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第五話

「そういや、今日も華奈来れないんだと。」

「あー。まだ生徒会忙しいのなァ。」

 金田がつまらなさそうに焼きそばパンを頬張る。

「この男と一緒にずーっと飯とか、辛気臭せーのなんの!はなっから終わりまで真顔の男より、表情のコロコロ変わる森野みてーな女の子の方がいいや俺は。」

 焼きそばパンを咥えたまま、じーっと俺の目を見据えてぼやく金田。おまえその人の前でよくもまあ悪口をなあ。

「うっせえ。じゃあ帰れや。」

「冗談冗談ー。すーぐ気にしちゃってもー。」

 全く自分勝手な奴。

「で?なんだっけ?」

「華奈が来れないって話。金田くんにごめんねって言っといてって華奈が言ってた。」

「おー。おっけおっけ、仕事頑張れって言っといてー伝令さーん。」

 調子良さ気に言う金田。今日はなんだかいつにも増してうざいな。

「俺はお前の伝令じゃねーっつの。」

 例のごとく昼休みに屋上で男二人昼飯を食っているところだった。今日は昨日とは違い曇っていて、その暗い雲の色が金田の憂鬱を強めているように見えた。

「おまえ、なんかあったのか。」

 試しに少し聞いてみる。

「べっつにー。代わり映えの無い日常にちょっと嫌気が差しただけよ。」

 そうだ、こいつはこういうやつだった。聞いて損した、と思うと同時に、毎日律儀に学校へ来て、昼休みに雲を眺めてパンを食べているようなやつには非日常なんて一生訪れないだろうなと思った。非日常を過ごす者が日常を羨ましく思い、そう願っても許されないように、日常にいる者もまた、そう簡単に非日常へ入り込めないようになっているものだ。入り込めないというよりは、入り込もうとしない、入り込めないという程度の低い話だ。非日常にいる者にはきっと、必ず理由がある。金田の独り言は、所詮意訳すれば最近つまんないから好きなアーティストとか近辺にライブにこねーかなーくらいのものだ。

 と、ひと通り考えたのちに、理屈臭いなと一人でダメ出しする。金田みたいだ。理屈臭さが感染ったのかもしれない。

「なんだよ、だんまり決め込んでよお。くだらねえとか思ってんだろー。」

 ふと、この金田に華奈の言葉について聞いてみたらどうだろうかという案がひらめいた。もしかしたら金田のことだ、上手く行かずとも屁理屈すれすれくらいの論理で華奈の言葉を破ってくれるかもしれない。その期待に、聞きたい衝動が抑えられなかった。

「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだが。」

「なんだよ急に、まあいいけど。どうしたんだ?」

 ゴクリと唾を飲み込んだ。震えそうな声を必死に制して言う。

「『相手を受け入れるってことは、相手が努力して変わろうとしない怠惰を許すこと』って言葉、どう思う?」

 俺は、金田はふうむと難しい顔をして考えこむと思っていた。もしくは一瞬で答えが出て、あーそれは、と調子を変えずさっきのような面倒臭そうな態度で理屈を垂れ流すと思っていた。

 しかし、金田が放った一言はそんな予想をはるかに裏切るものだった。そして認めたくもない事実だった。

 金田はああ、と得心のいった顔でこう言ったのだ。

「森野の話か。」

 一瞬思考が止まった。一瞬現実を拒否した。しかしその次には脳が現実を受け入れ、様々な想像が思い浮かんだ。

 教室で華奈から本を借りる金田。音響機器の揃った、CDにまみれた自分の部屋で一人『坂道を登ると』を読む金田。華奈に本を返す金田。華奈と『坂道を登ると』について話す金田。そして、金田に『坂道を登ると』について悲しげに語る華奈―――。

 この想像に怒りや妬みを覚えるのは、傲慢なことだとはわかっていた。わかってはいても、この感情を抑えることができなかった。いつの間にか握っていた拳に力が入る。顔はいつもの通り、無表情でいられているのか。心配になって、金田の方を見た。

