第四話
「もう少しか。」
勉強机を前にして、俺は座っている椅子の背もたれにどっかと背中を預けた。両手を上に組んでそのまま上に伸ばし、目一杯のびをする。肩に滞っていた緊張がじんわりと流れていく。
時刻は二十三時を超えていて、少しずつ眠気が作業の邪魔をするようになってきていた。あとでリビングに降りてコーヒーを淹れてもらおうか。まだまだ時間はかかりそうだ。
机の上には授業中に文章をこしらえたルーズリーフと色鉛筆、筆箱そして『坂道を登ると』などが散乱していた。
今回は今のところ上手く行っている。どうにか朝までの八時間で完成させなければならない。そのためにはもうこれ以上失敗できない。今まで以上に集中して作業に取り組む必要があった。
「よし。」
反動をつけて背もたれから体を起こすと、ルーズリーフとインクペンを片付け、山吹色の色鉛筆を握った。文章はこれで完成だ。次は―――
俺は『坂道を登ると』を手に取った。
「克人ー!ご飯よー!」
いつもの母の声だった。はっと目覚めて顔を上げると、勉強机についた蛍光灯の明るさに目が眩む。どうやら椅子に座ったまま机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。立ち上がろうと椅子を引くと、首と腰がビキビキと軋む。何か重いものが乗っているような感覚。凝ってしまったようだ。
「いってー…。」
立ち上がって腰を捻ったり伸びをしたり前屈したりとひと通り体をほぐす。まだまだ普段通りとは言えずあちこちが凝ってはいたが、このままでは学校に遅れてしまう。急いで部屋を出ると、階段を降りてダイニングに向かった。
「おはよー。」
ダイニングに入ると父がテーブルについて新聞を読んでいた。
「おう克人。」
新聞を少し閉じてひょっこり顔を出す父。
「味噌汁もうすぐできるからそれ、食べてなさい。」
母は慌ただしげに台所を動き回っていた。ふたくちコンロで玉子焼きと味噌汁を作り、レンジで昨日の残り物を次々に解凍しながらまな板の上でキャベツを千切りにしていた。毎日弁当を作ってもらっている身としては、この朝の修羅場を見ていると頭が下がる思いである。
テーブルの上には茶碗によそわれたご飯と白菜漬け、海苔が置いてあった。うちの朝食はいつもご飯と小さなおかず、味噌汁、海苔というメニューである。おかずは主に付け合せ程度の小さな副菜になるのだが、白菜漬けだったりたくあんなどの漬物だったり、納豆だったりふりかけだったり、弁当が早めにできていたら弁当のおかずの残りだったりというところでバリエーションができている。大体母親の気分や、スーパーの安売りが何かで変わる。ちなみに俺は漬物が好きだ。
しかし海苔はどんなおかずがきても絶対に食卓に並ぶ。理由は単純で、家族みんな「何とか海苔ご飯」にしたがるからである。海苔はどんなおかずにも合う。
「いただきます。」
小鉢に入った白菜漬けに醤油と胡麻をかけて、摘んでご飯に乗せ、上から海苔をかけ箸ですくう。口に入れると味海苔のほんのりした甘みとパリパリとした食感のあと、胡麻の風味と白菜漬けの塩気、歯ごたえのある白菜の食感が口の中に広がる。ご飯が進む味だ。
「はい味噌汁!」
お椀に注がれた味噌汁が俺と父の前に置かれる。父はおお、と呟くと新聞を畳んで箸をつけ始めた。
味噌汁の具もおかずのように母の気分やスーパーの安売りの都合で変わるのだが、今日はキャベツだった。キャベツが世界のどこ出身なのかはわからないが、毎回この和洋折衷とも言えるかもしれないちぐはぐさが違和感を醸し出す。けれど一旦口にしてみれば、キャベツのシャキッとした歯ごたえと、染みた味噌の塩味に負けぬキャベツの甘さが口の中に広がる。一見してうーんこれは…と思っていたこの味噌汁は、いつの間にか朝ご飯のメニューに溶け込んでいた。
