早開き 【一】
音楽が知らない曲に変わっていた。聞いたことのある古い曲調だ。誰が選曲しているんだろう。
扉が閉められると、聞こえてきた音楽のボリュームも小さくなる。生徒指導室には放送が鳴らないように設定してあるのだろうか。スピーカーらしきものはあるがそれは機能していない。非常時はどうしているんだろう。ちゃんと鳴るのだろうか。
夢見心地な頭の中で、そんなどうでもいいことばかりが巡っていた。無駄によく回る頭だな、と冷静に俯瞰している自分もいる。入ってきた山井先生は、相も変わらず穏やかな調子で告げる。
「こんな時にも受験勉強ですか。すごいですね」
どうしてここの教師はこんなにも甘い人ばかりなのだろう。学校行事に参加しない生徒に対してもっと厳しくあたってもいいだろうに。それとも、私の境遇を知ったうえで優しくしてくれているのだろうか。情けをかけられているみたいで諾々とは受け入れ難いが、それならそれで好都合だった。
「部屋、使うんですか?」
一応私は尋ねるが、ここは文化祭で催し物を開く
にはあまりにも飾りっけがなさすぎる。使うにしてももう遅過ぎるくらいだ。
私の言葉に山井先生は首を振った。
「いえ、様子を見に来ただけですよ。ふつうここには鍵をかけていますからね」
芝居がかったような言い回しをする。私は彼をみながらふと違和感を覚えた。この人の表情は、読めない。
山井先生はパイプ椅子に座ると、私の方を見た。
「光島さん。少しだけ、お話に付き合ってもらってもいいですか?」
不思議な感覚につられて、私は黙って首肯した。急に静かになる外の環境音。先生は視線を逸らすと、怖い話を語るように喋り始めた。
「これは私の知り合いの話なんですが、ある生徒がいじめを受けていたそうなんです。それはとても酷く、逃げることもできない状況でした。あ、この学校の話じゃないですよ」
真面目な話をしていたかと思うと、軽い調子に舵を切る。この先生は多分、授業が上手い。
「その子はかなり学校が好きだったみたいなんですが、きっかけがなんだったのかは分かりません。クラスの声の大きな人に、何か不当な、あるいは偶然間の悪いトラブルがあったのでしょう。いずれにせよ、その生徒はいじめっこに相当精神的苦痛を強いられてしまったようです」
声の調子を落として、悲しみを表現する。本の読み聞かせをやらせてもうまいかもしれない。
「被害を受けた子は藁にも縋る思いで助けを求めましたが、誰も相手にしてくれませんでした。酷いですねぇ。こういう時、クラスの傍観者もいじめの加害者になり得るんですから、光島さんも気を付けてくださいよ」
ひょいと今度は私の顔を見つめてくる。
怪訝そうに私は先生の瞳を見つめ返した。なんだか釘を刺されたみたいで良い気持ちはしない。先生は、何を思ってこの話をしているのだろうか。
「関わり合いになりたくありませんから、私なら無視するかもしれません」
先生は困ったように笑い、私の言葉を肯定した。
「まぁ確かに、クラス全体の力を変えられるほどでなければ、何か言い返したところで火に油かもしれません。でも、光島さんはそういうタイプには見えませんけど」
微笑んでいる先生の瞳の奥、何度それを覗いてみても、まったく感情が読み取れなった。私は、どうしてしまったのだろうか。
「それで結局、その環境ではどうしようもなくなったその子は、別の学校の友達にその出来事を話すんです。具体的にいじめられていると言ったかは分かりませんが、その子のことを厚く信頼していたんでしょうね」
私は顔を顰めた。話が見えてこない。別の学校の子に相談して、解決する方法なんてあるのだろうか。話を聞いてもらえるだけで、その子の心が救われるとか? 馬鹿馬鹿しい。原因の根絶こそが一番の最適解だ。私ならそうする。
「他校の生徒に話してもどうしようもないだろう、そう思っていますね。確かに現実的ではないでしょうが、その子はどこかにその事実を伝えたかったのです。そしてある日、とんでもないことが起こります。なんと先ほど話を聞いていた友人が、いじめられていた子の学校に転校してきたのです」
私はどきりとした。
先日、転校してきた早苗のことを思い出す。私は彼女に助けこそ求めていなかったが、クラスで浮いている私の前に突然現れたのだ。
山井先生は身を乗り出すようにしながら言った。
「熱い友情か、はたまた偶然か。彼女の友人は転校してくるなり突然いじめっ子たちを成敗してしまったのです。面白い話だと思いませんか?」
