第六話
「いってきます。」
いつものようにローファーをつっかけ、玄関の扉を開ける。太陽の光が眩しいところまでいつもの通りだ。時刻は七時七分で、普通に歩いてもいつものバスに間に合う時間だ。
だが、心と体はいつもと違っていた。胸の奥でうずく鈍痛が昨日の出来事を物語っていた。思い出すのも痛々しい、自らの過ちの記憶。
あの後部屋に戻った俺は、ベッドに倒れ込んだまま眠ってしまった。目を覚ましたのは母の声で、大急ぎで朝ごはんを食べてシャワーを浴び、制服に着替えて今に至る。「かつと、昨日風呂入ってないでしょ、早くシャワー浴びなさい。」と言って俺を起こした母のファインプレイと言ったら無い。
今日どういう顔で華奈と会えば良いのか。バス停に向かう道すがら、そのことで頭はいっぱいだった。
自分は嫌われてしまった。どちらかと言えば加害者側で。悪気がなかったことだけは伝わっていて欲しい。けれど、そんな願いも顔も合わせず話もしない間柄になってしまえば関係のないことだ。俺と華奈の長い付き合いもここで終わる。
あーあ、と口から言葉がこぼれ出た。こんな時でも自分は無表情でいるのだろうか。鏡があるのなら、ちらと覗いてみたい気分だった。本当に、ちらと。
住宅地を抜けて、大通りに入る。いつものように華奈が合流する気配は全くと言っていいほどなかった。むしろ俺自身が来てほしくないとも思ってしまうほどだった。夏の終わりの蒸し暑さが鬱陶しかった。
バス停に着くとすぐにバスがやってきた。時計も見ずいつも通りの歩調で歩いていたつもりが、どうやら少し遅いペースだったらしい。危ないところだった。
俺はそのままバスに乗り込もうとして、思い出したように後ろを振り返った。
誰もいない。やはり華奈は来なかった。
いつも二人で座っていた二人がけの席に座るのがいたたまれなくなって、誰もいない一人がけの優先席に座る。いつもの席が視界に入るのが嫌で、バスの窓から外を見つめるしかなかった。
「バスが発車します。」
まばらに人がいても、話し声ひとつない車内に運転手の声が虚しく響いて、運転手はわざわざそんなことを言っていたのだと今更になって知る。乗ってからもずっと話し続けていた華奈と俺には今まで全く聞こえていなかったのだ。
バスから見慣れた景色を見続けるのは思ったよりも退屈で、この店でやっと三分の一の距離くらいだとか、ここはいつも軽い渋滞で遅いだとか、まざまざと現実を説明されているようで気に食わなかった。けれど、眠ってしまえばそれはそれで降りるべきバス停を過ぎてしまいそうでできなかった。結局、ろくな精神状態にはならないとはわかっていても、考え事をするしかなかった。
華奈が合流しないとわかったとき、すっと胸が軽くなって、みぞおちの圧迫感が少し解けたのがわかった。あんなことになったのは自分のせいだというのに、どうなるのか予想がつかない、予想したくないがために華奈と会いたくないと思っている自分がいじましい。同じ学校で同じ地区に住んでいる時点で、どこかで会うことは避けられないというのに、そうなるまででもいいからそれまで会いたくないと思うのだ。人間はこんなにも早く掌を返せるものなのかと、その薄情さを身をもって知ることの情けなさに、またみぞおちが軋む。
そういえば、このバスに乗っていないということは、どうやら華奈は一本早いバスで学校に向かったらしかった。俺と華奈はいつも七時三十三分のバスに乗って行くが、その次のバスは路線が違い、学校の付近には着かない。ただ、途中で降りて軽く走っていけば学校の始業には間に合うというわけで、俺と華奈はよっぽどのことがない限りなんとか三十三分のバスに乗って学校へ行くことにしていた。誰も好き好んで朝から必死に走りたくはないということだ。とりわけ女の子ならなおさら。