 金田は意地の悪い笑みを浮かべていた。

「なるほどな。克人が好きな奴は、森野だったわけだ。」

 さっきとは比べものにならない、楽しそうな口調。自分の感情が逆撫でられているのがわかった。

「『坂道を登ると』だっけか…。読んだよ。かなり前にな。森野に借りて。その話も聞いた。残念だったな、お前が初めてじゃなくて。」

 何も言葉が出なかった。生まれてこの方感じたことのない程の感情だった。

「おい克人、珍しいな。いつも真顔なお前が。」

 金田がさらに笑みを強くして言った。

「悔しそうな顔してるぜ。」

 思わず殴りかかってしまいそうな激情が俺を襲った。だが、完全に金田に華奈への好意を認めることになってしまうという思いが、すんでのところで俺を引き止めていた。何も言い返せない時点で完全に認めていることになっているだろうことなど頭で考えきれないほどに感情に支配されていた。

「悪いけどよ、俺も森野のこと好きなんだよ。おまえにはむごい話かもしんねえけど、さらさら手を抜くつもりはない。俺と森野が付き合ってお前がどう思おうと、俺は知ったこっちゃない。なあ克人、お前もそうだろ。」

 これにも何も言い返せなかった。俺は自分の気持ちに精一杯で、もし俺と華奈が付き合って金田がどう思うかなんて考えもしなかった。ただ、自分が華奈と付き合いたいという気持ちだけだった。手を抜かないという決断ではあれど、俺の気持ちに気づいてすぐに判断を下せた金田の方が一枚上手であることは抗えない事実だった。

「けどまあ、一つだけフェアじゃねえから教えとく。これは華奈から聞いた話じゃない。勝手に向こうからやってきた話だ。森野がああいう考え方になったのは多分、中学の時のせいだ。森野がイタズラ好きだったって話は俺よりお前のほうがよっぽど知ってると思うが、それで中学の時トラブって、完全にハブられていた時期があったらしい。あの考え方は多分、その経験が関係してるはずだ。俺が知ってるのはここまでだな。」

 そこまで言うと金田は一人立ち上がった。

「わりいけど、居心地わりいから教室帰るわ。」

 食いかけの焼きそばパンを包装していた袋に突っ込んで、屋上の出入口まで歩いて行った。そしてドアを開けて出て行こうとする。しかし、金田は何かに気づいた様子でこちらを振り向いた。笑みを浮かべたままの口が開く。

「なんで、華奈はわざわざクラスが一緒の俺に、ごめんねって言っといてってお前に頼んだんだろうなあ。」

 みぞおちのあたりに耐え難いほどの苦痛が襲って、金田がドアを閉めると同時に、俺は屋上を囲むフェンスに拳を叩きつけた。フェンスは大して動きもせず、虚しく音を立てるだけだった。



   ****************



 動揺していた。

 これまでの人生で最も動揺していた。

 あれから地に足つかない状態で授業を受け、気づけばもう放課後前のHRだった。昼休みからのことはほとんど記憶になく、どうやってこの数時間を過ごしたのか全くわからない。授業で当てられなかったことが幸いだった。

「とっくに華奈は金田にあの本を見せていた」

「金田も華奈のことが好き」

 その二つの事実が頭の中でゆらゆらと嫌な想像を掻き立てていく。金田と自分、果たしてどちらが有利か、そんなことばかり考えてしまう。結局のところ論理的な思考など恋愛にはなんの意味もなければ、どちらが有利かなんて相手によっていくらでも変わるというのに。それに自分は既に本を渡すという形で告白をしてしまった。もう戻れない位置にいるのだ。そう思い込もうとしても、どうにも先の二つの事実は頭から消えてくれなかった。

