幕開き 【五】
「お前が悪いんだろそれ」
「キッショ、マジで終わってるわ」
「でね、この間の映画がほんとにヤバくて」
教室がこんなにも煩いと思ったのは初めてだった。
文化祭という一つの目的の中で私たちのクラスはそれなりに団結しあい、まとまりをもって動き出していた。みんな比較的穏やかで、ある程度の調和を保っている。
一人、私を除いて。
「くるみ……」
視界に入った日焼けした肌。長い睫を悩ましげに揺らす杏香。私は彼女を美人でないと思ったことはない。彼女には彼女にしかない魅力がある。私はぶっきらぼうに杏香へ言った。
「いいよ。私のことは、もう放っておいて」
窓枠にもたれ掛かったまま視線は外に向ける。涼しい風が髪の毛をたなびかせた。
「くるみ、ウチらは……」
いつもの元気はどこへいったの澄桜。背が高くてスレンダーな体型なんだから、姿勢よくしないと。
「私といてもいいことないよ。クラスの雰囲気、私が壊しちゃったし」
押し黙った澄桜は私を見つめる。
「独りがいいの。構わないで」
そう私は続けて、身を翻し廊下を進む。友達ごっこはこれでおしまい。やっぱり私は独りがいい。
別のクラスの前を横切ると、大きな笑い声が聞こえた。はしゃいで回る男子とそれを見守る女子。クラスの安寧。私には何も、必要ない。本当は、私の側にいることで陰口言われる彼女たちのことが心配だったけど、彼女たちもそんなに馬鹿じゃない。
おとなしい子をいじめて泣かせた私に、手を差しのべられるほど心の余裕はないだろう。長い昼休みの暇を潰せる場所、私は図書室を思い出して足を運んだ。
「光島」
また、私を呼び止める声。立ち止まって振り返ると、大柄な男子がこちらを見ていた。次から次へと、ご苦労なことだ。
「昨日のこと、本当なのか?」
「うん、本当だよ」
酷く曖昧な質問だったが、細かくは訊き直さなかった。どうだっていい、誤解されても。真面目な顔をした前園は歯がゆい思いをしていることだろう。好意を向けていた女子が本当は嫌な女で、突然クラスから孤立してしまったのだから。
もう無視を決め込むと思っていたが、この真面目な好青年はクラスの誰一人として見捨てられないらしい。私は軽く鼻で息を出す。
「なにか理由があったんだろ?」
前園は深く切り込んでくる。それ以上立ち入れば、自分がどうなるとも知らないのに。
「理由は聞いてるんじゃないの? 安城さんから」
「光島からは何も聞いてない。お前、何も言わねぇじゃん」
廊下を通る人が好奇な視線を向けてくる。面倒だ、何もかも。
「面倒くさかったから守屋さんに押し付けたの。そしたら泣き出した。これでいい?」
重要なのはクラスが一緒の方向を向いてみんなで走り出すこと。誰もが仲良く、平等で、楽しく暮らすこと。私はそういうの、向いていない。自分以外の誰にも期待せず空々しいとさえ思ってしまうこの学び舎の中で、何を楽しいと思って息を吸えばいいの?
自分のことさえ満足にできない連中を、私一人が世話をし、足を引っ張られないといけないのだろうか。そんなの、私は納得いかない。驕りと呼びたければ勝手に呼べばいい。できないことで繋がって、慣れ合って、傷舐め合って、碌に成長しようとしない奴らの戯言なんて、聞く気にもなれなかった。
「光島はそんな奴じゃないだろ!」
彼とデートした時のことを思い出す。
意外にも、そういうことには慣れていないんだろうなって思った。さりげない気遣いも、私を心配する眼差しも、無邪気に微笑んだあの笑顔も、努力して私に並び立とうとするような感じがした。女慣れしていない素朴で純粋な、清らかな精神性だった。
私は胸が痛くなる。素敵だなと思えた彼の輪郭の奥、光り輝いて見えたその先に、私はずっと心惹かれていた。あぁだから、私は彼を心から認めてあげることができないんだ。柔らかな私の内側に、彼を受け入れられないんだ。
「前園は私の何を知っているの?」
もうこれで終わり。これで彼の背後から漂う、失われた本当の光を見なくても済む。
「何も知らないんだったら、余計なこと喋らないで」
「おい!」
背後からかけられる声を無視して、私はさっさと歩きだした。
あなたの知る光島くるみは、私のほんの一部でしかない。
"そんな奴"であっても、本当の私なんだ。
◇◇◆◇◇
文化祭まで、残り三日。
熱くなっていた頭を冷やした後、私は実行委員の仕事を途中で投げ出すのはあまりにも自分勝手だと思い直した。確かに私には分不相応な役割だったけど、今これを断れば、別の誰かに仕事を押し付けてしまうだろう。そういうことに、私は気が引けた。守屋の能力不足に腹を立ててはいたが、彼女自体に罪があるわけではないのを私はしかと認めている。勝手にこじれていく回りの環境が悪さしただけで、彼女に関して言えば私が一方的に悪いのは明白なのだ。