つまり今日一日、華奈には会わないということだ。クラスが違ったことに初めてありがたみを感じていた。会いたくないとは思いながらも、自分から華奈を避けることはどうにもできそうになかったからだ。この期に及んでこちらから華奈を避けることは、余りある罪を重ねる行為のような気がした。
降りるべきバス停を降りると、学校の北口から入ってグラウンドの周りの小道を回って、やっと昇降口に着いた。ローファーから上履きに履き替えて、教室に行こうとする。
ふと、自分の予想が正しかったのか気になって、一組の靴箱を覗き見た。華奈のローファーは―――なかった。
どういうことだ、と頭の中が一瞬真っ白になる。あると思っていたものがなかった。それはつまり、華奈はまだ学校に来ていないということを示す。
急に、この瞬間を見られたらまずい、と思って早足で教室へ向かう。華奈は学校にまだ来ていない。次のバスで来るか、親に車で送ってもらうか、その二択だろうが、後者のためにも早くクラスへ行くことが先決だった。おそらく学校に来ないということはない。委員会の仕事があるからだ。企画の時点の雑務が終われば暇になると言っていた。それは畢竟するにその直前が最も忙しいというわけで、準備を来週に控えた今、華奈は学校を休むという不義理な行為はしないだろうと予想した。
教室へ入って席について一息つく、とりあえずこれで今日一日は華奈と会わないことが確定した。
「かっちゃん、おはよ。」
前から届いた竹屋の声にふと顔を上げた。華奈のことばかりに気がいって全く気づいていなかった。
「ああ、おはよ。」
手を上げて応える。
「あれ、珍しいね、何かあった?」
ぎょっとして竹谷を見つめる。竹谷は何の気なさそうにこちらを見ていた。
「…。」
何を言うべきなのか言わぬべきなのかわからなくて、必死に頭を回すが、言葉が出ない。ついには竹谷の方から助け舟が出た。
「あー、かっちゃん手上げて応えることって今までなかったから…。」
気まずそうに竹谷が笑う。そうだったっけか、あまり気にしたことがなかった。
「ちょっと朝から疲れてて。考え事してたんだ、すまん。」
具体性も何もなくて申し訳ないが、今ここでこのタイミングで言うことは出来なかった。いつか機会があれば竹谷には聞いてもらいたいかも知れない。今はまだわからない。
「そっかー。元気だしてね。」
「おう。ありがとう。」
竹谷の気遣いも、ここまでくると恐ろしい。心中見抜かれているのではないかと思えるほどだ。俺は周りから見たら無表情で扱いにくいだろうなと俺自身思っていたが、竹谷に関してはどうもそうではないようだった。やはり竹谷はどうも只者ではない。
それから少しして、担任がやってきた。そろそろホームルームが始まる頃だ。直に遅刻ギリギリの生徒がバタバタと廊下を駆ける音がするだろう。
案の定それからいくつか騒々しい足音がして、一人また一人と生徒が教室に入ってくる。その中に遠藤が混じっていた。どうやら野球部の朝練が長引いたようだ。そういえば朝から姿を見ていない。
「あー疲れた…。一時間目なんだっけ竹谷…。」
ひとつ前の竹谷が振り向いて、お疲れさま、と一言かけて続ける。
「現国だよ。」
担任の授業だ。
「じゃあ寝れるじゃん良かった~。朝早くて眠いわ~。」
お前よく当の本人の前でそんなこと言えるな!