 そして自分はどうやら自己暗示が強い性格のようで、一度こうと想像してしまうと、どうもそれを思い込んでしまうようだった。昨日バス停で見たあの二人のように、金田と華奈が二人で歩いている絵を想像してみれば頭から離れず、終いにはそれを受け入れ始めている自分がいた。

 ふと鳴ったチャイムで我に返る。クラスの生徒は席から立って身支度を始めていた。部活着に着替える男子、かばんだけを持ってさっさとクラスを去る女子、どの教科書を置き勉するか悩む男子、窓際でまだ友達と駄弁る女子。座って下を向き考えこんでいるのは自分くらいのものだった。

「かっちゃん。」

 前の方から聞こえる竹谷の声に向き直る。竹谷がこっちを向いて手を振っていた。その手前で遠藤があーだこうだいいながら野球部の練習着に着替えている。うるさい。

「今日一緒に帰らない?あ、森野さんが先に言ってたらいいんだけど。」

 竹谷ははにかみ、その振る手が早くなる。

 竹谷はよく華奈と俺が一緒に帰っているのを知っている。いつもなら気配りのできるやつだなと感心するところだが、昼休みがあったからか、森野という名前にチクリと胸が痛む。みぞおちへの鈍痛。

 しかし、今日のこの気分を少しでも和らげたかった。一人でいるよりきっと楽だろう。

「いいぜ、華奈は今日何も言ってきてないし。」

 そもそも、今日は華奈と帰るつもりなど無かった。あの本を渡して間がなさすぎる。華奈があれに気づいたかはまだわからないのだから、そんな曖昧な状態で華奈と会うことは避けたかった。あれはサプライズのようなもので、こちらから示唆しては大部分が意味のないものとなる。彼女があれに気づいてこちらに連絡を取ってくるのがベスト。今は耐えて待つしかない。

 俺は急いでいつもの通り教科書をかばんに突っ込んでからった。

「行くか。」

「うん。」

 一緒に帰るとは言っても、竹谷はこの学校まで自転車で十数分のところに住んでいるから、俺がいつも乗るバスが通る道を彼の家の近くまで一緒に歩くだけだ。

「そういえば、」

「何?」

「竹谷さ、大体いつも俺が華奈と帰るって決めてない日に一緒帰ろうって誘ってくるよな。」

 ふと、いつも思っていた疑問が口をついて出た。

 靴を履き替え、昇降口を出て、学校の北口へ続く舗装された小道を歩いている途中だった。竹谷は右隣で自転車を押している。グランドに響く野球部の掛け声と、からからと規則正しく鳴る自転車の車輪の回る音、北口への道沿いに植えられた樹木から落ちた小枝を踏み折る音、そしてセミ達の鳴き声が騒々しく耳に届いていて、自分の声が竹谷に聞こえているのか一瞬わからなかった。

 しかし竹谷はすぐにあー、やっぱり、と納得したような顔でこちらを振り向いた。

「なんかね、放課後のかっちゃんの行動には大まかに分けて二つパターンがあって。あーパターンとはちょっと違うかな…。とにかく放課後、かばん持ってすぐに出てっちゃう時と、携帯見ながらゆっくりしてる時とあって、僕が話しかけれるのは後者だけって簡単な話だよ。多分すぐ出てっちゃう時は森野さんと帰るときなんだろうと思ってたから、今納得したけど。かっちゃん、あんまり表情に出ないけど、多分行動とかだとわかりやすいよ。」

 無邪気に笑う竹谷。俺は竹谷を気配りのできる良い友達だと認識していたが、気配りどころかここまで物分かりの良い友達だとは思っていなくて、唖然とした。というか驚きで数瞬声が出ず、竹谷が少し訝しげに首を傾げる。

「そうなのか、自分では全く気付かなかった。」

 もしかすると華奈への気持ちすらばれているのではないかと思えるくらいに舌を巻いていた。竹谷を侮っていた自分に気がついて少しだけ申し訳なくなる。

「そういうのって自分じゃわかんないよねー。自分では何気なく日々を過ごしてるつもりでも、外から見れば意外とパターン化ルーチン化してたりするんだよね。僕そういうの多くて、よく親とか他の友達から言われるんだ。でもそれってある意味習慣だから、せっかくだしうまく利用するのが吉だよね。」

