が続いている。
見覚えはあるが、前に来た時と同じだと言い切るには、どこか違って見える。
あの時は、まだ日の光が残る夕暮れで、空は青と橙に染まっていた。けれど今、頭上に広がっているのは夜のような深い藍色だ。ちらほらと星まで見える。
「キツキ……?」
呼ばれて、キツキははっとレニアを見る。
「あ、ああ。悪い。前に話しただろ。あの、古い杖を見つけた場所。たぶんここだ」
「ここが?」
「ああ」
レニアはもう1度周囲を見回し、少し離れたホンペクへ目を向けた。
少なくとも、いきなり危険な場所へ連れてこられたわけではないと分かったのだろう。張っていた肩から少し力が抜ける。
キツキもそこで、改めて空を見上げた。
夜にしては妙に明るい。水の中から伸びた細い半透明の植物が、内側から淡い光を放っている。その光が浅い水にも映り込み、頭上と足元に同じ夜空があるように見える。
風が吹くと、細い茎同士が触れ合う。ちり、ちり、と硝子の欠片を重ねるような澄んだ音が、水辺に広がっていく。
「……綺麗ね」
隣から聞こえた声に、キツキは顔を向けた。
レニアは少し目を見開いたまま、水の向こうを見ていた。
「レニ――」
呼びかけようとして、続きが出てこなかった。
景色だけでも、今まで見たものの中で一番なんじゃないかと思うくらい綺麗だった。
その中に、レニアがいる。
淡い光を拾う銀髪も、水の向こうを見つめる横顔も、全部まとめて目に焼きつけておきたいと思った。
息を呑んだまま、しばらく動けなかった。
……どれくらいそうしていたのか、自分でも分からない。
ようやく息を吐いたところで、キツキは自分がずっとレニアを見ていたことに気づいた。
さすがにこれはまずいと、何事もなかったように視線を前へ戻した。
すると、ホンペクが黒い岩場を歩いていき、少し離れたところでこちらを振り返った。
『終わったら言え』
キツキの耳には、そう聞こえた。
「……終わったらって」
聞き返す間もなく、ホンペクはその場に伏せた。
もしかして、さっきのため息を聞いて、気を遣って連れてきてくれたのか。
そう思ってホンペクを見ると、もうすっかりくつろいで、遠くをぼんやり眺めている。
……いや、考えすぎか。
「少し歩きましょう」
レニアはそう言うと、キツキの返事を待たずに水辺へ歩き出した。
「おう」
いつもより少しだけ軽く見えるその足取りを追って、キツキも歩き出す。
浅い水が続く中に、ところどころ黒い岩が顔を出している。歩くたび、水面に映った光がわずかに揺れた。
少し進んだところでレニアが足を止めると、近くにあった大きめの黒い岩へそのまま腰を下ろした。
キツキは一瞬だけ迷ってから、その隣にそっと座る。
レニアが一度だけキツキへ目を向ける。けれど何も言わず、また景色へ視線を戻す。
目の前には、静かな水面が広がっている。風が通るたびに、遠くで硝子のような音がする。
キツキは自分から何か話題を出そうかと思ったが、不思議とこの沈黙が心地よかった。
「……小さい頃」
しばらくして、レニアがぽつりと口を開いた。
キツキはそちらを見る。
「こういう景色を見ていると、思い出すの。お母様に、いろいろなところへ連れていってもらったわ」
レニアの赤い瞳は、水面に向いたままだった。
「今でもよく覚えてるところがあるの。目の前いっぱいに崖が大きく弧を描いて続いていて、そこから全部、滝になって落ちてる場所」
「全部?」
「ええ。右を見ても左を見ても、見える範囲はずっと滝だったわ」
レニアは水面を眺めたまま、記憶をたどるように少し間を置いた。
「他にも、遠くまで氷が広がっている場所があったわね。光が当たると、ずっと向こうまできらきらして見えた」
「へえ……」
キツキは少しだけ声を落とした。
「そんなところがあるのか」
また静けさが戻り、風に揺れる茎の硝子のような音だけが水辺に響く。
弧を描いて続く崖から落ちる巨大な滝。
光を受けて、遠くまできらめく氷。
どちらも、キツキには想像することしかできない。
今こうして見ているこの景色だって、ここへ来るまでは知らなかった。
この世界には、まだ見たことのない美しい景色がいくつもあるのだろう。そう思うと、いつか実際に見てみたくなった。
「じゃあさ」
レニアが顔を向ける。ルビーのような赤い瞳が、まっすぐキツキへ向いた。
「いろいろ落ち着いたら、一緒に綺麗なとこ見に行こうぜ」
思ったままを口にして、キツキはくしゃっと笑った。
レニアがその顔を見る。
すぐには返事をせず、ほんの少ししてから前へ視線を戻した。
「……気が向いたらね」
そう言った口元が、わずかに上がっていた。
「おう」
それ以上、どちらからも言葉は続かなかった。
風が水辺を抜け、半透明の茎が触れ合う。硝子の欠片を鳴らすような音が、静かな水面の向こうまで続いていった。
キツキもレニアも、しばらくそのまま並んで景色を眺めていた。