先生が尋ねてくる。私は自分の今の境遇とその話を重ね合わせて考え込んでいた。開いていた分厚い過去問を閉じて、表紙を見つめる。私の力では変えられなかったクラスの雰囲気を、早苗は転校初日にがらりと変えてしまった。あれは普通の高校生とは思えない、早苗にしかできない妙技だった。
どうして先生がそのことを知っているのだろう。私は藤先生が言っていた言葉を思い出す。
『教師は生徒の見えない部分までは見ることはできん。だが、見えないと思っている部分が、見られていることもある』
山井先生は、私と早苗のことについて知っているのだろうか。私は先生に答える。
「お話としては面白いかもしれませんが、ちょっと現実味に欠けますね。成敗とは具体的に?」
姿勢を変えることなく頷く山井先生の髪の毛が揺れる。先生はどことなく誰かに似ているような気がした。芸能人の名前さえ覚えられない私が、その答えに辿り着くことは簡単ではなかった。
「言葉だけでいじめっ子を封殺したらしいですよ。その転校してきた子はとても優秀だった。いかにも悪そうな一人に目を付けて、その子のことを執拗に責めた。いじめっ子は憤慨したでしょうが、優秀だった転校生には手も足も出ず、結局身を引いてしまったんです」
先生の目の色が変わった。私は頭の奥でわずかに光った、火花のような閃光を見る。
知り合いの話だと先生は言った。
別の学校の友人。早苗の転入。私は落ちるところまで落ちていった。絶望の谷底まで。居場所なんてどこにもない。私を温かく迎え入れてくれる場所は、もうどこにもなかった。
他人に期待しない私は、冷たい人間なのだろうか。だけど初めから人に冷たかったわけではない。
自分と他人を天秤にかけ続け、釣り合うということがどういうことか、ずっと考えてきた。私の価値は、誰と同じ。誰なら私と肩を並べられる。私を一人にしないでいてくれる人は、どこにいるの。
結局、その問いかけに解答を得られる日はこなかった。私は人が好きで、人と関わることになんの抵抗も受けず、自由に人を愛し、好きになって思うがままの人生を歩んでいた。
しかし、人と接することは必ずしも楽しいことばかりではなかった。価値観が違えば育ってきた環境も違う。人それぞれ大事なものが違うし、優先順位だって変わってくる。
釣り合わない彼、彼女らは、私を傷付け、虐げ、それでもともに生きていかなければならなかった。
そんな無情さが悲しかったんだ。人に自分を理解してもらえないことが、こんなにも冷たいことだなんて思いもよらなかった。どうすることもできないまわりの環境に合わせるなら、自らを作り変えて何事にも動じない分厚い壁を築き上げるほうが楽だったんだ。そうしてできた私の心は、自分でも驚くほどに生気を失っていた。自分自身を取り戻すほど、自分自身を失ってしまうことに気が付く。
山井先生はずっと笑顔だった。もし、その笑顔が作り物だったとしたら?
静かな生徒指導室に、拍子抜けする音が流れた。
『山井先生、山井先生、至急職員室までお越しください』
校内放送を無視して、名前を呼ばれたその教師は扉に鍵をかけた。
山井先生が欲しているもの。それは、私だ。
「光島さん。僕は思うんですが、倫理とは人間を守り導く光です。それを失ってしまえば人は人ではなくなってしまう。社会性を失ってしまう。そうでしょう?」
張り付いていた笑顔の断面が、薄く覗く。
私は机から手を放し、軽く椅子を引いた。
「そう身構えないでください。大事な話ですよ。その転校生は光になりたかったのかもしれません。友人の話を聞いて、暗澹とした闇を払おうと思った。そこまでは良かった……」
刹那、彼の両腕が振り上げられ、勢いよく机に叩きつけられた。強烈な音が生徒指導室に響く。私は突然のことに身を竦ませた。先生の顔が、笑顔が、酷く歪んで見える。
「あの子は本気で信じていた。やって来た子を、助けてくれた子を。本当に、心の底から信頼していた」
体が恐怖して力が入らない。脚が震えてうまく立てず、椅子からバランスを崩して私は床に倒れた。
豹変した先生。声をかけてきた時からずっと、ずっと、この機会を窺っていたのだ。私にこの部屋を勧めたのも、この時のために。
「先生、何を……」
見上げる視線の先に、もう笑顔はなかった。感情を通り越した先にある、未知の領域。私はそれに名前を付けることができなかった。
「光島くるみ。まだわからないか。意外と理解の遅い奴だな。お前は何がしたかったんだ? 愉快犯なのか?」
口調まで変わってしまった先生の目には、私は生徒として見られていなかった。戦慄に彩られる彼の瞳に映るのは、復讐。
