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幕開き 【二】


「山井先生ってわかる?」


 私はびっくりして目を見開いた。先生?


「もう! 恥ずかしいから言わないでよ!」


 杏香は告発されたことに不満を嘆き、顔を袖で覆う。柔らかなブレザーが彼女の小さな体躯をすっぽりと覆う。前髪をきちんと切り揃えた彼女は、にへら笑いを浮かべながら身を小さくした。


「くるみ知らなかったでしょ。今時珍しいよねぇ、こんな子」


 短いスカートから長い脚を持て余す澄桜は、鞄を膝に置いたまま淡々と語った。


「すおとくるみだけの秘密ね、絶対ね……!」


 杏香が念を押すように私たちに詰め寄って小声で言う。切羽詰まった彼女の顔には、本気の色が見て取れた。揺れる体を手すりに沿わせるようにして私は体重を預けた。


 私たち三人は同じクラスで、通学で使っている電車も同じだった。杏香と澄桜は中学からの同級生でとても仲が良い。前園がかき集めた男女グループに偶然居合わせ、馬が合った二人の中に私が合流した形だ。


 杉山杏香。身長は低く小柄でおっとりとした雰囲気だが、陸上部で長距離走を得意とするなど、割とストイックな体育会系。部活のためかショートカットで小麦色の肌をしている。夏に比べればこれでも白くなった方だろう。うら若き乙女の肌を焼いてまで長時間の野外運動を行うなんて、屋外競技の部活には尊敬の念を抱かざるを得ない。


 川名澄桜。ミディアムボブの先端を少しカールさせた大人びた髪型に、背がすらっと高くプロポーションがいい。明るめの口紅でも引けばぐっと大人っぽさに磨きがかかり、魅力はもっと増すはずだ。右の涙ぼくろも色香があって、鋭い三白眼の瞳に見られるとドキッとしてしまう。


 高校で得た新たな友人。少なからず私には無いものをもっている二人に、珍しく羨む気持ちがあった。この年になれば、私だけが飛び抜けて特異だということを信じることはなくなった。そんな戯れ言が妄想であったと思い知らされることの方が多くなる。


 神童という言葉にあまりいい意味が付いてこなくなって久しい。子ども時代には映える活躍を見せた各々は、やがて健やかに伸びる他の苗にどんどん抜かされていく。気付いた時には凡庸な自分自身しか手元に残らず、過去の栄光に足をとられながら人生を歩まなければならない。神童という言葉をおいそれと使うと、早熟なだけの子どもがあまりにもかわいそうだ。


 電車が外の景色を押し広げていく。朝の日差しが段々とその角度を狭め始め、反対側の車窓から眩しい日光がさし込む。日を追う毎に通学時の空は暗くなり、目に飛び込んでくる夕焼けに似た空の色は、一日の始まりだということをあまり実感させてくれなかった。


「勉強してるの?」

「まぁぼちぼちね」


 他の生徒の話し声が聞こえる。中間試験が来週に迫り、朝練が制限されてしまった彼女たちは通常時間の登校を余儀なくされていた。いつもこの時間に登校することのない二人は、私に合わせて電車の時間を選んでくれている。だが二人が特に不満を漏らすようなことはなく、寧ろ早起きしなくてすんだことを喜んでいる様子もあった。自分で志願しておきながら、いざ休みになると喜んでしまう。部活動とはそら恐ろしく、そんな矛盾を孕んでいるのだ。


 私は話を戻すように告げる。


「ね、さっきの、どこでその先生の授業受けたの?」

「いや、授業じゃなくてね、山井先生バスケ部の顧問なの」


 山井先生とは、杏香がほの字になっている件の人物。


 私には顔が不鮮明で思い出すことができない。教科担当でもないし担任や副担任でもない。そもそも一年生の学年団にいない先生なのだ。曰く、三年一組の副担任で、選択科目である倫理の担当だそう。一年生と縁がなくとも別におかしな話ではない。


「校庭が雨で使えない時とかに体育館を借りることがあるんだけど、そこで初めて見たのが最初かなぁ」


 杏香は夢見心地で語る。こういう馴れ初め話、そういえば面と向かってしたのは初めてだった。


 話を聞くに、山井先生というのは、若く線の細い引き締まった身体つきの男性教師で、社会科の先生には珍しく生徒との交流もよく図る、授業の面白いかなり砕けたキャラだという。そんな目立つ存在なのに今までお目にかかったことがないなんて。この人だよ、なんて言われながらその人を引っ張って来てもらえれば、合点いったりするものだろうか。


