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詰め開き 【一】

 

 どうして、戻ってきたの。


 珍しい転校生を見るために他のクラスからも生徒が押し寄せてきた。人ごみに隠された彼女の姿。私の存在感なんてあっという間に霞んでしまう。


 彼女の魅力は昔と変わっていなかった。どんな人だろうと簡単に惹きつける魔性の双眸が、優しく包み込むように心を掴む。私はそれがやっと他者に理解されたことを、複雑な気持ちで眺めていた。


 小学校卒業後、早苗は私の元からいなくなった。しがらみがなくなれば何も気にせず彼女と一緒にいられると思っていたのに、あっけなく彼女は遠く離れた場所にいってしまった。別れを告げられたあの日から、何かが抜け落ちているような気がしていた。


 冗談じゃ、なかったんだ。


 教室の隅で奥歯をきつく噛み締める。喧騒の中でゆっくりと、世界の外側に押し出されていく私。


 早苗は一人でなんでもできたし、自分の世界をいくつも持っていた。彼女の中に内包された数多く存在する世界、私はそこに住む一人の住人でしかない。彼女が望まなければ、すぐに弾き出されてしまう、そんな淡い存在なのだ。早苗が戻ってくれば、どんなに喜ばしいことだっただろう。あの笑顔が私のためだけに向けられると想像しただけで、他のどんなものでさえ置き去りにしてしまえる。帰って来るなんて言葉が偽りだったとしても、それでもよかった。私を悲しませないための方便だったとしても、それだけで胸が一杯になった。


 授業の始まりを告げる鐘が鳴る。教科担当の教師が声を掛けると、野次馬たちは引き返し始めた。席に戻る生徒たちの隙間から、私は成長した早苗の顔を盗み見した。変わらない楚々とした瞳、秀麗な顔立ち。見惚れてしまうような姿勢と自身に満ちた表情。彼女を嫌う者なんかいない。あの時の私の感覚は、今でも間違っていなかった。


 自己嫌悪に陥る惨めな自分をくしゃくしゃに丸めて、私は目立たないようにひっそりと息を殺した。


 クラスの中心人物であった安城とその取り巻きたち。彼女たちが早苗を欲しがるのは当然の摂理だった。あれほどの無垢なる美人が転がっているのだ、自分たちのグループに引き入れない理由はない。徐々に打ち解けていくクラスの雰囲気が、心の傷を抉るように、ゆっくりと私の首を真綿で絞めていく。


 早苗には見られたくない、こんな状態の私を。彼女が知る私は、いつもクラスの中心にいた。私が声をかければみんながそちらを向き、私が立ち止まればみんながその場に留まった。何かを始めるのはいつも私が最初で、みんなもそれに付き従った。私が笑えばみんなが笑う。悲しい気持ちになる余裕がないほど、私は笑顔に包まれていた。


 今はそんな雰囲気、微塵もない。クラスの注目が彼女に向いている間に私は静かに姿を隠し、誰にも見つからないところで消えてしまいたかった。早苗は私を覚えているだろうか。もし昔の記憶を掘り起こし今の私と繋げたならば、こんな滑稽なことはない。学校で独りになることに何の感慨も湧いてこなかった私は、早苗にその存在を知られることだけが何よりも恐ろしかった。もう世界のどこにも、私の居場所はないのだ。


 放課後、クラスは文化祭の準備で大わらわとなっていた。あまり準備に参加できなかった部活組もこの三日間は精を出し、追い込みをかけるように巨大なパネルを築き上げていく。


 鞄を背負った私はいつもと変わらずさっさと教室を抜け出すように歩く。誰にも期待されていない、いても空気を悪くさせる。プログラミングされた機械のように帰宅を開始する私。


 誰も何も言わなかった。視線だけで不服そうな態度を見せる。猫の手も借りたいなら声をかければいい。でもそんな度胸誰も持ち合わせてはいないだろう。クラス全体が私という異物に対し攻撃しない代わりに、誰も関与しないという方針を選んだ。私はそれを不幸中の幸いだと皮肉にも思い、軽蔑の眼差しを向けるクラスメイトたちから逃げるように背を向けた。


「あぁ? いいじゃねぇか帰っても」


 男子の一人が声を荒げた。もう一方は気の強い女子だ。


「ダメだって! あんたのところまだ作り終わってないじゃん! ちゃんとやってよ!」

「段ボールじゃなくて厚紙にしろって文句言ってきたのはそっちだろ! 作り直しとかやってらんねぇから!」


 息まいている男子は、素行があまりよくない部類に入る。ここまで手伝ってくれたのだから、それだけでも儲けものだろうに。完成まで手伝えなんてあまりにも理想が高すぎる。


 私は他人事のように横目で彼らを見た。教室が騒然とする中、彼は突然私を指差してこう告げる。


「あいつだって帰ってんのに、なんで俺は帰れねぇんだよ! 説明しろ!」


 ひりつく空気。白い紙の上に大きく書かれた"1年1組"の文字は、遠目から見れば立派な出来栄えも、近くでみると塗りむらがあった。油性ペンで書きなぐられた大雑把な字体。養生テープが乱雑に張られた端々。一つ一つを合わせて行けば、立派にも見えるだろうが、それぞれの中に圧倒的に足りないのは技術力や熱意だ。いくらクラスが団結したところで、所詮は素人集団のお遊戯会。