つい勢いで突っ込んでしまいそうになった。危ない。そして竹谷が苦笑いをしているだろうことは想像に易かった。
チャイムが鳴り、ホームルームが始まる。連絡事項が述べられた後、今日の時間割の確認が行われた。
「えー、今日の時間割は、一時限目現国、二時限目数学A、三時限目社会の世界史、四時限目体育、五時限目英語、六時限目数学Ⅰだ。」
連絡事項として時間割を告げられた瞬間、しまった、と臍を噛む。今日は体育が入っていたことを忘れていた。体育は奇数クラスと偶数クラスで分けられ授業が行われている。華奈、そして金田は一組、俺は三組だ。大体いつも体育はあいつらとつるんでいたわけだが、ここにきて最後に牙をむくと思っていなかった。華奈に加えて金田とも、嫌われた直後に会いたくはなかったし、それに二人が仲よさげに話しているところを見るのが一番今の自分にとってダメージになることだとはわかりきっていた。
いっそ体育は休んでしまおうかという悪い考えが頭に思い浮かぶ。体育系の部活の経験があまりない自分は、スポーツが大好きというわけでもないし、活躍出来るわけでもない。体育には机に座って授業を受けなくても良いということと、華奈や金田を始めとする数少ない友達とつるめるということくらいにしか良さを感じていなかった。気づけばさっきまで、華奈に会うことを自ら避けることは罪をさらに重ねることのようだと思っていた自分を裏切る考えだった。やはりこういう窮地で人間の本性は出るものなのだろう。自らも知らなかった一面が垣間見える。
とは言え、ここで体育を休む行為は、金田に白旗を上げることに思えて、どうしても許せなかった。華奈と金田が二人仲良く話しているところを見るのはやはりきつい。だけれどそこで体育を休んでいることを二人に知られたくはないし、平気そうな姿だけは見せていたかった。ここで堪えている姿を見せるのは格好悪いと思う意地が、体育を休むことをひたすら拒んでいた。
キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴り、現国の授業が始まる。遠藤は礼をして座った途端に机に覆いかぶさって寝息を立て始めた。おい遠藤、と注意する先生の声もお構い無しだ。
かばんから教科書を取り出して右腕で頬杖をつく。今日は眠ったって良いだろう。体育までの猶予時間くらい、もう自分の好きに過ごしたい。
俺は右手で頬杖をついて、そっと瞼を下ろした。
********
キーンコーンカーンコーン、というチャイムで目を開ける。三時間目の世界史が終わった。結局三時限分ずっと眠ってしまっていた。ダウナーな気分を引きずって考え事をするのは嫌だったし、一度眠れば記憶は薄れると思って、ずっと寝続けていたのだった。
世界史の先生がそそくさと教室を出て行くと、一斉に一組の生徒が三組の教室に入ってきた。奇数クラスの体育の着替えの時は一組五組が女子の着替える教室、三組七組が男子の着替える教室と分けられており、休み時間に入ると同時に一組の男子が入ってくるのは毎度恒例だ。
俺は金田を見つけないように視線を外に向けながら体育用の学校指定のジャージに着替え、体育館シューズを持ってすぐに教室を出た。
特別棟と教室棟の合間の渡り廊下を渡って、北校舎に接するように建てられた体育館に入る。体育館シューズを履いて上履きは靴箱に入れ、体育館の壁際をゆっくり走りだした。うちの学校の体育は、始まる前に最低一周走って、授業開始後には準備体操、軽い筋トレをすることでケガ予防に努めるルールだ。
金田と遭遇したくないがために、何度も壁際をゆっくりぐるぐると回る。気温の高さと運動に慣れていない体のせいで、予想以上に汗をかく。それもこれも、元は自分のせいだ。致し方ない。
始業のチャイムが鳴ると、生徒が一斉にステージの前に集まる。男女に分かれ、クラスごとに出席番号順で二列ずつ並んで待つ。全員集まったと体育委員が判断すると、掛け声をかけ生徒は体育館中に列を崩さぬよう広がり、準備体操を行う。四、五分かけて体操を終えると、次はその場で腕立て伏せ、腹筋、背筋を三十回ずつ。これは小学校中学校ではなかったことで、高校に来て初めての体育ではびっくりしたものだが、慣れれば大したことはない。女子はそれぞれ二十回に抑えられてはいるが、入学当初は習慣がなく、最後までできない人も多かった。
体育委員は全員が終わったのを確認すると、再び掛け声をかけて、体育館のステージの前に生徒を集め並ばせる。この後の点呼で出欠席を確認すれば、やっとのこと競技に入れる。いつも体を動かすのが待ち遠しくて、この時間が体育の中で一番長く感じる。
「じゃあ出席確認するぞー。欠席があるクラスの体育委員は欠席の生徒の名前を言ってくれ。」
幅としては細身の女子の二倍はあろうかという体躯の体育教師が、その体とは裏腹な間延びした声で言う。体は険しくても、顔や性格は優しく、女子に人気のある先生。黒岩先生。全く名前負けしていない。確かずっとラグビーをしていたらしい。
「一組欠席いますー!」
一組の女子の体育委員が元気に手を上げながら答える。
「おう、誰だー。」
「出席番号二十八番の森野さんが風邪で休みですー。」
「わかった、他に誰かいるかー?」
華奈が風邪で休み…。
新たな事実に一瞬我を忘れた。その事実を知った瞬間に、感情よりも思考が先を行く。
確かに、昨日朝一緒に学校へ行った時は、風邪を引いたと言ってマスクをしていた。声も歪んでいたし、熱っぽそうだった。
だが、本当に風邪で休んだのか?
