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幕開き 【三】


 何の前触れもなく、それは起こった。


 青天の霹靂という言葉があるのは知っていたが、まさか使用例となる日がくるなんて露程も考えたことはなかった。私の頭に落ちてきた稲妻が、築き上げてきたものを木っ端微塵に吹き飛ばす。強烈な破壊力を伴った『彼女』は、私がかつて望んだものだったのだろうか。



 ◇◇◆◇◇



 試験が終わり、文化祭の実行委員に抜擢された私は、面倒な仕事に追われていた。本来なら学級委員がまとめるべき内容を、分担と称した業務の細分化により、無駄に増やされた役職たちがそれらを担う運びとなったのだ。


 部活もやっていない、各委員会にも就いていない暇人認定を受けた私は、なんとなくそういう雰囲気にあてられて泣く泣く文化祭の下働きをしていた。悲しいかな、私にとって放課後は何も考えず何からも縛られない自由自適な至福の時間だったのに。それをおめおめと手放す代わりに与えられたのは、誰にでもできる文化祭に係る雑務全般だ。


 私の笑顔はみんなの幸せだろうに。私よりも能力の劣った、意味の為さない部活動をだらだらと続けている連中にこそ、こんな雑務を任せればいい。それだけで全体の幸福度指数は上がるだろう。有意義な時間の使い方、適材適所の人員配置。最大効率のコストパフォーマンス。すべてを計算すれば私の放課後を蔑ろにするなんて結論には、絶対至らないはずなのに。


「ごめん、くるみ。部活なければ手伝えるんだけど」

「ウチも、放課後残れないんだ。ごめんね」


 杏香も澄桜も私に気を使って一言いってくれる。別に、彼女たちが悪いわけではない。そういう分業体制を敷いた学校側に責任がある。この恨み、晴らさでおくべきか。


 実行委員会の時に渡された紙を見つめる。開催にあたって何から手をつけるのか、どんな業務があるのか、簡単に箇条書きでまとめられている。そんなところからスタートなのか、と会議の時に少し辟易してしまった。パソコンを使って簡単なアンケートやカレンダーなんかを作る必要があったので、私は放課後の教室でタブレットを開いて作業を始めた。


 家に帰ってもできる仕事だったが、逐一確認をとる際に担当教師が近くにいないと不便だと思った。そんな、事細かに言われないとわからない頭ではなかったが、初めて作る書類に確然とした自信があるわけでもなかった。教師とのやりとりが家でもできれば話は早いのだが、そんなことを教育委員会が認めるわけはない。公私混同も甚だしい、杏香じゃないが、教師と学生のお粗末な利用方法の末路が一学生の私にも分かってしまう。そんなもののために戦ってまで家に帰りたいとは思わない。自分の都合を優先させるには、渋々今の環境にへりくだり、一秒でも早く仕事を片付ける他なかった。


 事前に受け取った昨年度の様式と見比べて、今年度の修正案を盛り込む。書き直すだけなら楽だったのに、余計なデザイン性やポップさを押し出して無理矢理にでも仕事を作り出そうとしていた。給与がでるなら俄然やる気もでるが、もらえるのはわずかな労いの言葉と内申点への加点くらいだろう。私の評定なら別にやらなくてもそこまで内申に響きはしない。そう、無理してポイント稼ぎする必要がないのだ。こんな仕事も、ボイコットしたとしても誰かが代わりにやってくれるはずだ。誰も私に責をぶつける者はいないだろう。

 

 そもそも、どうして文化祭の行事を教師の裁量一つで生徒の負債にしなくてはいけないのか。文化祭の参加は自由であり、やる気のない者は学校にこなくてもいいはずなのに。クラスでの出し物を決め、申請の手続きを行い、予算を割り出し、必要なものを揃えていく。やることは山積みなのに、見返りは信頼感などという目に見えないいい加減な代物だ。


 急にやる気の削がれてきた私は、寒くなってきた教室で一人、動かしていた手を止める。


 今日はもう止めよう。期日までは数日ある。急いでいいものができるわけでもないし、課題もそれなりに出ている。バランスよくやらないと、全体にガタがきてしまう。立ち上がった私は進捗を見せに職員室へ向かった。