 なるほど、自分がそうだから気づきやすいというわけだ。

「ふうん、じゃあ俺の場合どうすればいいんだ?別に俺のその二パターンの習慣にうまい利用の仕方とかなさそうなんだが。」

「それはそのままでいいんじゃないかな、だってそれのおかげで僕がかっちゃんを帰り道に誘いやすくなってるわけだし。」

 竹谷が笑って即答する。そうか、益が自分だけとは限らない。

 竹谷を気配りのできるやつ、となんの気無しに認識していた理由がわかったような気がした。竹谷は自分と同じような他人のパターンやルーチンを察知し見分けることに長けていたわけだ。そこで他人にとって丁度いいタイミングや他人のペースを守りながら接することができるということ。今ここで初めて竹谷の凄さに思い至る。

「あーなるほど…。竹谷結構考えて行動してんのな。凄え。気疲れとかしないのか?」

「そうだねー。精神的な疲労感はあるかも。でも家族とか、遠藤くんみたいな気を使わなくてもいい人もいるから、そこで回復してるしそこまでないよ。」

「へえ、大したもんだ。いつも気使わせてすまんな。」

 華奈が言っていた「受け入れることは相手の怠惰を許すこと」という言葉が思い出される。竹谷は華奈の言葉で言うなら、受け入れるのがうまいのだ。友達関係ならば、自分にも相手にも負担にならない受け入れ方とも言うべき方法を身につけていると言える。

 これを華奈の話にも通用できないかと考えてみる。人間関係の中で、お互いのパターンやルーチンに合わせて行動する方法…。そう考えだして、すぐに心の中で頭を振る。そもそもその方法自体が相互的に成り立っていない。「相手のパターンやルーチンに合わせる」という時点で合わせる方と合わせられる方にお互いが別れてしまう。この方法は「合わせる方」に特化した竹谷だからこそできる方法に違いなかった。竹谷でなければ合わせる方は気疲れで倒れてしまうだろう。ましてや華奈がこれを実行し続けることができるはずがない。

「難しいな、なかなか。」

 華奈の考えを変えられるような考え方は、告白を半分終えているとも言える今でもまだ見つからない。金田が告白しているかはわからないが、それを差し引いても告白が通るかは推し量れない。

「そうでもないよ、慣れだよ慣れ。」

 突然の竹谷の返答に、竹谷のいる右を振り向く。きょとんとする竹谷を見て、ああ、と納得した。さっきのは独り言のつもりだったが、竹谷はあのパターンやルーチンを察知することについて難しいなと俺が評したと解釈したのだ。会話の中でまで考え事をするからこうなる、と自分を戒める。

「いや、なんでもない、悪い。」

 しかし、難しく考えていた華奈への反駁を、竹谷が大したことないよと言ってくれたような気がして、心がふっと軽くなる。金田とのことも、学校にいた時よりも今の方がフラットに考えられそうだ。

「ん、わかった。」

 竹谷ははにかんで、鼻歌を歌いながら前を向く。

 気づけば学校の北口を越え、いくつか自分が使っている路線のバス停も通り過ぎていた。もうすぐ竹谷との別れ地点だ。

 学校の北口から出て東にすすむと、学校の南のバイパスにも続いている大通りにつながる。この大通りはこの街の駅を電車路線と垂直に貫く形で通っており、両側二車線に広い歩道のついた通りだ。通り沿いにはずらりと主に個人経営のお店が並び、商店街にも一部繋がっている。もちろん貫かれている駅の周辺はその限りではなく有名なチェーンのお店や駅のテナントと併設されたお店なども軒を連ねている。言うまでもなくこの街のメインストリートである。俺の乗るバスもここを通って学校を行き来する。