「先生、もしかして……蘭の……?」
無表情だった彼の顔に鈍色の感情が宿る。鉛のように重く、すべての色を押しつぶすように広がっていった。
「やっと気が付いたか。そうだ。蘭は俺の両親に引き裂かれたたった一人の妹だ。バスケもできて、私立の学校にも通えて、幸せを謳歌していく、はずだった……なのにお前が現れた!」
パイプ椅子を蹴り飛ばす。私は両腕で顔を覆い、目を背ける。弾かれた椅子が棚にあたって鋭い金属音が鳴った。
「蘭はお前を信じていた! 入部して数か月でバスケ部をまともにしたお前を! 屑どもから受けていた嫌がらせを止めることができたのに、何故お前はっ!」
叫ぶ声にまともに反応できず、私は震えていた。
私の罪は重い。因果は巡り巡って自分に帰ってくる。私があの時とった行動が最善だったとは思わない。でも、その方法しか知らなかったのだから、しょうがないじゃないか。
泣き叫ぶ彼女の顔が、今の先生と重なる。私は彼女を傷つけた、それはどうしようもないほど、鮮明な事実だった。
「蘭はお前の話をよくしてくれた……優しかったって、優秀だったって。あんなことになった後でも、蘭はお前を絶対に悪者にはしなかった!」
暗い表情に覆われた山井先生の形相は、取り繕うのを止めた私の顔によく似ている。心がすり減った、傷んだ人の顔。
「人を導き照らせない光があるのだとしたら、僕がそれになる。そんな時に倫理は何の役にも立たない。お前のような人間を裁く光が、必要なんだ!」
私はゆっくりと迫る彼を見た。
悪の親玉は滅んだと思っていたが、これが本当の滅びなのだろうか。これが報いというのならば、受け入れなくてはならない。私はどうしても、自分の行いも山井の行いも、悪だとは言い切れなかった。蘭ちゃん、あなたの傍にはこんなにも、あなたのことに熱心になってくれる人がいるんじゃないか。
あなたは私が関わっていい人間じゃなかったんだ。私はあの頃からずっと探している。欠けたものを、足りないものを。あなたの光が山井先生だというのなら、私も誰かの光になりたかった。それだけなの。
「ぁ……ぁ……」
喉が詰まり声も出なくなった私は、先生が伸ばす二本の腕にただ絡めとられるだけだった。いっそ消えてしまいたい、そう思った私の願いが、こんな形で叶うとは。
早苗。私はこれで、あなたの思い出から消えていける。清算したかった過去の一人は、無事、生涯を終える。
どうして、戻ってきたの?
さなちゃんは、一人でなんでもできるじゃん。
どうして、いつも私を見つけてくれるの?
どうして、どうして……。
室外から、蝉の鳴き声が聞こえた。違う、もっと高い音。警告音。非常用のベルだ。
『くぅちゃん。私、待ってるよ』
彼女の声。
私は、私は――。
先生の注意が一瞬だけ逸れる。非常ベルに気を取られたわずかな隙をつき、襲いかかる彼のみぞおちを蹴りあげて距離をとった。
足が動く、体に力が戻ってきた。私は早苗のために、まだ死んでいられない。
「光島ぁ!」
叫ぶ山井が私との距離を一気に詰める。
狭い室内で、冷静な頭を保ったまま自分の位置と山井の位置、出口を把握していく。低い姿勢のまま重心を下げる。今日は文化祭。下がジャージでよかった。
山井に向かって走り出した私は、床を蹴って下に滑り込んだ。山井が覆い被さるより早く、足の隙間をすり抜ける。すくいあげるような形で山井の足を体全体で払うと、バランスを崩し膝を床につけた彼は大きく転倒した。
私は素早くその場をとびのいて、倒れたパイプ椅子を飛び越え出口へと向かった。
「逃がすかッ!」
苛立ちを口から吐き出した山井は、すぐに立ち上がって私を追う。私はドアの取っ手に手をかけ外に出ようとするが、扉が動かない。
しまった! 鍵をかけられていたんだ!
一瞬で追いついた山井の腕が、私を捉えようとする。必死で抵抗する私の腕を掴み、怒声を轟かせた。
「蘭にあんな顔をさせやがって! 蘭に詫び続けろ! 光島ぁ!」
追い詰められた私は尻餅をつく。ドアを背に、乱暴に山井の腕を払いのける。恐怖に打ち勝つため、あらんかぎりの声で私は叫んだ。
次の瞬間、ドアについていたすりガラスが弾けとんだ。
私の頭上、蛍光灯の光を反射するガラス片が、キラキラと舞うのを見た。その強い衝撃を受けた山井は、天井を仰ぐように後ろに倒れ込む。
私は思わず目を閉じた。何がどうなっているのか状況がつかめず、戸にもたれかかるように蹲る。
扉の外、非常ベルの音に重なって人の気配がした。
「くぅちゃん! 大丈夫?」
割れたガラスの向こう側から、私を呼ぶ声を聞く。