「ごちそうさま。」
父と共に手を合わせた後、洗面台で歯磨きを済ますと、部屋に戻ってカッターシャツに着替えた。時刻はもうすぐ七時。そろそろ出なければバスに乗り遅れてしまう。
いつもの通り、忘れ物がないかかばんの中を確認する。筆箱、今日の授業で使う教科書、弁当と水筒は家を出る前に母親から受け取るとして、あと財布と携帯と定期と折り畳み傘と…『坂道を登ると』。今日こそ華奈に返さねばならない。
時刻は七時五分を指していた。家を出る時間だ。
俺はカバンを閉めると部屋を出て、再びダイニングに顔を出した。
「母さん、弁当。」
「今出来た今出来た!はい!いってらっしゃい!」
灰色の巾着に包まれた平型の弁当と青色の水筒を受けとる。ちゃんと箸が入っているかと水筒の蓋が閉まっているかだけ確認して、かばんにしまった。
「いってきます。」
そう残して母親が手を振るダイニングを出ると、玄関にあるローファーを突っかけ外へ出た。
すでに太陽は建物に遮られないくらいにまで空に昇っていて、まとわりつく湿気にじんわりと汗をかく。
もうすぐ秋とは言え、まだ夏の暑さは記憶に新しい。シャツの胸元をつかみ、引っ張ったり戻したりして空気を送りながらバス停までの道を歩いた。
いつもはただ時間だけを気にして歩けばよかった道。そこになんとなく華奈が合流して、なんとなく適当な話をして、そのうちバス停に着いてバスに乗って、再びなんとなく適当な話をして学校に着いていた通学時間。別に何を気負うことも焦ることもなかったはずだった。
けれど今日は、いつも通り歩いているつもりでも心臓の鼓動は高鳴り、余裕があるとわかってはいても気づけば時間を確認してしまい、どうにも落ち着かない。つい華奈の家の方角に何度も目を向けてしまったり、背中越しに華奈の足音を聞こうと耳をそばだてていたり、神経過敏になってしまっていた。いつものバス停までの道のりが嫌に長く感じる。東の空に照る太陽にじりじりと焼かれた背中が熱い。
やっとのことで住宅地を抜けて、いつもなら華奈と合流している地点に着く。普段なら何も考えずすっと通り過ぎるはずのその地点で、今日は足が止まった。自分でも不思議だった。こんなにも不安と高揚が共存する心持ちになったことは今までなかった。これほどの感情の揺れなら表情に出ているだろうか。華奈にも気づかれてしまうくらいに。
ふと後ろを振り返ると、太陽がジリジリと中天に向かって昇っているのが見えた。俺はまるで太陽に追い立てられているようだった。今日はいつもより遅れていると自分に言い聞かせ、前に向き直る。あまり立ち止まりすぎると、今度は自分が間に合わなくなってしまう。そう思い切って足を踏み出そうとしたその時、ブレザーのポケットがヴヴと震えた。携帯だった。
From:森野華奈
Title: Re:Re2:Re2:Re2:Re2:Re2:Re2:Re
うしろー
たった四文字の文面を目にした瞬間、後ろを振り向いた。ついさっき振り返っても誰もいなかった歩道の真ん中には、マスクをして右手に携帯を開いた華奈が立っていた。辛うじて表情が読み取れる程に離れた位置からして、華奈は丁度今俺の視界に映る道路へ曲がって来たところだろう。華奈は勢い良く振り向いた俺を見てか、しばらく目をぱちくりさせた後、笑ったような目をして楽しそうに小さく左手を振った。そして再び携帯に目線を落とし、打鍵しながら歩を進めてきた。すると、もう一度右の手のひらの上でヴヴと自分の携帯が震えた。
From:森野華奈
Title:Re:Re2:Re2:Re2:Re2:…
今日風邪気味であんま声出ないんだよね
ああそうかと内心納得し、元来た道を戻って華奈に近づく。近づきながら、メール画面を開く。
To:森田華奈
Title:Re2:Re2:Re2:Re2:…
委員会の仕事、あんまり無理すんなよ
