第七話(完)
「……。」
何を言葉にすればいいかわからず、沈黙だけを返す。ぐるぐると頭はおぼろげながら回っていて、突然のことにああでもないこうでもないと知らない誰かが自分の頭の中で独り言を言っているみたいだった。
「あれ?繋がった?切れた?あれ?」
そんな何の意味も持たない沈黙に返ってきたのは、華奈の随分と間の抜けた問いで、こちらが応える気を無くすような、頭の回らない自分でもこの状況に相応しくないとわかるような、そんな言葉だった。
そして、そんな言葉に、忙しく動き回っていた心臓や脳が、少しずつ平常を取り戻す。一体こいつはなんでこんな電話を寄越してきたんだ?しかも今更。どういう風の吹き回しなのか。問いはそれしか思いつかなかった。
「繋がってるみたいね。」
華奈が沈黙を察す。
返すべき言葉はあっても、頭の中でうまく繋がらない。
今の自分は華奈の言葉を待つほかなかった。
「私に嫌われたと思ってるでしょ?」
嘲りを含んだ声だった。しかし、思い浮かぶのは陰湿そうな金田の笑みというより、胸中を見透かすような、賢しげな笑み。未だ見たことがないためにうまく想像できない、華奈の狡猾な顔つき。
スッと一瞬、怒りの感情が頭を横切った。ぽっかり空いた胸の中に、黒く濁った汚水をぽとりと一滴垂らされたような。その感情が、自らの声に色を落とした。
「そうとしか思えないだろ。」
怒気を抑え込んだ声だと自分でもわかる。嫌われた側で何を、と小さな後悔がちらついた。
再び訪れる沈黙。
気まずさが苦痛だった。
しかし、会話の主導権を握っているのはこっちではない。
電話をかけたのは華奈、質問をしたのも華奈。応えるのは自分だ。
華奈の考えが読めない。
なぜ彼女は嫌っているはずの自分に、電話をかけてきたのか。
それしか質問は思いつかない。それで頭は一杯だった。
ついに我慢ならず、何と尋ねるのかもはっきり決めないまま口を開いたその時―――。
「ぷっ。」
携帯のスピーカーの向こうから、我慢できず吹き出した音が聞こえた。
次いで聞こえたのは、笑い声。
「あはははははははっ!!あはははっ!!あはははははっ!!あはははははは!!」
ツボに入ったような華奈の笑い声。止まらない。あまりのうるささに俺は携帯から耳を離す。耳を離してなお携帯からは華奈の笑い声が聞こえていて、時たま「お腹痛いっ」とか「やばい」とか「もう無理」とかいった言葉が挟まっていた。
状況が読み込めず、ぽかんと無心に華奈の笑い声を聞いていた俺だったが、次第に冷静さを取り戻すと、次は何がなんだかわからないという不快感と怒りがこみ上げてきた。金田の煽りに対する怒りとはまた別の、理不尽さに抗うような怒り。気づけば華奈は笑い疲れて、はーっ、はーっ、と慎重に深く息をしていた。
今ならこいつだってちゃんと聞こえてるはずだ。
「おい、どういうことだよ!ちゃんと説明しろ!」
ふざけんな!!と最後に付け足した瞬間。
「あはははははもうやめてえーあはははははは!もうだめだから!やめてあはははははは!あはははははっ!」
「はあ…?どういうこった…。」
怒りを通り越して呆れが出た。どうやら俺が喋るとツボに入るらしく、どうしようもなく黙ってしまう。携帯片手に一人ぽつんと部屋で首をかしげるばかり。華奈の笑いがおさまるのを待つしかなかった。
「はーっ。はーっ。はーっ…ゴホッ、ゲホゲホッ!あーもうだめ、お腹痛い。あー。」
そろそろ説明しろよ、とぶっきらぼうに言ってやりたかったが、これでまたツボに入られても厄介だ、口をつぐむほかなかった。
じっと華奈の言葉を待つ。華奈は笑いがおさまってから、うーんと一言考えるように言って、しばらくして話し始めた。
「まず始めに言っとくと、今回のはぶっちゃけイタズラだったんだよね。」
「はあ!?」
驚きで怒りも何もかも吹っ飛んだ。残ったのは呆れだった。
「タチ悪すぎるだろ!」
「あーもー、面白くて笑っちゃうから怒るのやめて!タチが悪いのはかつとの方でしょ!」