「よし。」

 歩道に等間隔で植えられた街路樹の影に入ったところで竹谷が足を停めた。

「じゃあ僕こっちだから。」

 駅が遠目に見える交差点。ここを左に曲がって少し行った先が竹谷の家だ。まだ行ったことはないが。

「おう。じゃあな。」 

 手を顔の高さくらいまで上げて応えると、竹谷は自転車にまたがって帰っていった。

 自分の定期が使えるバス停は交差点の向こうに見えている。

 まだ終わっていない。その思いが竹谷と話して芽生えていた。あの様子では金田は華奈にその思いを伝えてはいないし、向こうが早かったとはいえ、段階的には二人とも本を見せてもらって話を聞いたという点で同じだ。金田と俺とどちらが有利かという差はほとんどない。あとはもう華奈が俺の告白をどう受け取るかだ。金田に関係なくそれが重要だ。金田が好きだから、と断られたらそれはそれでしょうがない。

 だが、本の名前を思い出すのに時間がかかる、本にあまり興味のない金田よりも自分の方が趣味は合うし、それなりに華奈の好きそうな告白の方法をとったつもりだ。この時点で俺には充分可能性があると考えてもいいだろう。今はそう信じよう。

 自分がネガティブになろうとポジティブになろうと、今となっては何も結果には関係ない。それなら結果がわかるまでポジティブでいたほうが楽だし、もしだめでもそれは結果がわかってからネガティブになればいい。

 だから、今できることは何も考えずいつも通り日々を過ごすことだ。

 全快近くなった精神状態で、青に変わった交差点を横断していく。両側二車線の車道には多くの車が行き交い、歩道には駅を目指す人々が汗を拭いながら歩いていた。夏のビジネススーツは見ているだけでこちらまで暑さが伝わってきた。陽は未だ地上から三十度ほどの西の空にある。

まばらに人の並ぶバス停に着いて時刻表を見てみると、もうすぐバスの来る時間だった。

その日は華奈からの色よい返事をひたすら祈りながら帰途についた。


 

   ****************



 ヴヴヴと腰のあたりで鳴るバイブレーションにぼんやりと目を開く。部屋は真っ暗になっていて、寝ているうちに日没を迎えてしまっていたらしい。網戸になっている南の窓からは日中よりも涼し気な風が流れこんできていた。暗がりの中で手を振り回してつかんだ目覚まし時計は二十二時を指している。

 誰が何の用で携帯を鳴らしているのかと、考えのまとまらない頭のままスラックスのポケットに入った携帯を取り出す。携帯の上部LEDは青色に光っていて、メールの着信を示していた。

 開いた先の送信者は―――森野華奈。



 From:森野華奈

 Title: Re:Re2:Re2:Re2:Re2:Re2:Re2…

  降りてきて。家の前で待ってる。



 混濁していた脳内がスッと冴え渡る。まるで脳内だけ急に温度を下げられたみたいだった。

充分に覚醒した頭が、自分に今何が必要か検分する。西側のクローゼットについた鏡を見て寝ぐせと服装の乱れを直し、あー、あー、と声がちゃんと出るか確認。よし、いける。

 そう思って、部屋を出ようとドアノブを掴んだ時だった。

「かつとー!華奈ちゃんが来てるわよー!」

 階下からの母の声。ドアノブをひねろうとした手が止まる。そしてじんわりとにじむ汗。急に早まる鼓動と高まる体温が、冴えたと思っていた頭が未だ現実を現実として受け止めていなかったことを思い知らせる。

 とは言っても、不安で足が止まったままということはない。どちらかと言えば自分は、不安よりも興味に支配されるタチだった。望まない答えだったらという不安より、果たして答えはどちらなのかという興味が先行する。テストの成績はどんな結果であれ一刻も早く知りたいタイプだ。

 震える手を制してドアを開けると、母と父の部屋にも繋がる短い廊下を経て木造の階段を降りていく。 階段を一段一段降りる度に緊張が高まるのがわかった。トントンと木に響く軽快な音さえ場違いに感じて、歩調が次第に慎重になっていった。