 引戸を開いて手近にいた先生に声をかける。


「すいません、藤先生いらっしゃいますか?」

「藤先生? えーっと。この時間は、多分生徒指導室じゃないかな」

「分かりました。ありがとうございます」


 失礼します、といって立ち去る前に、私はふと今朝のことを思い出した。


「あ、あと、山井先生はいらっしゃいますか?」

「山井君? あぁ、まただよ。人気あるね、山井先生は」


 頭をかく中年の教師は笑いながら続ける。


「山井先生バスケ部の顧問だから、今は体育館だよ」


 そうだった。杏香は山井先生を体育館で目撃したといっていたじゃないか。今は部活動の時間で、彼はその責任者だ。職員室には残っていないはずだ。


「と思ったら、偶々いるね。あそこ」


 先生の指差す方向、職員室の隅。髪の長い白のポロシャツを着た男性がなにやら忙しそうにパソコンへ向かってキーボードを打ち込んでいた。


「早くいかないと、先生部活に戻っちゃうよ」


 急かされた私は引くに引けない状況に陥ってしまった。杏香があれほど言うのだから、どれほどのご尊顔か拝んでみたかっただけだ。なるほど整った顔をしている。人を惹き付けるようなアンニュイな雰囲気があり、つり目がちな目元がかっこよさに拍車をかける。


 人気、というからには他の女生徒が山井先生を訪ねて来たのかもしれない。バスケ部であることも知らないようなミーハーな生徒たちが段々とその魅力にとり憑かれるようにして誘われる。


 それか私が知らないだけで、彼の担当する倫理という科目は放課後に生徒が訪ねてくるような難しい内容なのだろうか。社会科のカテゴリーで授業外に先生へ話を聞くなんて相当マニアックな生徒たちだと思うが。


 今さらやっぱりなんでもないです、なんて言って回れ右すれば、なんか私が山井先生のことが気になってやってきたけどいざ本物を見て緊張して帰った、みたいに思われそうなのがちょっと嫌だった。用事もないのに人を訪ねるのはよくない。先生たちは見世物じゃないんだ。教訓としよう。私は心に固く誓った。


「山井先生」


 私は本意ではないが杏香が為し得なかった先生との会話を、初めて会った日に達成してしまう。不憫だから杏香には黙っておこう。


「はい、なんでしょう。ん? 一年生ですか?」


 改めて山井先生の顔を見る。やっぱり記憶にない。人の顔を記憶するのはとんと不得手だ。私は困った顔の山井先生に言った。


「一年一組の光島です」


 光島。ぽつりと呟いた山井先生。彼も記憶の中に私を探そうとしてくれているようだが、生憎私たちは今日初めてあった。心当たりがないのは当たり前だ。


「友達がバスケ部の見学をしたいと言っていたのですが可能ですか?」


 とってつけたような嘘をつき、私が来たことの妥当性を成立させる。


「ああ、見学! いいですよ。いつでも大歓迎です」


 にっこりと笑った顔にえくぼができた。優しそうな先生だ。そういえばかなりフランクだと言っていたか。


「友達、というのは今日は来てないんですか?」

「あ、はい。今日は都合が悪くて、私が代わりに聞くと言ったので」


 さもしい張りぼての笑顔でなんとか乗り切った。もう失礼しても問題ないだろう。これ以上私が先生と話をしても意味はない。


「では、本人に伝えておきますので。ありがとうございました」


 私は踵を返そうと身を引いた。その時、山井先生が再び尋ねる。


「その見学の子は、女の子ですか?」


 キーボードを打ち終えたのか、回転椅子から立ち上がった先生は職員室から一緒に出るように手で合図する。私はそれに従い歩きながら返事をした。


「え、ええ。そうです」


 扉を抜けた先生はさらに尋ねる。


「お名前は、なんと言うのでしょう」


 しまった。まさかそこまで聞いてくるなんて思わなかった。誰の名前を借りる? 誰なら勝手に使って問題ない?


 私は杏香の話を聞いて山井先生に会いにきた。それって私の失敗で、嘘をついたのも私だ。それで誰かを巻き込むのはちょっと違う。元々用意していなかった出任せなのだから化けの皮が剥がれても仕方がない。フランクな先生なら、冗談でしたと言えば許してくれるだろう。


 それなのに、何故だか私はこの先生に、本当のことを言ってはいけない気がした。咄嗟に思い浮かんだ名前を、私は言ってしまった。


「篠崎、早苗です」


 ほぅ、と顎に手をあてた山井先生。


 一年生の名前をすべて把握しているはずはない。大丈夫。ばれない。私は静かに息を止めた。頷いて見せた先生はきっぱりと言った。


「いや、一年生の名前を言われてもぴんときませんね。それでは、光島さんも是非、バスケ部見学に来てくださいね」


 そのまま体育館に向かった山井先生の後ろ姿を見つつ、私は安堵のため息を吐いた。


 どうして、彼女の名前が出てきてしまったのだろう。


 この高校に在籍している人の名前であれば、誤魔化しもきいただろうに。私はまだ、固執しているというのだろうか。とうになくなってしまった導、寄る辺に。


 頭を振って懐かしい名前に見切りをつける。私は今やるべきことを思い出す。そうだ、生徒指導室に行かなきゃ。


 職員室から少し離れたところにある生徒指導室。私はまだ厄介になったことはないが、これからここに呼び出されることもあるのだろうか。使用頻度が高いとは思えない学校の一室。中学の時にもこんな場所で説教を食らったことはなかった。