その問いが頭を駆け巡る。それに対する俺の予想は、NOだ。
昨日、あれだけの怒声をあげた華奈。朝、喉が少々枯れていたとは言っても、風邪は風邪だ。症状が酷ければあんな行動はできないだろうし、ましてや走って帰るなんて無理だ。あのせいで風邪が悪化して今日寝込んだという反論も思いつくが、昨日の朝の様子を見る限り、休むほどの症状でもない。発症したとするなら一昨日の夜。夜が一番酷く、昨日の朝までには大方治っていたと考えるのが自然ではないだろうか。そして、昨日の夜の修羅場。
休んだ理由ならば、昨日の夜の方が可能性として大きいだろう。
「大っ嫌い。」
その言葉だけで、なぜ、と問いたくなる気持ちもおさまるというものだ。
ああ、また思い出したと少し後悔する。だが仕方のないことだ。それが事実。
何はともあれ、金田の存在が気になるものの、結局華奈は学校には来ていないのだ。もう朝のように気負う必要もない。とにかく今は、この授業で体を動かし汗を流して、少しでも気持ちを晴らすことが最優先だった。
今日の体育の種目は、一組と三組がバスケットボール、五組と七組がサッカーだった。出席確認が終わるとチーム決めをしてトーナメント戦となった。チームの決め方は、男子女子で分かれ、クラスがそれぞれ四十名ずつなので八チームずつとなった。それを三つのコートで行っていくわけである。
俺自身スポーツが得意とは言えないが、バスケは皮肉にもバスケ部に所属する金田の影響で人並みに出来るようになっていた。
トーナメントの配置はあみだくじ。シードなしの一回戦、準決勝、決勝という形。
最初の相手は―――皮肉にも金田の率いるチームだった。
試合時間は六分。ジャンプボールはうちのリーダーと敵の金田。
ピイイと先生が吹いたホイッスルの音で、三コート全ての試合が始まった。ジャンプボールを制したのは金田。バスケ部員は、体育のバスケでは自ら得点を狙いに行くことは少なく、パス回しに専念する方が多いのだが、金田もその例に漏れず、素人のメンバーの間に入ってパスを繋げていく。
だが、部員ではないがバスケが得意なメンバーがいたようで、パスを止めようとこちらのメンバーが右往左往しているうちに、スリーポイントラインとフリースローラインの間からシュートを打たれてしまった。しかも、リングに触らないナイスシュート。ああ、とこちらのチームから残念そうな声が漏れる。敵のゼッケン三番は要注意。
すぐにうちのリーダーがエンドラインから切り返す。少しは使えるということを知ってか、リーダーは近くにいた俺にパスを回した。俺がドリブルでセンターラインまで上がっていくと、メンバーは敵コートに散らばり始める。それと同時に敵は味方のマークに付き出し、いよいよ俺のもとに敵がカットに来た。
俺はドリブルのまま敵を交わすフェイントを入れながら、マークから抜けたゴール右手手前のメンバーにボールをパス。このパスが通れば点は入ったも同然だ。
と、俺の死界左側から飛び出した影。ゼッケン二番の金田だった。パスコースが読まれていた。金田がボールを片手で保持すると、敵と味方が全速力で逆のゴールに走っていく。俺もそれに漏れず振り向いてゴールに向かって走りだす。間髪入れず背中越しにボールが飛び、ゴール前に丁度ついた敵三番に渡った。
敵三番はそのまま何の迷いもなくレイアップシュートして得点。これで〇対四だ。
それからは同じように敵の二番三番コンビに翻弄され、試合は完敗。少し遠い位置から神頼みで打った俺のシュートが一本と、リーダーのスリーポイント一本が得点にはなったが、それでも五対十六という結果。一回戦負けだった。