 二階へ上がる階段は直接玄関に繋がっているため、降りてすぐ玄関に華奈がいると思っていた。しかし階段を降り切って、玄関を見回してみると華奈はいない。母が俺を呼んだということは、華奈が一度入ってきて母が応対したからだと思っていた。

 制服を着ていることだしな、と思いローファーを引っ掛けて玄関のドアを開いてみると、華奈は門の側に背中を向けて立っていた。

 表情は見えない。 怪しげに夜闇に浮かび上がる学校指定の白いブラウス、腰の横で握る両の拳、力の入って僅かにいつもより上がった肩。虫の鳴き声が微かに聞こえ、撫でる風が涼しいこの夜この場を、まるで華奈は拒んでいるようだった。安らかな夜の空気に溶け込むまいとしているようだった。背中を向けて、身じろぎ一つ声一つしない彼女はただそれだけで何か俺に訴えかけてきていた。彼女は視覚的に騒々しかった。

「華奈。」

 その騒々しさが何なのかわからず、逃げるように名前を呼んだ。答えが知りたいという一心だった。

「ッ―――!!」

 思いっきり息を止め、吐き出すような声と共に、華奈が勢い良くこちらを振り向いた。左足を軸に右手を上げ、左肩を突き出す。右手には本―――『坂道を登ると』。気づけばそのモーションは、何か物を投げるモーションだった。そして極めつけは、眦を釣り上げ眉間に皺を寄せ、歯を食いしばり口元を歪めた華奈の表情だった。今まで一度も見たことが無いような、怒りを纏った表情。その気迫に、無意識のうちに一歩後ずさってしまっていた。

 右手に振り上げられた『坂道を登ると』はそのまま俺に向かって振り下ろされ、途中その手から離れる。全てはスローモーションのようにゆっくりと感じられた。勢い良く投げ放たれた『坂道を登ると』は俺の腹にぶつかって地に落ちる。

「ふざけないでよ!!」

 華奈の怒号と、本が腹にぶつかった痛みで体感速度が元に戻る。

 本のぶつかったお腹から、染みわたるように後悔が身体を苛んでいくのがわかった。

 華奈の一言で悟る。

 答えは「Yes」でも「No」でもなく、「Reject」だった。

 自分は振られたのではない。その前に失敗したのだ。

 華奈は息を荒げながら俺の目をしかと睨みつけていた。その怒りは冴え渡る刀身のように、触れたら切れるようなものというより、爆発的で、彼女自身をも飲み込んでしまいそうなものだった。動物で言うならまさしく獅子の怒りだ。

 そしてそのヒステリックながら俺自身に言葉以上の意味を悟らせる叫びは、ほんの一瞬だけ、『坂道を登ると』の凪沙を思い出させた。

 しかし、そんな追憶も束の間。

「私にとって、本がどんなに大切か、わかるでしょう!?」

 盲目だった。

 少し考えてみればわかることだったのだ。華奈がどれだけ本を好きで、どれだけ大切に思っていたのか。俺はその気持ちを裏切った。そう言っても差し支えない。

 恋は盲目だとか、そんな言葉は自分には当てはまらないとたかをくくっていた。忌々しい、思い上がり。

 俺が華奈に差し向けたものは、『坂道を登ると』の続きだったのだ。


『俺は高鳴る心臓の鼓動に支配されないよう、必死になりながらも言葉を紡いだ。

「俺、華奈のことが好きなんだ。いたずら好きで、おてんばで、でも変に繊細で、負けず嫌いな華奈のこと。多分、ずっと前から。気づいたのはほんとうに最近、高校に入ってまた一緒に学校へ行くようになってからだ。小学校の時のいたずら好きな華奈も、小学校の時よりも大人びた今の華奈も、どっちも好きなんだ。もし華奈が良かったら、俺と付き合って欲しい。」

