第133話 逃げても勉強会からは逃げられない
考査前日だろうが、研究は待ってくれない。
午前10時過ぎからレニアと始めた作業は、気づけばもう何時間も続いていた。この1週間で分かったことは増えたが、ここ数日はそこから先へ抜けられずにいる。
「今日はここまでにしましょう」
キツキが顔を上げると、レニアは使っていた資料を閉じていた。
「まだ15時だろ」
「明日は考査よ」
「それは知ってるけど」
「……いいから。今日は私の言うことを聞きなさい」
ずいぶん強引だ。言い返しかけて、レニアの目元に薄い影があることに気づく。化粧でも隠しきれていない。
それを見たら、なぜかそれ以上言い返す気は失せた。
「分かった。じゃあ帰って勉強するよ」
「……ちゃんとやりなさいよ。散々な結果になって、研究どころじゃなくなったら困るもの」
「はいはい。ちゃんとやりますって」
レニアはまだ何か言いたげだったが、キツキはそのまま彼女と別れ、研究場所を後にした。
寮へ向かいながら、戻ったら何から手をつけるか考えていると、不意に後ろから衝撃が来た。
「うおっ」
首に腕が回る。
それだけではなく、腰のあたりには足まで絡みついてきた。
「ヘルプ」
耳の近くで、聞き慣れた平坦な声がした。
「……キュルか?」
「ヘルプ」
完全に背中へ張りつかれている。
セミみたいだな、と真っ先に思った。
昔、飛んできたセミが肩に止まって以来、セミはかなり苦手だ。
……だが、こんなセミなら悪くないかもしれない。
そこまで考えたところで、キツキは我に返った。
いや、何考えてるんだ俺。
「降りろって」
「やだ」
そう言ってなかなか降りようとしないキュルを、どうにか降ろそうとごちゃごちゃしているところへ、向こうからエリルが歩いてきた。
その姿を見た瞬間、キュルがぴたりと動きを止める。
(ああ。こいつから逃げてたのか)
エリルはキツキの背中に張りついたキュルを見て、呆れたように眉を下げた。
「キュルー? また逃げたね」
「まあ、もう十分やったんじゃないか? 少しくらい休ませてやれよ」
考えるより先に、そんな言葉が出ていた。自分でも、なぜかはよく分からない。
そんなキツキの言葉に、エリルは少し考えてから頷いた。
「……そうだね。ちょっとやらせすぎちゃったかも」
背中に回っていたキュルの腕から、わずかに力が抜けた。
もう少し何か言われると思っていたキツキは、意外とあっさり許したエリルに少し驚いた。
「そういえばキツキは? 明日の準備、もう終わってるの?」
「いや。俺はこれからだけど」
「ふーん」
さっき緩んだはずのキュルの腕が、また少しだけ締まった。
同時にエリルの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「じゃ、ちょうどいいね」
「……ん?」
「キツキも一緒にやろっか」
「いや、俺は自分の部屋で――」
「勉強するんでしょ? なら一緒の方が効率いいよね?」
「いや、でも――」
「よし、決まり! キュルもそのままでいいから、行こー!」
背中でキュルが嫌そうに身じろぎする。
エリルは構わずキツキの手を取ると、そのまま歩き出した。
キツキ自身も何か引っかかってはいたが、反論を考えている間にもどんどん連れていかれる。
結局、背中にキュルをくっつけたまま、キツキまで女子寮へ向かっていた。
◇
エリルの部屋の前まで来ると、キュルはようやく背中から降りた。
身軽になったところで、エリルに続いて中へ入る。
最初に気づいたのは匂いだった。
紅茶と本や紙。それに、何の香りか分からない淡い甘さが混じっている。自分の部屋とは全然違う。誰かがここで毎日過ごしている。その人の生活がそのまま染みついたような匂いだった。
そのせいか、急に人の部屋に入ったことを実感する。
視線を動かすと、本や資料は多いがきちんと整理されていた。その中に、猫耳のついた妙に可愛いクッションがある。