激しく動きまわって汗まみれになった俺は、コートの隅、壁面にもたれかかる。ゼッケンを引き剥がし、少しでも体温を下げようと、重くなった体操服でパタパタと風を送った。
思っていたより、試合中は金田の存在をなんとも思わなかった。華奈に拒まれ、金田とはそういった争いの目が無くなったと思っているからかもしれない。あれだけ会うことになるのかと神経質に考えていた華奈は風邪で休んでいたし、金田と仲良くしているところを見ることもなかった。
ほっと一息ついて体を涼めていた時だった。
「よう。」
目の前に仁王立ちするものがいた。
溢れ出る汗も拭わず俺を見下ろしていたのは、金田だった。
その金田の口元が僅かに歪んで、嘲笑うように告げる。
「お前、華奈に振られたんだってなァ。」
抑えこんで、薄れ消えかけていた気持ちがふつふつと再び沸き立ってくるのがわかった。こいつだけには負けたくない。金田の粘着質で陰湿な笑みを叩き割りたくなる衝動を必死に留める。
先ほどの六分間はまるで嘘だったのだ。スポーツによって拳と拳で分かり合えたような気になっていた自分の無防備さを恥じた。
「この前からお前も表情に動きが出て、いじめ甲斐がある。」
奥歯がミシ、と僅かに鳴った。自分が強く奥歯を噛み締めていたことに気づかなかった。昨日の朝のように、自分で自分の表情を自覚する。
金田にだけは負けたくない、という気持ちは、その通りあくまで金田への対抗心であって、華奈への気持ちがそれを引き出したとはいえ、華奈への感情からは切り離された感情だった。そして、どうして俺がダメでこんな奴が、という妬み嫉妬の感情でもあった。
基本的に感情が表情にでない自分がこうも顔に出るまで感情的になったことは本当にこの数日間が初めてだった。しかも、今日は昨日を超えるほどの感情。
昂ぶった俺は、我慢できずにすっくと立つ。金田と目線が揃った。その目を覗き込むために一歩近づく。
すると金田は嘲笑を崩さぬまま一歩下がって、胸の前で手のひらがこちらに見えるように手を振った。弁解するようなジェスチャー。
「待て待て克人、別に俺は争いに来たわけじゃねえ。勝手に突っ込んで勝手に振られた奴に八つ当たりされる理由もないからな。」
さらに畳み掛けられた煽り言葉に頭の奥でカッと火花が散った。ここまでバカにされて手がでない奴がいたらとんだ聖人君主だ。どれだけ顔に感情が出まいが、心の中に渦巻くものは誰とも一緒だ。
気づけば俺は金田の首根っこを掴んでぎりぎりと締め上げていた。首を締めるというより、金田の体操着の胸元を握った拳を金田の体に押し付けている形だった。
ふと我に返って、少なからず視線が自分に集まっていることに気づく。三つのコートで激しい試合が行われているのに、しん、と空気が動いていないようだった。そこには喧騒を抑えこむ重力がかかっていた。
視界の端に、こちらへ歩調を強めて歩いてくる生徒の姿を認めた。胸ぐらをつかまれても表情を変えない金田にさらなる憎らしさを感じるも、その立場の悪さに手を離す。この場にいるのがいたたまれなくなって、キッと金田を一睨みして体育館の出口へと走る。
後ろから「おい!待て白井!」と声がかかるのもお構いなしに走り続け、教室へと向かう。こんなクソみたいな日くらい、早く帰ったって良いだろう。そんな思いでいっぱいだった。
渡り廊下を渡って南校舎に入る。三組の教室からかばんと着替えを半ばひったくるように回収して、昇降口に駆け込んだ。上履きを靴箱に放り込んで、ちらと一組の靴箱を伺う。さっき聞いたように、靴箱に華奈のローファーは入っていなかった。