 干からびたかのように水分の無くなった喉でひとつごくりと唾を飲んで、俺は彼女の返事を待った―――。』


「大っ嫌い。」

 荒らげた息の隙間から静かにこぼれ出たのは、まるでそれまでの怒りを凝縮したような一言だった。

 自分の胸の、みぞおちの奥底で、なにか大事なものが弾ける音がした。

 華奈はその一言を最後に、キッとこちらを睨みつけていた目をそらし、全速力で駆けていった。この目で追いすがることすらできなかった。自分を保つので精一杯なのだ。ずっと注意していなければ膝を折って倒れてしまいそうなほどの衝撃と絶望だった。

 華奈はきっと喜んでくれると思っていた。華奈自身が俺のことをどう思っているかはわからないが、例え主人公とヒロインが俺と華奈になっても、その続きは華奈が思い描いた結末と同じものだったはずだ。最終的に啓吾と凪沙が別れる運命だったとしても、そこまでは俺と華奈の想像は同じだったはずだった。

 しかし、華奈の返事は「私にとって、本がどんなに大切か、わかるでしょう!?」だった。根本的に間違っていたのだ。俺と華奈の共通する結末という以前に、そもそも華奈の大好きな本に続きを付け加えること自体が華奈のタブーだった。考える以前の問題だった。別にこれは華奈に限った話ではない。誰でも自分の大切なもの、好きなものを他人が上書きすることなんて望んではいないし、ましてやそれに他人の気持ちが乗っていたら。

「最悪だな。」

 そう言わざるを得ない。

自分の足元に落ちている『坂道を登ると』を拾わないわけにはいかなかった。のっそりと緩慢な動きで『坂道を登ると』を拾って、重くなった心と体のまま玄関へと帰る。出た時とは何倍とも思えるくらいの力をかけて扉を開けると、その先にはキッチン・ダイニングへ続く扉から顔を出した母が見えた。あれだけ大きな修羅場だ。聞かれていてもおかしくはない。

 そう思いつつもさらに落ち込めるほどの余裕はない。

 どんな言葉をかけられるのやらと待った先には、

「克人、あんただけ夜ご飯食べてないけど、どうするの。」

という至極日常的な言葉が飛んできて、その落差に一息つく。

 勿論、そんな気はとうに削げている。俺は小さく横に頭を振った。母も、

「そう、じゃあ冷蔵庫入れとくわね。」

という一言を残して扉を閉めた。その無関心さが今はありがたかった。

 俺は同じように降りる時の何倍もの時間をかけて階段を上がり、自分の部屋の扉を閉めるのも半端にベッドに倒れ込んだ。ほてった体にベッドカバーはひんやりとして気持ちが良かった。

 目の前には華奈が投げつけた『坂道を登ると』。つかんだままベッドに倒れ込んだ際に、手からこぼれ落ちていた。それさえも無意識だった。

「大っ嫌い。」

 ついさっきのことなのに、嫌に記憶が遠い。間違いなく、脳が精神的負荷の強いその記憶を拒絶していた。

 しかしこれは罰だ。消えそうな記憶を必死にかき集める。

 自分が引き出した、激昂する華奈の顔。自らの身体をも痛めるような投げ方でぶつけられた本とその痛み。地べたに落ちた本。怒りに見開かれたその目―――。

 ベッドにかかる重力が増したような感じがした。みぞおちにかかる圧迫感。体がだるい。

 圧倒的な精神の疲労からか、次第に瞼が降りてきた。このまま眠ってしまえば、きっと嫌な記憶は薄れるに違いない。だが、これは自分への罰であるはずだ、そう簡単に都合よく忘れて良いものか…。

 頭ではそう考えていても、体が動くことはなかった。俺はそのまま、深い眠りに落ちていく。

最後にこの目に見えたのは―――。

 勉強机の隣に置かれた黒いゴミ箱に入った、『坂道を登ると』だった。



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