 戸をノックするが、入り方は職員室と同じでよいのか分からなかった。中は見えないし使用中の札や立ち入り禁止のお触書も出されていない。返事はないが、とりあえず中に入ってみることにした。


「失礼します」


 引き戸をスライドさせると、図書室にも似た紙の匂いが中から外へ抜けていった。教室よりも少し狭い室内には大きな会議室用の長机が二台くっついて置かれ、パイプ椅子が数脚沿うように並べられていた。


 部屋の奥に位置する場所、本棚を背に一人の教師がノートパソコンとプリントを並べて何かの作業を行っている。


「光島か、どうした」


 不健康そうな目元。痩せた体型。白髪の目立つ頭。数学を担当している藤先生だ。私はこの先生が生活指導を兼任していることを澄桜から聞いていた。とりわけ彼女の先輩は先生から目を付けられ、たびたびその浮ついた身だしなみの件で呼び出されることも多いのだとか。


「文化祭のアンケート、途中までできたので確認してもらいたくて……」

「そうか。見せなさい」


 この先生を苦手とする生徒は多い。数学という内容もそうだが、授業は淡々としていてつまらない上に、内職や居眠りが見つかると手厳しい説教が叩きこまれる。問題の解答をミスすればやっかみを言われ、普段の行いにまで注意が入ってしまう。藤先生の授業は教室の中を緊張で一杯に満たし、気を引き締めて挑まないとどんなどやされ方をされるか分かったものではないのだ。


 私はタブレットを開いて藤先生の前に差し出す。改変した個所は分かりやすく赤字で色を変えた。元の資料の参考も必要だろうから、昨年度の資料も一緒にして隣に並べる。


 落ち窪んだ目元が上下し確認作業が入った。私は手を重ねてお腹の前で弄んだ。


 これは数学の問題ではない。分かってはいたけれど、一対一で藤先生と対面したことのない私は、彼の放つ鈍重な圧力にただ沈黙するしかなかった。まるで裁判所で沙汰を言い渡される前の如く、私は自分のしてきたことをただ見つめ直すばかり。


 澄桜の先輩は素肌に近かったけど多少のメイクは施していた。この教師がいてよくあんな派手に校則を破ることができたものだ。


 息を吸い込んだ藤先生は、私の目を見て告げる。


「このままで大丈夫だ」


 ほっと胸をなでおろした私は、返されたタブレットと資料を受け取り了解の返事をした。大したことではないのに、どっと疲れたような気がする。続けざまに藤先生は私へ言い放った。


「光島。これとは別にもう一件頼めるか?」


 私は背筋が冷たくなるのを感じた。まずい、これ以上仕事が増えるのは勘弁願いたい。私だって花の高校生だ。学校行事のために奔走することだって悪くないと思うが、他の誰かに任せられるなら是非そうして頂きたかった。


 日が落ちて暗くなった外の景色が、藤先生の背後に重なった。こんな時間になるまで私は頑張ったじゃないか。これ以上、何をしろというのだ。


「すいません、これで精一杯です……」


 やんわりと断りながら、私は俯きがちに先生の目を見た。そして再び息を止める。


 私は驚いた。


 この感覚、久しぶりだ。先生が求めているものが、分かった。


「そうか、ならいい。忘れてくれ」


 視線を戻した藤先生は、閉じていたノートパソコンをもう一度広げて作業に戻る。私は軽く会釈して生徒指導室から離れた。私は気が動転して頭の中をぐるぐると回す。


 単純な書き写しを命じられただけのはずだったのに、判断基準がよく分からない。持っていたタブレットパソコンを固く握りしめる。藤先生はこの訂正文書を見て、私に"期待"を込めていたのだ。授業中でさえ見たことのない、あの堅物先生の"期待"を。


 部活で張り上げる生徒の声はいつの間にか途切れ、静かな月夜が淡く校舎を照らし出す。私は夜の中に投げ入れられた自分の価値を、探そうともしていなかった。


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