誰もいない運動場の傍の小道を、一息もつかずに駆けて北門を出た。途端、ふっと体が軽くなったような気になる。百メートルほどの小道を一気に駆けたために、滲む汗や乱れた呼吸で体は精一杯だというのに。自分を縛るものから解放されたということだろうか。考えるのも当分面倒に違いなかった。
いつも帰るバス停まで歩いて時刻表を眺める。この時間に乗るのは初めてだから、何分にバスが来るのか皆目見当がつかなかった。
バスは朝ほどにせわしなく運行しているわけではなかったが、どうやら到着までにもう数分かかりそうだったので、次のバス停まで歩いて時間を潰すことにした。一目散に学校から飛び出してきたわけだから、なるべく近くにもいたくなかった。まだこの地点は学校が目視できる距離だ。
学校の体操服にかばん、それから夏服とはいえど制服を抱えて歩く生徒、という見た目は人目を引きそうで気になった。コンビニのトイレにでも駆け込んで一旦着替えるかとも思ったが、どうにもバスのタイミングが悪い。とにかくバスに乗って家に帰るまで耐えるほか無く、ずんずんと歩幅を広げて道を歩いた。
次のバス停について、少しだけ待つと、見覚えのあるバスが到着した。当たり前ながら普段下校に使っている種類のバスだった。乗り込んで、ほっと一息つく。とにかく学校からは無事抜け出せた。抜け出す時は不安どころか興奮とスリルを感じていたのに、喉元過ぎれば熱さを忘れるということか。本来の意味とは違うが、心中はそんなものだ。
昂ぶった感情も収まり、次第に理性を取り戻す脳が余計な思考を挟もうとする。しかし、こんな状況で思考する方向というのは決まって下向きなものだ。しがらみを振りほどくように俺は窓の外を見つめた。
普段は乗らない時間のバス。車窓から見える建物はいつもと同じなのに、中天に昇った太陽の光が建物に反射して、いつもより白んで見えていた。それはあたかもいつもの景色が自ら光を発しているようで、そんな晴々しい姿は俺の胸中を皮肉っているようにも思えた。
油断した隙に、ぬるりと金田の嘲笑う顔が思い浮かぶ。瞬時に不快感を催す画だった。
昨日の今日で学校を休んだ華奈と、その理由を知っていた金田。徹底的に自分が蚊帳の外であることを見せつけられる。たった数日で一変した関係。幼稚園から高校まで、太くもなかったが華奈と続いていた糸も呆気なく切れた。人間関係はこんなにも脆いものなのかと虚しい気持ちになる。
でもそれはきっとこれが恋愛だからだ。自分の殻も壁もなしに人に近づいているのだから、それは相手にとってはイエスかノーかの二つしかない。確率論ではないけれど、選択肢が両極端二つしか無いなら、どうしたって最善と最悪が成り立ってしまう。
言うなれば、自分はその片方を少しばかり強く引き当ててしまっただけなのだ。
それは結果としては不幸せ極まりない話だったが、その過程はと言えば幸せな話だった。そう、シアワセな奴だったわけだ、自分は。
一度では拭い去れないくらいに、じっとり染み付いた後悔。たった数日では元に戻れるはずもなかった。
それに比べれば今日学校をすっぽかしたことなんてのは些細な問題に思える。ちょっと強面の生徒指導の先生にガミガミと怒られて、少しばかりクラスで名が売れてしまえば終わる話だ。一週間もすれば笑い話として自ら話せる程度。あくまで大事のうちの小事という相対関係で、今の自分には華奈についての出来事以外の全てが大したことのないものに思えた。それは価値があるとか、ないとか、考えることを超えている感覚。
そこでふと、突然、得心がいった。
そうか、これが自暴自棄ってやつなのか。
これもまた、今までに新しい感覚だった。