なんとなくそれを眺めていると、エリルに声をかけられた。
「なに?」
「……いや、別に」
キュルはそんな2人を気にする様子もなく、もう逃げるのは諦めたのか、慣れた様子で席についた。
ほどなくエリルが紅茶を淹れてくれて、3人分の教材が机に広がった。
「じゃ、始めよっか」
まだ少し釈然としないものは残っていたが、結局キツキもそのまま勉強を始めた。
しばらく進めていると、引っかかるところが出てくる。
「なあ、これとこれって何が違うんだ? 意味は分かるんだけど、似たようなこと言ってないか?」
そう聞くと、エリルが椅子を寄せて教材を覗き込んだ。さっき感じた淡い甘さが、少し近くなる。
「似てるけど、前提が違うんだよねー。こっちはこの条件がある場合で、こっちはない場合」
「……じゃあ別々に覚えるのか?」
「ううん。むしろセット。同じところと違うところを一緒に覚えた方が混ざらないよ」
「ああ……そういう覚え方か」
言われてみれば単純だった。
メガネなら、それぞれの意味までは分かる。でも、何と何を一緒に覚えるか、何から先に押さえるかまでは教えてくれない。
知識を拾えるのと、使える形で頭に入れるのはやはり別だ。
だが、勉強を続けるうちに少し集中が切れてきて、キツキは気を逸らすようにエリルへ声をかけた。
「エリル、もしかして何が出るかとか知ってたりしないか?」
「……私のこと予言者か何かだと思ってる? そんなの知ってるわけないじゃん」
エリルは笑いながら視線を教材へ戻すと、そのままキツキの教材の一部を指した。
「でも、この辺は押さえておいた方がいいと思うな~」
「……やっぱ予言者か?」
「ふふーん。どうだろうね?」
少し引っかかったが、さすがに本気で言っているわけではないだろう。考えすぎだと、キツキは教材に目を戻した。
それからは手が止まるたびにエリルへ質問した。聞けば分かりやすく教えてくれるので、気づけば質問する回数はどんどん増えていた。
その頃には、半ば強引に連れてこられたことも、もうほとんど気にならなくなっていた。
「キュル」
不意にエリルが名前を呼んだ。
その声にキツキも顔を上げると、キュルは音もなくドアの前まで移動していた。
「……いつの間にそこまで行ったんだ?」
エリルが気づかなければ、間違いなく見逃していただろう。
「戻ってきなさい」
「……」
キュルはドアとエリルを交互に見たあと、がっくりと肩を落とした。そのまま重い足取りで席へ戻ってくる。
そんなこんなで時間が過ぎ、窓の外はすっかり暗くなっていた。
ふと隣を見ると、キュルはとうとう机に突っ伏している。
「……むり」
本来なら、半ば強引に連れてこられたキツキも、キュルと同じく音を上げる側だったはずだ。だが、分からないところをエリルに聞けば、すぐ先へ進める。その効率の良さに、すっかり味を占めていた。
そうしていつの間にか、2人の立場は完全に分かれていた。
キツキは普段ならまず浮かべないような爽やかな笑顔を、机に突っ伏すキュルへ向ける。
「キュル、頑張ろうぜッ!」
「……こわい」
エリルが吹き出した。
ひとしきり笑ったあと、ふと時計に目をやる。
「時間もちょうどいいし、今日はここまでにしよっか」
「……そうだな。今日はかなり助かった。ありがとな」
エリルとキュルに別れを告げ、部屋を出る直前にもう一度振り返ると、キュルは机に突っ伏したまま、すっかりシナシナになっていた。
そんなキュルを残して廊下に出ると、今度は自分が女子寮にいることが急に気になってくる。この時間にここを歩いているのは、どうにも落ち着かない。
足早に女子寮を出て、そのまま自分の部屋へ戻った。
あとはシャワーを浴びて、明日の支度をして、今日やったところを軽く見直すだけだ。
その前に少しだけ休もうと、ベッドに腰を下ろしたところまでは覚えている。
次に目を開けた時には、考査当日の朝だった。