俺の方がタチが悪い?全く意味がわからない。俺は華奈にイタズラなんて、全くないとは言わないが、そこまで酷いものはしたことがない。
あと面白くて笑っちゃうから怒るのやめてってそれは流石に酷い話だ。おまえのせいだろうが。
「私、かつとがラスボスって何度も言ってたでしょ。そして、絶対倒すって。」
ふくれっ面が想像できるような口調。ああ、と納得した。そういうことか。
「かつとから本を返してもらって、久しぶりにしっかり全部読んでみようと思って、丹念に数時間かけて 読み終わってみたら、最後に物語が付け足されてて、『俺、華奈のことが好きなんだ。』だよ?この上なく大きな隙じゃん!これ逃したらラスボスのかつとを倒せる機会なんてないじゃない!むしろ、これで無理だったらラスボスは諦めるつもりだったよ。だから、わざわざあんな演技とか、金田に協力してもらったりして、かつとを嵌めたの。流石にここまでうまくいくとは思ってなかったけど。多分MVPは金田かな、あいつから聞く限り、あそこまでウザくて最低な人を演じるとは思ってなかったし、予想外だった。あいつ絶対底意地とか性格とか悪いね!」
楽しそうに話す華奈に、へなへなと肩の力が抜けていく。怒りや呆れ、驚きなんかよりも、ひたすら感じていたのは安堵と羞恥心。やられた。そしてふざけんな…。
「あーそういえば、かつとのお母さんにも協力してもらったよ。普通あんなに家の前で騒いでたら変だしね。先に言ってかつとのフォローとか、お母さんにはあんまり重く考えないでねとか、言っといたんだ。あのあと変に普通だったり物分り良かったりしなかった?」
「ああ…そうだったよ…。」
思い当たる節がありすぎて頭を抱えた。
「でもよかった~ほんとに引っかかってくれてー。これで私も本望だよ。もう思い残すことはないね!はっはっはー!本当にかつとがそこまで感情的になってるの初めて聞いた!イタズラし甲斐があったってもんだね!」
得意気に笑う華奈。腕を組んで仁王立ちしながら鼻を膨らませている画が浮かぶ。
「……概要はわかった。」
本当に癪だが。
「そこは俺の負けだ。金田にも言われたよ、そこまで表情が動いたお前は初めて見るってな。実際そうだと思う。けれど、華奈には一つ間違っている認識がある。」
「ほお?なんか金田っぽい言い方だね、聴こうじゃん。」
「俺は感情的にならない人間じゃないよ。なれないってわけでもない。人並みに感情は動いてるけど、顔とか体が動かないだけだ。ずっと前からそう。俺らが小学生だった時もそうだし今もそう。華奈のイタズラ、結構驚いてたよ。華奈は実感ないだろうけど。」
しん、と華奈は沈黙を返した。主導権がどちらにあるのか戸惑ったが、彼女が俺を受け入れたわけでは決してない。打ち明けたいことを打ち明ける機会はここしかないという思いが口を開かせる。
「あの方法で気持ちを伝えることに酔っていたことは否定できない。けれど、華奈の気持ちを完全に無視していたわけじゃない。麻薬みたいに思考停止していたかもしれないけれど、自分なりに考えてた、華奈がどう思うか。華奈は、あの物語の結末に対して、二人は一緒になっても、幸せにはなれないという考えを持っていた。だから、あの物語の続きとして告白したなら、きっと上手くいかないと思われて、断られてしまうと思った。その時のために、俺は華奈の考える結末への反論を準備する必要があると思った。そうすれば、もしそういう理由で断られるならば、引き止められるかもしれないと。結局完全な反論は思いつかなかったけれど。それは、二つ手順があって、一つ目は、物語の二人が付き合うことになるという「過程」は俺も華奈も同じものを考えていたという反論。そして二つ目は、華奈の言った「人を受け入れるということは、相手の怠惰を許すこと」という言葉への反論。二つ目が二人が上手くいかない原因と華奈は言ってたしな。この二つで一つの反論を用意しなければと思っていたけれど、結局思いつかなかったし華奈のイタズラに阻まれたことで機を逃してしまった。残念ながら。問題はもっと手前にあったんだな。華奈の本を大切にするって気持ちに気付けなかった。結構当たり前のことなのにな。ごめん。」
