第137話 師匠、人前ではやめてください
放課後、キツキは借りている研究室へ向かっていた。
今日も今日とてレニアと研究を進める予定だった。いつも通り研究室へ向かっていると、普段ならそのまま通り過ぎる通路に、今日は妙に人が集まっていた。
何かあったのかと足を緩め、人垣の隙間から中を覗く。何人かの肩越しに、通路脇のベンチが見えた。
そこに1人の女性が座っていた。
淡い金色の長い髪を低い位置で雑にまとめ、片脚をもう片方へ重ねていた。白に近い長衣は前を重ね合わせる形で、首元は少し崩れている。
(なんか、和服っぽいな)
もちろん、そのものではない。ただ、キツキにはそう見えた。
腰には一振りの長剣が下がっている。細身で顔立ちも整っており、淡い色合いもあって、どちらかといえば儚げに見える。その長剣も、あの堂々とした座り方も、そんな見た目には妙に似合っていなかった。
「本物だよな?」
「アデレード・ヴァレンだろ。間違いないって」
近くから聞こえた名前にも、キツキはまったくピンとこなかった。
「《夢泡の迷宮》を踏破した時の……」
「水竜を斬ったって話も――」
「それ、本当なのか?」
どうやら、かなり有名な人物らしい。
芸能人にたまたま会った人間とは、こういう感じなのかもしれない。名前すら知らない相手でも、周りが騒いでいると妙に気になってしまう。
キツキもそのまま一緒になって眺めていると、人だかりの端が少しざわついた。
「あれ、ブロムじゃないか?」
その声につられて振り向くと、通路の先をブロムが歩いていた。
ブロムも人だかりに気づいたらしく、何だろうとでもいうようにそちらへ目を向けた。人だかりの近くにキツキを見つけると、そのままこちらへやってきた。
「キツキ、これは一体何の集まりなんだい?」
「俺もよく分からん。あの人が有名らしくて――」
言いながら、キツキがベンチの方へ目を向ける。
ブロムもつられてそちらを見た。
その視線が、ベンチに座る女のところで止まる。
「……師匠?」
その声が聞こえたのか、ベンチに座っていた女性――アデレードが顔を上げた。
「お、いたいた」
アデレードは立ち上がると、迷いなくブロムのところまで歩いてくる。
「元気そうだな、ブロム」
そう言いながら、アデレードはブロムの頭へ手を置き、そのまま何度か雑に撫でた。ブロムはわずかに顔を赤くすると、その手から逃れるように半歩横へずれた。
「……師匠、人前ではやめてください」
「なんだ、今さら」
アデレードは気にした様子もない。
周囲では何人かの生徒が、意外そうに2人を見比べていた。
やがてアデレードの淡い青の目が、ブロムのすぐそばにいるキツキへ向く。
「そっちは?」
「ああ。僕の仲間のキツキです」
仲間、と聞いた瞬間、キツキの体がわずかに反応した。思わず隣のブロムを見る。
「かわいい顔をしてるな」
不意にそう言われ、キツキは一瞬間を置いた。
「あ……ど、どうも」
アデレードはそれ以上気にした様子もなく、話を切り替える。
「そうだ。ブロム、休みに入ったらすぐに来い」
「分かりました」
ブロムは迷わず答え、そのまま次の言葉を待った。
だが、アデレードは何も言わない。
……少ししても、アデレードが口を開く様子はなかった。
「師匠……それを言うためだけに来たんですか?」
「そうだが?」
アデレードは不思議そうに返した。
「それなら、手紙でもよかったんじゃ……」
「こういうのは直接言った方が早いんだ」
迷いなく言い切ったあと、アデレードは何かに気づいたように腹に手を当てた。
「腹が減った。ブロム、どっか食えるところに案内しろ」
そう言うなり、アデレードはブロムの肩へ腕を回し、遠慮なく体重を預けた。
「……今からですか?」
「今からだ。ほら、行くぞ」
そのまま連れていかれるように歩き出したブロムは、途中で一度だけキツキを振り返り、軽く手を上げた。
キツキも小さく手を上げて返す。
あんなふうに誰かに文句を言うブロムを見るのは、少し新鮮だった。とはいえ、その顔は本気で嫌がっているようには見えなかった。
そんな2人の背中を見送ると、キツキも研究室へ向かって歩き出した。
◇
プライムフォーラムの開催会場では、今日も準備が進められていた。
大きなホールの低い位置には発表に使われる壇上があり、それを囲むように客席が上へと広がっている。下では何人もの作業員が行き交い、設備や備品の確認を続けていた。
その様子を客席側の通路から眺めている男が1人いた。
「そこ、もう少し空けてくれ。搬入の邪魔になる」
そう指示を飛ばしたところで、紙束を抱えた別の男が通路を上がってきた。
「ほら。頼まれてた確認分だ」
「そこに置いといてくれ」
男は近くの空いた席へ紙束を置き、そのまま会場を見下ろした。
「相変わらず大掛かりだな」
「学生も研究者も大勢集まるからな。ここで次につながるものを掴む者もいる。毎年、手は抜けん」
「毎年、か」
紙束を持ってきた男は、そう言って壇上を見下ろした。
「昔はもう少し、何が出てくるか楽しみだったんだがな」
「毎年ちゃんとしたものは出ているだろう」
「悪いとは言ってない。確かに水準は高いさ」
男は少し間を置いて続けた。
「ただ、驚かなくなった」
「……お前が年を取っただけだろう」
男は小さく笑った。
「……それもあるだろうな」
しばらく2人で、作業の続く会場を眺めたあと、紙束を持ってきた男が口を開いた。
「そういえば、魔導協会の件は聞いたか?」
「拠点が1つやられたという話か?」
「ああ。フォールン絡みで、かなり死人も出ている。警戒を上げろという連絡も来ている」
先ほど作業員へ指示を出していた男は、少し考えるように黙ったあと、ホールの出入口に目を向けた。
「警備は増やす。入口の人員配置も組み直そう。巡回の頻度も上げる」
「そうだな。何より学生の安全が第一だ」
男は短く頷くと、それ以上は何も言わず、もう一度会場へ視線を戻した。
紙束を持ってきた男も、その隣に並んだ。
「さて、今年はどんなものが出てくるかな」
壇上の周囲では、さっきと変わらず人が行き交い、準備を続けていた。