彼女が悲劇のヒロインを演じることに明け暮れているというのなら、それを邪魔するつもりもない。罪悪感と言うほど重くは捉えていないものの、途中で投げ出す自分の情けなさを思うと、心のどこかでまた腹が立ってしまう。藤先生に断りを入れるのも、なんとなく避けたいと思ってしまった。
私に対するクラスメイトの態度は様々で、明け透けに悪さをしてくる人はいないものの、露骨に女子からは避けられていた。性格の悪さが露呈してしまった今、もう安城をつついたところでこの流れは変えられないだろう。男子は元々、私の高慢な性格に尻込みして話しかけてはこなかった。腫れ物に触るかのような態度へ豹変し、前園と親しかった男子たちもクラスの雰囲気にのまれて近づくことすらしてこない。
清々しいほどに孤立してしまっている自分自身を、未来の私は嘆くだろうか。
朝のホームルームが始まり、担任の教師が教壇に立つ。教室の後ろに付属されたロッカーの上、そこに置いてある文化祭備品についての注意事項が告げられた。開催は間近。浮足立つ彼らを宥めつつ、授業を行う先生たちには感服する。
私は視線を彷徨わせた。退屈だ。
当日は、実行委員の仕事以外で空いた時間は図書室にでもいようかな。本さえ読めれば時間なんていくらでも潰せる。読書家だと思っていたあの幼い頃に戻ったように、文字の上に身を委ねるのも悪くない。私のような特異点は存在自体が目障りになるだろう。全体の幸福をとるなら、動き回らず姿を見せない方がいい。
「以上だ。何か質問はあるか?」
浮ついたクラスの様子は、今日はいつも以上だった。ざわつく教室内をぐるりと見渡しながら先生は告げる。
「では、昨日伝えた通り、転入生を紹介する」
教室中が騒がしいのには理由がある。高校では珍しく、このクラスに転校生がくるからだ。
私は中高一貫の学校から、別の学校に進学を希望した。高校入試はそんな生徒に対しても平等に参加する権利が与えられている。だが高校からの転入はおいそれとはできない理由があった。そもそも募集していない学校には転入の申請をすることすらできない。希望する権利すらないのだ。今日の転校生は運よく転入ができたようだが、県内でも屈指のこの難関高校に途中から入ってくるほどだ、かなり頭のいい生徒に違いない。
珍しい境遇が気になり、私はぽかりと空いてしまった脳の隙間を埋めるため、転入生の生い立ちを想像してみた。
県外からきた転勤族の子か、学力を上げるために上の学校を目指してきた上昇志向の強い人。或いは、逆にどこかの高水準の偏差値を誇る私学から弾き出された落ちこぼれ。いずれにせよ、変わったタイミングでやってきたのは間違いない。学期の節目でなくこの時期に転校してきたということは、当事者には時期が選べず、不可抗力にもこの県へ移り住んできた可能性が高い。
頬杖をついたまま、私はそう考えた。
クラスの注目が前扉に集まる中、視線を下げる。全員の待望する新たなクラスメイト。彼、もしくは彼女はそれぞれの欲望に期待を寄せられていた。みんなが求めるものはいつも残酷だ。顔面の美しさ、中身の面白さ、頭の良さ、高い身体能力、親和性のある性格。このクラスに足りないもの、自分たちに足りないもの。大事なものが欠けたことさえない彼らの要求に、転校生は応えなくてはならなかった。
可哀想だと、私は思った。
引き戸が開く音に続いて、軽い足音が教室に入ってきた。その音だけで、女子だと分かる。静まり返る教室。それは安堵か、失望か。教卓に上がり、彼女が第一声を発した。
「仙台から来ました、篠崎早苗です」
凛とした聞き覚えのある声。私は目を見開き、咄嗟に顔を上げた。
「皆さん、今日からよろしくお願いします」
心臓が震え、呼吸ができなくなる。
どうして彼女がここにいるのか。
私は脳の中に溢れだす様々な化学物質に侵され、目の前が真っ黒になる。本当に、あの早苗なのか。
激しく地面を叩く冷たい拍手の雨。
羨望、期待、独占欲が染みだして教室中を一杯に満たす。洪水のように溢れ出す彼女の存在感に、私は息が詰まり溺れてしまいそうだった。歩く動作の指先一つ、目蓋の動きさえもが、強烈に、鮮明に、あの頃の彼女を思い出させる。
早苗、早苗だ。
間違いない、私の記憶のすべてが、思い出の中に惹かれていく。私が憧れ、追いつくことのできなかった唯一の存在。私にとって足りないもの、欠けたもの、その全部。
静かな熱狂を纏った教室に舞い降りた絶世の少女。クラスがかつてない歓喜に包まれる中、私は味ったことのない絶望のどん底に、突き落とされていた。