今までに感じることがなかったもの。悔しくも、本当に悔しくも、こんな状態になっても金田と華奈によって自分にもたらされたものがあるということに気づく。
それは決してひとりただ淡々と日々を過ごしていくうちでは手に入らなかったもの、手に入るとしても、こんなありありとした形で、ありのままのような姿では手に入らないものだ。
そして自らが引き起こしたこの状況にも関わらず、自分が少しでもそこに意味を見出そうとする人間ということにも気付かなかった。
ただ自らの過ちを認めて学ぶことは、思っていたよりもしんどい。それを正しいと信じて疑わなかった過去の自分を裏切ることだからだ。さらに、それを間違っていると指摘するのは他人で、それを認めてしまえば、そこから現在の自分自身は他人に味方するのだ。身を引き裂かれる思いというのは、きっと本当はこんなとき使うのだ。
けれど、過ちがなければ気づくこともなかったことがあるというのは、それは前者と違って、きっともっと前向きな話で、マイナスがプラスになるのではなく、ゼロがプラスになるようなことなのだ。間違いがあって認識を正すということより、間違いがあったことで知るということ。
それはその間違いである事象の発生なしにはありえなかった。
それが今の自分を僅かに救った。
胸に穿たれた穴が僅かに埋まったのだ。
その救いにすがること、今の自分にできるのはそんなことだ。か細い糸口。
窓から見える景色に緑が増えてきたと思ったら、バスが最寄りの停留所に到着した。街路樹はどれだけ映える緑であろうと、日が落ちれば街灯、日のあるうちは太陽の眩しさで葉がくらみ、自然と色味が目に入らないことが多い。いつも歩いて通る道にここまで緑が茂っていたとは知らなかった。
バスを降りると、あまりの眩しさに目がくらんだ。蒸し暑さも大したものだ。七月ほどではないが、九月正午の日向も充分に太陽に焼かれる。
しかし体操服のままなすすべもなく、カッターシャツなら洗えるからいいかと安直にシャツで汗を拭う。目立つ格好ではあるものの、はるかにブレザーよりも体操服の方が露出が多く、少しでも涼しいのは違いなかった。
いつもより早い歩調で家へと向かう。そこに生じる違和感。答えは明快だ。
華奈がいないからだ。
一歩一歩にしてみれば些細な違いだ。歩幅が縮まっている程度のこと。それで変わるのはかかる時間とスピードくらいのものだ。しかし、いざそれを体感するとなると、どうも変な感じがする。いやに早く足を動かしている気になったり、思うよりめまぐるしく景色が変わったり。それと、顕著なのは歩きながらの考え事が難しいということを知ったことだ。華奈に合わせてゆったりと歩く速度が自分にとって当たり前で、ある意味安心感があったことに驚かされる。会話や考え事に没頭できる時なんてのは大抵、他のことに意識なんてない時なのだから。
だが今回に限っては、ただ歩くことだけしかできないことは幸いなことだった。例え救いがあるとは言えど、今の自分に考え事は毒であるということは重々に承知していたことだったからだ。
やっとのことで家にたどり着く。玄関から入った途端、散々人目が気になっていた体操服を脱ぎ散らかす。にじむ汗がすうっと、しんと静まり返る家の空気に気化して消えた。俺はその足で洗面所へと駆け込み、下着まで脱いで風呂場へ入る。
一旦シャワーを浴びてスッキリするとしよう。心も体も。
俺は水温を三十五度くらいに設定してシャワーを浴びた。うちは左のノブで水温を設定し、右のノブでカラン、シャワー、止を切り替えるタイプのシャワーだ。湯船のすぐそばにその蛇口やノブがあり、お湯を張る時はそのカランを使う。お風呂場はそこまで広い方ではない。浴槽は二人膝を詰めてぎりぎり入るくらいだし、洗い場も二人一気には洗えないくらいの広さだ。