From:森野華奈
Title:Re:Re2:Re2:Re2:Re2:…
うん
返信を決めかねているところに、タッタッタッと小気味よい音が降ってくる。
「おはよ。」
いつもより低くて、歪みの混じった声。
携帯の画面から顔を上げると、顔を蒸気させてこちらを覗いてくる華奈がいた。この暑さでマスクはしんどそうだ。
「おはよ。」
携帯をブレザーのポケットにしまいながら返す。
「ちょっと遅くなってごめんねー。」
マスクの下で笑っているのがわかった。
「あんまり動かないほうが良いと思うけど。」
「そうだけど、遅れたら大変だしね。早く行こー。」
すたすたと俺の横を通り過ぎた華奈に追いすがる。髪が揺れる度に覗く首筋に、僅かに汗が光っていた。
「これって夏風邪かなあ。」
華奈が独り言のように呟いた。
「もう十月だし、夏風邪じゃないだろ。」
「んーそっか。この辺って季節の変わり目分かりづらいからさー。夏風邪ってちょっとバカっぽいじゃん?私に似合わないじゃん?」
「……。」
あんなにも暑い夏のどこで体を冷やしたり免疫力を低下させたりするんだと問いたいくらいに夏風邪はアホらしく思えるが、如何せん私に似合わないという主張は賛成しかねるものだった。
「ちょっと何そのだんまり。」
「いや、高校生にもなってイタズラとか本気で仕掛ける奴が、バカっぽいのが似合わないとか言うから。」
華奈は即座にハアー?と怒ったような口調で、眼尻を釣り上げながらこちらを振り向いた。
「いやいやいや私のイタズラ結構頭使ってるからね?計算してるからね?相手の反応とか行動とか予測してね?……絶対いつか目に物見せてやるからね!かつとに!絶対!」
そう段々と口調を荒げながら、眉間に皺を寄せて顔を近づけてくる華奈。マスクをしているとは言え、その目の睨み方にはちょっと気圧されてしまいそうな気迫があった。昨日のゾンビマスク被って「だーれだ?」ってするだけだったイタズラに、計算とか反応・行動予測とかあったんですかと問いたい気持ちは封じておこう。
「わかったわかった、ていうかそんなに感情的になったら風邪ひどくなるだろ。」
「熱とかはないしー。喉痛くてちょっと頭痛するくらいだから大丈夫だしー。」
前を向き直ってもまだ拗ねている華奈。まあいつものことだ。
バス停が見えた。時刻は七時三十分。華奈に言われて急いでいなければ危なかった。心なしか華奈の歩調が早くなる。
気づけば俺はそんな華奈を引き止めるかのように声をかけていた。
「そういや昨日、また二回読み直したよ、『坂道を登ると』。」
おおー、と少し驚きながら、華奈は顔の左半分だけが俺に見えるくらいに振り向いて尋ねた。華奈の歩調は元に戻っていた。
「どう?昨日の私の話聞いて印象変わった?」
横から見ると、発する言葉に応じてマスクが動いているのが見えた。しかし表情はうまく読み取れず、わずかに細めた目から、笑っていないことだけが確かだった。
「結構変わったかもしれない。一昨日初めて読んだ時点では、読み進めながらこの物語はハッピーエンドで、二人が幸せになれればいいなと思いながら読み進めてた。けれど昨日華奈の結局はバッドエンドになってしまうと思うっていう話を聞いてからは、そうなってしまうとしたらお互いのどういうところが原因だろうとか、どういうところが上手く噛み合ってるんだろうとか、どういうところがお互い好きなんだろうとか、新たな視点を追加して読み進めることができて、ガラリと印象が変わった。少しずつ華奈の思考に近づけてるような感覚があった。」
そう、あの小説を読み直すことは昨日行った作業の一環だった。少しでも華奈の思考に近づくことが必要だった。華奈の思考を理解した上で、「受け入れることは相手の怠惰を許すこと」という華奈を縛る言葉を破れなければ、自分に勝機はないに等しい。その言葉を破り新しい価値観を与えること。それが華奈と付き合える確率を上げ得るものであった。