 クラスの注目が再び私に集まった。私には文化祭準備を免除される合理的な理由がある。彼にはそれがない。たったそれだけの事なのに、彼はそれを言語化してもらわないと理解できないらしい。私はこれを攻撃と捉えた。こうなったのは私のせいだけど、彼からそれを責められる謂れはない。刹那的な生き方しかしてこなかった男子の愚かな目を見つめ返す。


「私を巻き込まないでよ。どうせできないんだったら、最初から手伝おうとか思わないで」


 教室に叩き落した氷瀑。言葉を失くしたクラスの中で、私は凍えるような息を吐きだす。


 これは牽制に過ぎない。クラス全体に、もう二度と私に関わるなという警告。目の色を変えた彼は、一瞬ひるんだ後、私に突っかかった。


「生意気言ってんじゃねえよクソ陰キャが!」


 言うと同時に隣の椅子を蹴り飛ばす。


 悲鳴が上がった。


 飛びのくクラスメイトたちは、教室の端に集まり身を硬直させる。これもすべて私の所為になるのだろうか。どこまで私の噂に尾ひれがつくのか、検証してみてもいいかもしれない。散っていく油性ペンが床に落ち、ころころと転がって私のつま先に軽く当たった。黙ったまま睨む私に、彼は詰め寄った。


「目障りなんだから黙ってりゃいいんだよブスが」


 こんなところで口論してもなんの得もない。分かってはいる。だが、私の闘争本能にも火が点いていた。言われっぱなしなのも癪に障る。相手は頭の悪い男子だ。舐められたままでは今後の生活に支障が出るかもしれない。


 私が口を開こうとした時だった。


「小野君、やめて!」


 彼女の声が聞こえた。


 はっとする。やってしまった。私は昂っていた感情を一気にしぼませる。


 振り返らなくても、教室の外から入ってきた声の主が誰だか分かってしまう。私の肩をぐいと引っ張り、代わりにリングへ上がったのは、やはり早苗だ。


「佐原君が校門で待ってたよ。今日、急遽バイトが入ったんだよね?」


 響き渡る早苗の声。空いた窓から涼しい風が入ってきた。彼女の髪の毛の匂いが、私の心を溶かしていく。


「私が引き継ぐから、行ってきなよ。私、字上手なんだ。書道やってたし」


 彼の担当する厚紙を見て早苗は笑顔で告げる。床に落ちた油性ペンを拾い上げると、腕まくりを始めた。


 凍りついていた教室に、陽だまりのような温かさが広がっていく。張っていた糸が緩んだように、みんなの顔にいつもの表情が戻る。私は小野と目が合った。


 気まずそうに舌打ちをした彼は、


「じゃあ、そういうことだから」


 と言い鞄を持ち直す。


 倒れた椅子を片手で元に戻すと、静かに教室を出て行った。


 胸が苦しい。頭が割れそうだ。


 小野と口論していた女子は早苗に駆け寄って感謝を伝える。ほっと息をついた一組の面々は、彼女を中心に笑顔を増した。感嘆の声を漏らし彼女を称える。しらけ切っていた雰囲気を持ち直したのは、クラスの代表でもなく、陰険な嫌われ者でもなく、今日やってきたはずの転校生だった。何をやっても敵わず、追いつけず、隣に立つことさてできない。


 ささくれだった教室が柔和な雰囲気に包まれていく中で、私は拳を握りしめた。誰とも目を合わせず、視線を下げたまま教室の扉に向かった。私はここにいてはいけない。場を収めたのが彼女の功績ならば、場を荒らしたのは私の言動だ。陰と陽は混ざり合えない。分離したカフェオレのように、酷い苦みしか残らないのだ。


 どうか、気付かないで。


「待って!」


 呼び止める一閃。無視した私の腕を掴み、彼女は無理やり私を振り向かせた。


 やめて、もう放っておいて。


 近くで見た早苗の顔は、やっぱりあの頃の面影を残したままだった。影に隠れた私を引っ張り出すように、慈愛に満ちた瞳で私を覗き込む。顔を背け、彼女から距離を取ろうと試みた。


「"くぅちゃん"、大丈夫?」


 その瞬間、私の中の何かが砕け散った。

 

 早苗は……彼女は知っていたんだ。私がここにいることを。


 安城が何か言ったのかもしれない。クラスで孤立している女がいる。おとなしいクラスメイトをいじめ、他人を見下し、男を手駒にして平気で和を乱す狡賢い女が。光島くるみという女がいるということを。


 こんな私を、汚らしい胸の内側を、早苗に見られたくなかった。情けない姿を早苗に知ってほしくなかった。彼女の帰ってきた理由が万が一私のためだったとしたら、こんな私を見て彼女がどう思うのか、想像するのが堪らなく怖い。


 必死に守ってきた柔らかな自分自身。固い仮面で覆い隠し、傷付かないよう、傷付けられないよう、本当の自分をひたすら偽ってきた。それが今、真っ赤に滴る血で染まっていく。繋ぎとめていた自尊心の鎖は朽ち果て、張り巡らせていた見栄と虚栄の分厚い皮は裂かれ、幼い心のまま私の心は息を止めた。


 勢いよく腕を振り払った私は、早苗に向かって叫んだ。

 

「誰だよ、あんた」


 ごめんね、早苗。


 彼女の中にまだ残っていた、稚い瞳が揺れる。もうあの頃の私じゃないんだ。


 甘い妄想の中の彼女を振り切るように、私は無我夢中で駆け出した。


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