詰め開き 【三】
机の上に置いてあった除菌用のアルコール。私はそれを軽く小突いて中身を噴射させた。手のひらに満遍なくついた溶液を気だるそうに両手でこすり合わせると、独特の臭いが香ってきた。
外から聞こえてくる喧騒が分厚い壁を貫く。生徒指導室のパイプ椅子に座った私は、だらしなく机の上に顎を置いていた。ここでなら誰の気も遣わせず、ゆっくりと時間が潰せるだろう。棚に置かれた本を横目で見る。生徒指導室との併用で、進路相談も受け付けている。大学受験用の参考書が所狭しと肩を並べていた。私は見覚えのある有名大学を欠伸を噛み殺しながら探す。
小学校でも受験に備え、中学校でも入試をし、大学に入学する時にもまた試験を受けさせられる。私の人生、試されてばかりだな。ふるいにかけられて残った私は、いったい何になれるというのだろうか。弾かれないために必死で勉強している学生たちの中に、その後の将来の事を考えている人なんて果たしているのだろうか。
漠然とした疑問が私の上にのしかかる。それを解決するための部屋は用意されているというのに、肝心の指導者がここにはいない。目下解決しなければならないお題目ではないが、皮肉にも進路相談の部屋で一人悩む自分に可笑しさを覚えた。
私は手の甲の上に頭を横たえさせて再びぼんやりとする。小学生の時の方が気苦労がなかったと思う人もいるかもしれない。だけど私はそんなことないと思う。いつの自分を振り返ってみても、それなりの苦労が人生には付きまとっていた。成長したからといって、この煩わしさが消えてなくなるものでもない。ましてや昔の自分から続いているこの人生において、長く生きれば生きるほどしがらみが増えていくのは当然のことだ。
しかし、私は簡単にそれらを解決する方法を知っている。何故ならこんな子どもじみたことを考えている人なんていないだろうからだ。単純なことだった。私が私である限りこの気苦労が絶えないのであれば、私でなくなればいい。過去から切り離した自分になれば、妄執や後悔からはもちろん、早苗からも私は解放される。それが幸せとはどんなに程遠いとしても。
そう思っていた矢先、生徒指導室の扉がノックされた。私はびくりと体を起こして身構える。誰かが来た。
弁明は考えてある。しかし、それが通用するかは山井先生次第だった。文化祭という行事にも参加せず、実行委員であるにも関わらず、教師の領分の一等地である生徒指導室でサボっているのがバレたりでもしたら、どうなるか。
祈るような気持ちで来訪者の顔を見た。
「……なんだ、光島か」
ドアを開けたのは疲れ切った表情の藤先生だった。浅黒い肌に皺の刻まれた目元。私を一目見て、もっと大きな声をだすかと思ったが、何故か先生は安心したような口を利く。
「すいません、用事で使われますか?」
私は慌てて立ち上がり、移動する意志を見せた。
「いい、座れ。電気が点いていたから気になっただけだ」
授業とは違う雰囲気を醸し出す藤先生に、私は呆気にとられる。そういえば、初めて私がここに来た時も、今日みたいな印象だったような。藤先生とは、本来こういう人物なのかもしれない。
教師の二面性を発見した私は、余計だと思いつつも先生に尋ねる。
「い、いいんですか。私、実行委員なのに……」
こんなところでサボっていて、という部分はぼかした。扉を中途半端に開けた隙間、藤先生は真面目な顔をして告げる。
「生徒が悪さするためにここを選ぶわけないだろ」
文化祭だというのにニット生地のベストを着たいつもの藤先生は、言い終わると同時に何かを思案し始めた。しまった。誰かほかの先生を待っていると言った方がよかったかもしれない。でも、嘘を吐くことはどうしても憚られた。私は彼の目を見て悟る。藤先生が考えていること。求めていること。
「暇だろう光島、ちょっといいか」
部屋に入りパイプ椅子をひいた藤先生は、鋭い視線を向けたまま私に尋ねる。なんとも言えないまま、私は猫背になって体を丸めた。今から、どんな尋問が始まるというのだ。罠にかかった害獣のような気分だ。
「お前、中高一貫を蹴ってこっちに来たよな。理由はなんだ」