俺の言葉をちゃんと聞くためか、しばし立ち止まっていた華奈の右隣に追いつく。華奈は顔をこちらに向け、足元に視線を落としたまま、こくりこくりと小さく頷いた。俺の言葉を噛み締めているようだった。その頷きが止まると、華奈の目は俺の目をしかと見据える。
マスクが動いた気がして、遮るように俺の口から言葉が転がり出た。
「でも、」
華奈のわずかに細めた目が見開かれる。おそらく華奈にとっては予想外の反駁だった。
「必ずしも華奈の言う通り、最終的にダメになるとは限らないと思った。華奈の言ってたことは人間関係の上で間違いないことだけど、それが全てではないと思う。」
食い入るようにこちらを見つめる華奈の視線から身を躱して、バス停へと歩を進める。華奈も遅れてついてくる。
「重箱の隅をつつくような反論の仕方だけど、華奈が言ってた、凪沙が自分の直情さを直すんじゃなくて受け入れることに苦悩して、主人公の啓次も受け入れるだけで、直したり変わろうとしなかったことが結局二人を引き裂いてしまうってやつ、一四六ページあたりの学校からの帰り道のシーン読んでたら、そうは思えなかった。凪沙の直情さは確かにタイミングの悪い時に出てきて事態を悪い方に持ってったり、大したことないことにムキになったり、読んでるこっちも少し面倒に感じて嫌になってしまう時もあるけど、引き起こすことが全部悪いわけじゃない。凪沙は怒りや恨みとかの負の感情と同じように、喜びや楽しさに対しても直情的で、それがきっと彼女の魅力だと思う。この物語は困難を乗り越えることで二人が仲を深めていくっていう話だから、そういった面にあまり焦点が当てられてないって感じた。」
気づけばバスが到着していて、二人共無言のまま一旦座席に座った。どう再び切り出していいかわからなくなって、右に座る華奈に目を向けると、華奈もこちらを見つめていた。
「うん、で、一四六ページって具体的にどんな感じだったっけ?」
反駁されて怒ったかと思っていたが、華奈の声色はほぼいつもと同じ感じだった。強いて言えば少し落ち着いているというくらいで。
華奈から視線を外して、口を開く。
「学祭が終わったあと、河川敷を二人で帰ってるシーンで、珍しく啓次にいじられてぷりぷり怒った凪沙、急に擦り寄ってきた小猫の可愛さに大喜びする凪沙、帰るべき家が近づいて、楽しかった一日が終わってしまうことに本気で寂しがる凪沙、その全部に啓次が愛しく感じる場面かな。俺はこのシーンを見てたら、啓次はやっぱり凪沙の直情なところが好きで、それは怒りとか恨みとか妬みとか、負の感情だけはそうあってほしくないってわけじゃなくて、そういうところも含めて表裏なさげな凪沙のことを好きでいるんだと思ったんだ。」
自分に出来た反駁は、このくらいのものだった。華奈の考えを部分的にしか否定できなかった。できることなら全面的に否定したあと、その代わりとなる考えを与えたかった。他人の信条を否定して新たなものを与えようなどと、傲慢であることはわかっていた。それでも、俺が見てきた華奈を自ら否定するかのような華奈の言葉はどうしても退けたかった。
華奈の方を見ると、座席の窓際に座っていた華奈は、バスの外の景色を見ながら言った。いつもより気落ちしているような声だった。
「ふうん、なるほどね…。正直あんま日常っぽいシーン注意して見てなかったかも。事件というかイベントというか、二人が巻き込まれていく話ばかり読み返してしまっていたかもしれないね。」
ちょっと齧ったくらいの俺に指摘されて少し落ち込んだかと思い、顔を覗きこもうとすると、バスの外を見ていた華奈が急にこちらを振り向いた。俺は面食らって、動きをピタリと止める。華奈の目はいつの間にか力を帯びていて、眉間には皺が寄っていた。怒らせたか。