 席に座り上目遣いで私たちを見る澄桜は、鞄の上に腕を乗せた。


「そっから何回も隠れて見に行ったり、ずっと話をするチャンス伺ってるんだよね。杏香マジで一途じゃん」

「すお、なんかからかってない?」

「そんなわけないでしょ、半分だけね」

「こら!」


 軽く握った拳を澄桜の頭に振りかざす杏香。肩を竦ませて悪戯っぽく笑う澄桜は、さすがに杏香の扱いを心得ている。


 電車が曲がり、つり革に辛うじて掴まっていた杏香が慣性で体を引かれる。体勢を崩す前に、私が彼女の肩を掴んで転倒を防いだ。


「ごめん。くるみ、ありがとう」

「ううん。それで、その先生には話しかけたことあるの?」


 私の質問に杏香は目線を逸らす。代わりに応えたのは澄桜だった。


「接点がないから無理だよ。部活も違うし、そもそもそんな勇気ないんだから。所詮禁断の恋だったわけよ、別の先生にしな」

「ねぇなんでそんなこというの。信じられない」


 うるさくない程度に杏香は非難を浴びせる。そんなのどこ吹く風といった調子で受け流す澄桜は、からからと笑うだけだった。


「でも来年選択で倫理受けられるじゃん。良かったね」


 私は慰めるというよりも澄桜にいじられる杏香が可哀想で告げた。杏香は私の制服の裾を掴み、目を輝かせる。


「くるみはやっぱり分かってる、そうなの! 私速攻で倫理にしたから!」

「馬鹿だ、こいつ」

「なに!」


 澄桜に飛びかかる杏香。まるでコントでも見ているような二人のやりとりに私は笑ってしまった。


 駅に止まった電車から、わらわらと生徒たちが降りていく。その波に流されるように私たちも続く。住宅街が見下ろせる丘の上にある駅は、改札が少なく混雑する生徒たちで溢れかえっていた。テスト週間が近くなると、部活動などで分散されていた学生たちが集中し、時折こんな光景を見せるようになる。


 同じ制服に身を包む生徒に囲まれながら、下り坂を歩く澄桜が私に訊いた。


「くるみさ、文理選択どうした?」


 二年生に進級する際、進学率の高い我が校は明確な文理選択を求められる。共通テストの利用を目的とした国公立受験組と、私立大学に狙いを絞った私立文系組。得意な科目もさることながら、受けたい大学に目標を定め、ひいてはその先の進路も見据えて私たちはこの分岐を選ばなければならなかった。遠い未来だと思っていた大人になった自分を、私はまだ上手く想像できないでいた。


 私がなりたいものってなんなのか。


「理系にした。兄弟いないけど、私立ってお金かかるから」

「へぇ、そんなの考えてるんだ。偉いね」


 偉くない。私はちっとも、将来のことを考えてない。


「澄桜は?」

「ウチは私文かなぁ。物理とか化学とか、できそうにないし」


 口の端を持ち上げた彼女はそう嘯く。嫌いなものから逃げるために選択肢を決めてしまう。怒らく多くの受験生がそんな曖昧な態度で進路を決めていることだろう。私には文句を言う資格さえない。でも澄桜の学力を私は知っている。彼女は古文とか現代文の読解で、問題を外したことがない。彼女は私と違って、文字を読むのが得意なのだ。


「そっか。じゃあくるみとはクラス分かれちゃうのかぁ、杏香も私文だから」


 こればかりは仕方がない。嘆く杏香が声を上げたが、それに便乗したのはやはり澄桜だった。


「えぇー、また杏香さんと同じクラス? もう勘弁してよ」

「ちょっとそれどういう意味? 杏香がいないとすおも寂しいでしょ」

「あんたは倫理特進クラスに行きなさい」

「ねえそんなのない! 馬鹿にして!」


 またやってる。私は微笑ましくそのやりとりを見ていた。


 偶然、そんな二人の会話を聞いていたのか、横にいた女生徒が話しかけてきた。


「あれ川名? お疲れぇ」


 澄桜の苗字を呼んだのは、多分彼女の先輩だろう。セミロングの髪をハーフアップにした可愛い系の容姿、ぽってりとした唇に色つきのリップが塗られていた。


「おはようございます先輩。また先生に怒られますよ」


 澄桜に窘められた先輩はさばさばした笑いを返す。


「あぁこのリップ? めちゃ可愛くない? 川名も素材いいんだからもっとお洒落しなよ。先生とか全然余裕だし。藤とかに言われたら逆に私がボコすから」


 あっけらかんと言う澄桜の先輩は、冗談めかしながら強気に言う。色つきリップや化粧は、校則違反のはずなのに。さすがの澄桜も、先輩の迫力に圧倒され愛想笑いをしていた。


 あの感じだと、三年生くらいなのかなと推測する。私も二年経てばあんな風になるのだろうか。身も心も大きくなった、ちょっと怖さもあるような先輩たち。


「そっちの子も、気を付けなよぉ」


 突然私に目線を向けた先輩は私にウィンクを決める。


「私?」

「そう、国公立いくんでしょ? 来年はどうか知らないけど、あのキモい藤がいるからねぇ」


 じゃ、と言ってすぐに去ってしまった先輩に、私はどういう意味かを聞けなかった。澄桜が驚いたように言う。


「すご。くるみ、横田先輩に話しかけられた」

「え? なに、どういうこと?」


 私が困惑しているのを複雑な表情の杏香が答える。


「あの先輩、自分が認めた美人にしか声かけないんだ」


 もう見えなくなってしまったその先輩の後姿を探す。砕けた態度だと思っていたが、そんな残酷な餞別を行っていたなんて。ちらと視線を戻した私は、澄桜の変な様子を捉えた。口元を抑え、明らかな冷笑をみせる。彼女のこういう時のノリは分かりやすい。短い付き合いでも、もう何度も見てきた。特定の個人を馬鹿にしているのだ。

 

「そ、そうなんだ。よかった、ラッキーだったよ。昨日美容パック使ったからかなぁ……」


 私は努めて朗らかに言った。杏香のほうを見ないで。そうしたほうがいいと思ったから。


 他の生徒たちに囲まれた喧騒の中、我慢の限界が来た澄桜がブフッと吹き出す。


「杏香、毎回無視されてるッ……」

「ねぇ、言わないでよそれぇ」


 私は申し訳なく思いながらも、不貞腐れる杏香とそれを笑い者にする澄桜につられて笑顔をつくった。


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