夏の蒸し暑さに触れた直後のシャワーは気持ちよく、汗や皮脂と共に、後ろ向きな考えも全て流れていくような気がした。
ざっと浴びるだけ浴びて風呂場を出る。バスタオルでざっくばらんに体を拭き上げ、衣装ケースからパンツとシャツを取り出し履く。それから脱ぎ散らかした服とかばんを回収し、かばんを残し脱衣所のカゴに突っ込んだ。バスタオルとかばんを持って二階の自分の部屋へ戻る。玄関から続く階段を何の気なしに登って、廊下を挟んだ向かいの部屋の扉を開ける。
そうだった。しくじった、また思い出す。
不意に口から零れた言葉。シャワーを浴びてさっぱりした気持ちになっていたのに。迂闊だった。
部屋に入ってすぐ目に飛び込んできたのは、『坂道を登ると』だった。
昨日華奈から叩きつけられ、拾って部屋まで持って帰り、ベッドにダイブして手から離れ、そのまま置きっぱなしになっていたのだ。今朝は慌てて部屋を飛び出したがために、すっかり存在を忘れていた。
だが、ふと、自分の脳が自分の思った通りの反応にならないことに気がついた。
『坂道を登ると』を見てすぐにに思ったことは、ああ、また華奈のことを考えてしまう、ということだった。ここに至るまで再三華奈と金田のことを考えて、考えまいと努力して、シャワーを浴びて穢れを落とした気になっていたのに、また自分で引き金を引いてしまったと考えたのだ。しかし、予想したように思考は続かなかった。昨日の出来事がフラッシュバックすることもなければ、金田の嘲笑う顔も浮かばない。その代わりに自分の頭に浮かんだのは、今『坂道を登ると』を読んだらどうなるだろう、ということだった。この物語の結末に華奈への気持ちを重ね合わせていた自分。それが叶わないと知った自分は果たして今どんな感想を抱くのか。自分の今の状況を重ね合わせて、華奈の考察も含めて、二人がバッドエンドを迎えることを予想するのか、自分自身がこんな状況にありながらも彼ら二人は自分と華奈とは違ったハッピーエンドを迎えると考えるのか、はたまたこの物語をフィクションとして受け入れてから結末を予想するのか、自分への好奇心でいっぱいだった。俺は素直にその感情に感嘆するしかなかった。好奇心とはここまで貪欲なものなのかと。そしてそれを引き出すこの本の魅力。華奈が教えてくれたものだった。
持っていたかばんをベッドの上へ放り投げ、ベッドに歩み寄って『坂道を登ると』を手に取った。芸術には詳しくないが、ゴッホを思い出させるような荒い筆致で描かれた表紙。何度も読まれたと思われる傷み具合。日焼けした背表紙。自分の手にはうまく馴染まない。かといって、華奈の手にもきっと馴染まない。
ふと窓の外を見やる。今日はまだ陽も長い。全部読むのにも、読んで考え事をするのにも、たっぷり時間はある。表紙をぱらりとめくる―――その寸前。
ヴヴヴとかばんの方からバイブレーションが聞こえてきた。驚いてそちらを見る。なんだよ、こんないい時に。それが素直な感想だった。
ベッドの反対側にあるかばんに手を伸ばし、片手で中身を探って携帯電話を取り出す。震える携帯の液晶画面に映った名前は―――森野華奈だった。
どくんと一つ心臓が大きな音を立て、そのまま段々と速度を上げていく。体温がみるみる上がっていくのがわかって、みぞおちの辺りがきゅうとベクトル違いの重みを感じる。携帯を開く手は震えていた。何も思考が働かないまま、すがるような気持ちで電話を取った。