「あー悔しい!!」
どうやら怒りとは違う感情のようだった。
「何回かそこら読んだだけのかつとに納得させられるの悔しい!!かつとの話聞いてたらまた読み返したくなってきたし!うわーもうどうしてくれんのよ!」
目を瞑って頭を抱える華奈。怒ってなくて良かった…。
「まあ、流石に今日は返すから家でゆっくり読んだらいいじゃん。」
俺は『坂道を登ると』を返すために膝においたかばんをごそごそと漁り始めた。すると先程の家を出た時のような不安と高揚が戻ってくる。震える手を制し、上がる体温と鼓動の早さを華奈に気取られぬよう必死に落ち着こうとする。喉の奥が乾いて、唾を飲み込もうとしても、焼けつくような痛みで上手く行かない。やっとのことで『坂道を登ると』を取り出して華奈に渡した。華奈はうん、また読み返すよーと言って受け取った。ギャーギャー言っていたのがいつの間にか静かになっていて、何の気もなさ気に本をかばんにしまった華奈を見てほっと胸を撫で下ろす。どうやらまだばれてはいないらしい。少しずつ気持ちは落ち着いて、なんとか平常心に戻る。大丈夫、ここで自分のの行動によって気取られることはない、気取られるとしたら華奈自身の行動でだ。それに、この登校中の時点で発覚しなければもうそれで問題はない。今のところ計画は上手く行っている。
それからこの登校中はずっと『坂道を登ると』の話で盛り上がった。バスを降りて昇降口に着いてもなおその一角で話は続き、それぞれ昇降口を通る他の友達に「先に教室行っててくれ」と言う程だった。登校完了五分前のチャイムが鳴ってやっと 「そろそろ教室行かなきゃね。」と華奈が言い出す始末。
「話し足りないけど、そうだな。」
たった数時間前読み直したはずなのに、華奈と話すとまた『坂道を登ると』が読みたくなってくる。それは華奈と話してこの本を読む際の新しい視点に気づいたり、こんな場面あったよねと言われてそうだったっけ、と読んだ記憶をたどったりということもあれば、『坂道を登ると』のおかげで華奈とこんなにも長く、熱くなって話ができるという喜びもあったからだった。
昇降口に入って右の隅で、靴も脱がないまま二人壁にもたれて話をしていたが、華奈はうんしょっと、と腕で反動をつけて立ち直った。
「今日も昼休み忙しいのか?」
俺も同じように立ち直る。
「そうだね…。まだ無理かなあ、企画の雑務とかが終わって実際に準備ってなったら多分解放されるから、そこまでは忙しくて昼休み来れないと思う。金田にごめんて言っといてー。」
ぽんぽんと背中をはたきながら答える華奈。「こんなもんでしょ。」と独りつぶやいた後、こちらに向き直る。そして、目が細まる。笑ったのだ。
「じゃ、また話そうね!明日!読み直してくるから!」
大きく手を振って自分の下駄箱の方へ走っていった。荒っぽく下駄箱から上履きを降ろす音が聞こえて、そのままパタパタと完全に履かずに音を立てて走っているのがわかった。
ふと、自分の手が小さく上がっていることに気づく。華奈の振る手に合わせて無意識に手を振っていたのだろう。普段なら相手が手を振っていても、すっと小さく手を見せるだけな自分も、そうせずにはいられなかったわけだ。
敵わないな、と一人ごちて、自分の下駄箱に向かった。あんなに早鐘を打っていた心臓が嘘のようだった。そしていつの間にか、自分は笑みを浮かべていたことに気づく。満たされていたのだった。この時間とこの感情がずっと続けばいいと思った。ついぞこんに気持ちになったことはなかった。
はっと気づいて周りを見回した。周りには誰もいなかった。
この時間もこの感情も、自分だけのものだった。
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