俺が言い終わるのをしっかり待って、華奈が口を開く。
「かつとって、意外と人間らしい人だったんだね。」
言葉の割に、優しげな響きだった。
「感情的になるんだね、普通に。知らなかったよ。もしかして私だけなのかな、知ってるの。それ、ちょっと嬉しいな。あと、本の続きとしてのかつとの気持ちが私に届くかとか、届くためにはこんな手順がいるとかって話だけど、そんな細かいこと、普通人は考えないよ。人が付き合うかどうかなんて、そんな論理的な話の通りにはいかないと思う。多分。少なくとも、私はそう。でも、「受け入れることは、怠惰を許すこと」って言葉に反論してくれたなら、私は揺れるだろうね、あくまで揺れるだけだけど。ここまで私を縛る言葉、今までになかったから。」
急に華奈の声のトーンが暗くなる。少しずつみぞおちの痛みや心臓の高鳴りが戻ってきていた。
何と返せばいいかわからなくなっていたところに、華奈が一言続けた。
「それと、私気づいてたけれど、あの本、私の本じゃないよね。」
気づかれていた。
そう、あれは華奈の本ではない。華奈の『坂道を登ると』ではなかったのだ。
俺の手にも馴染まなければ、きっと華奈の手にも馴染まないというのはそういうこと。
「私の本を真似て作ったんでしょ。傷の入り方とか陽の焼け方とか真似して。最初は私も騙されたけど、いざ読もうと本を開いてみたら気づいた。なんか持った感じ違うなって。それは、やっぱり私の(・)本を汚すことを避けてってことだったの?」
華奈自身が貸してくれた『坂道を登ると』。その装丁の状態や、ページの焼け方を真似した本を一冊作り、それに俺自身の告白という続きを書いて渡す。それが俺の考えた告白の方法だった。少なくとも普通に告白するよりかは気持ちが伝わるのでは、と勝手に思っていた方法。わざわざ別に本を用意し華奈の本に見せかけたのは、単に華奈が自分の本をいじくられるのを良しとしないと思ったからだ。別にずっと華奈自身の本だと騙し続けることが出来ると思ったわけではない。せめてこの仕掛けが終わるまでその目をくらませることができたら、と思っていた。結果はおおまかには失敗だったようだが。
電話越しに頷き、返す。
「そう。あれだけ華奈が大切にしてる本をこの手で汚せるわけないからな。まさか、華奈にあらゆる本を大切にするべきって激怒されるとは思ってなかったけれど。そこはもう俺の盲目さの落ち度でしかない。それを理由に嫌われたって仕方がないとは思う。」
「なるほどね、そこはうまく避けてたんだ。昨日私はかつとへのいたずらのつもりで怒ったけど、そもそも私は私の本じゃない本に物語を付け足されてもその人のことを嫌ったりしないよ?私そこまで正義感強くないし、それに、かつとのことは友達の中では一番知っているつもり。かつとは理由がなきゃそんなことしない人でしょ。」
「そうか…。そうか。」
空いた胸のうろがゆっくりと塞がっていく。これだけわかっていて貰えるなら、今と少しくらい関係が遠くなってもいい。数分前の自分のイメージなんかよりずっといい。華奈に嫌われて、自分の今までの華奈との思い出に誹られるくらいなら、そっちの方が救いがあるというものだ。
華奈の怒りで歪んだ顔と、金田の嘲笑う顔を再び思い出す。思い出すだけで胸を占める疎外感。蚊帳の外の感覚。自分の居場所であったような人たちに事実でなくとも裏切られることは、自分の性格の殻を破るほど苦しいことだった。苦しくて、悲しくて、不快で、二人への怒りが自分を揺るがした。今なら言える、華奈が俺に仕掛けたイタズラは、ただ俺の感情を煽るだけのものではなかった。俺がひとりでは到底得られないもの、ひとりならおそらく避けて通るであろう道を歩かせてくれた。華奈にそこまでの意思があったとは思えないが、少なくとも今俺がそう思っているのだから、それでいい。
数日前の俺と、今の俺。人から見れば大した違いはないのだろうが、自分にとっては全く違った人間のように思える。変わったのだ、華奈のおかげで。
変わった?