突如として現れた重たい空気。私は生唾を呑む。
出身中学を聞かれることは今までに何度もあった。その度ごとに、私は適当な理由をでっちあげていた。だけど今回、仮面が剥がれかけている私に、それがうまくいくだろうか。
「個人的なことに踏み込んですまんが、経済的な事情じゃないんだろう?」
学校は私たち生徒の家庭事情を、少なくとも家族構成や住所くらいなら資料を見なくても把握しているだろう。私が一人っ子だということもあり、家が困窮しているようにはとても見えないのかもしれない。彼の予想は正しい。
「ご両親の負担を減らそうと思っての行為なら、それを許す家庭だとも思えない」
私は目を伏せたまま先生の言葉を黙って聞いていた。同じ高校への進学を断って、別の高校を目指したいと親に言った時、まず初めに言われたのがそれだった。お金のことは気にしなくてもいい。自分の事だけを考えなさい。
そんなできた娘だと、両親には見えていたのだろうか。
「中学での成績は飛び抜けている。生活態度も悪くなかった。生徒会長だったそうだな」
周りがだらしなかっただけ。私が群を抜いていたわけじゃない。全部まやかしだったんだ。
「光島、言いたくないなら言いたくないと言え。叱ってるわけじゃない」
喉に小骨が引っ掛かったようにむせて、私は咳き込んだ。水を出すでも、心配する言葉をかけるでもなく、藤先生は静かに私を待った。咳ばらいをした私は喉の感覚を取り戻す。飲み込んだはずの唾がうまく喉元を通らなかった。
藤先生は、もしかしてすべてを知っているのだろうか。
私は喉を震わた。
「なんでそんなこと、知りたがるんですか」
生意気な態度だと、言ってから気が付いた。だが口から離れた言葉を取り戻すには大変な苦労を要する。狼狽えず、私は先生の目を見た。
「私立から公立に入ってくる生徒は多いわけじゃない。単純に気になった。それだけだ」
机の上に腕を置いた先生は続けた。
「付け足すと、光島がなんでここにいるのか。それも気になったからだ」
私は頭の中で昔の記憶を辿っていた。私がこの学校へ来た理由。頭ごなしに否定してくれたなら、楽なことはないのに。
小学校で敵はなかった。早苗は私にその座を明け渡し、ひっそりと消えてしまった。私はそんなこと望んでいなかった。中学生になって、私はどこかおかしくなってしまった。自分の信じる範囲が世界のすべてだと勝気になって、逆らうものを全員虐げていった。誰もそんなことは望んでいなかった。
私は早苗になりたかったのだろうか。失くしたものを取り戻すために自分を強く作り上げたはずなのに、今の私は早苗はおろか、自分自身の足で立つことさえできない。笑える。結局、全部無駄だった。私が早苗に追いつくために努力したことも、取り繕うようにみんなに与えてきたものも、小さな虚栄心のために犠牲にしてきたものも。全部。
中々答えない私に興味を失ったのか、藤先生はだるそうに体をゆっくりと持ち上げて、椅子から立ち上がった。失望の色が怖くて、顔を上げられない。
パイプ椅子を机の奥にしまう先生。
「光島。教師は生徒の見えない部分までは見ることはできん。だが、見えないと思っている部分が、見られていることもある」
彼はもう私の目も見ずに続ける。
「守屋のこと、別に俺は咎める気はない」
背中に力が入った。
やはり、藤先生は勘づいていた。私が孤立していることを。私は浅く呼吸する。
「光島、うるせぇと思ってるかもしれないがそれでも聞け。友達は大事にしろ、以上だ」
扉を閉めた先生のスリッパの足音が遠ざかっていく。校内にはいつのまにか音楽が流れていて、今さらそれが耳の中に入ってくる。
藤先生が飲んだであろうコーヒーの香りがわずかに残る。強い動悸。遅れてやってきた五感の反応が、私の身体中から這い出る。すべてを吐き出したい気持ちと、罪の意識が私の中に混在し、目まぐるしい濁流の中で沈黙することしかできなかった。
先生には話せない。藤先生は唯一、私を『中途半端な子ども』だと思ってくれていたから。
震える両手を見つめて、私は固く瞼を閉じた。