一つの言葉に、ぱっと頭が開けたような感覚を得る。
パズルの最後のピースがはまった。
「わかった…。」
やっと今わかった。
考え続けた問いの答えが。
華奈への最後の反論。
ギリギリまだ間に合うか。間に合ってほしい。
「わかったんだ。」
「どうしたの急に?」
「二つ目の反論だよ。」
「え、ほんと?」
華奈の訝しそうな雰囲気が一瞬で変わる。
「ああ。」
ごくりと息を飲む。一つ間を置いて、静かに切り出す。
頼む、届け。
「他人の存在だ。」
「他人?」
「そう、他人。『相手を受け入れるということは、相手の怠惰を許すこと』っていう華奈の言葉には、意味上続きがある。それは、『自分から変わっていかなければならない』だ。相手が自分の怠惰を許し続けて、いつの日か許せなくなる日が来ないように、自分から変わる努力をしなくちゃいけない。そう考えてたんだよな?」
一呼吸間が空く。が、華奈はうん、と確信を得たような声で、自信のある風に応えた。
「そのつもりだった。『坂道を登ると』にも照らしてそう思ってた。」
「だよな、この続きがわかるまで、その言葉はあまりに正論らしくて、反論のしようがなかった。正論らしいってのは、あくまで結果が未来にあって、正確にその結果を確かめられないからだ。怠惰の範囲もわからないし。最終的に、怠惰なその人を嫌いになるのに理由はいくつあってもいいわけだしな。」
「つまりは、自分に相手が許してくれるような怠惰があると仮定して、それが一つかそれ以上かに関わらずとも、将来的に相手がもう無理ってなる危険性が大いにあるということ、その結果がいつ現れるかわからないこと、基本的に時間とともにその危険性が高まっていくことの三点から、現時点ではそれが正論らしく思えるってことよね?」
「そう、そういうこと。多分俺の認識は華奈に追いついてると思う。」
「うん、一緒。そういうこと。そういうことに私は縛られてる。」
「わかった。だから、華奈は怠惰を許される側がせめて変わる努力をしなきゃ、その結果を早めるってことを言ってたんだと思う。」
「うん。あってる。」
「ああ。だからこれに対する反論は―――。」
「うん。」
「自分を変えるってことに、他人の介入を許してないことなんだ。」
「他人の介入?」
「自らが変わるべき理由―――自分の中の、他人に受け入れられる怠惰というものは他人の存在が起点となって発生してるのに、それを変える過程には『自ら変わる努力』しかなくて、他人の存在がないんだ。」
「あ…。」
「他人、それも恋人とか、自分と近しい存在が起点になってる問題なのに、その過程にその他人がいなくて、結果だけはその他人が決める―――これほど身勝手な話はないと思う。」
「……。」
「ごめん、俺さ、金田から少しだけ華奈の中学の話を聞いた。きついよな、自分の居場所であるべき人たちの、蚊帳の外に閉めだされるのは。ごめん、華奈の痛いところに触れる話だけど、華奈は多分、自分のイタズラ好きって性格によって、学校で蚊帳の外にいることになった。他人から否定されたのに、どうしていいかは自分で考えろって暗に言われたみたいになったんだ。それで、華奈は一人で努力した。努力して、高校ではそのイタズラ好きを抑えて、蚊帳の外にいることを避けた。本を好きになったのはあのころだよな。高校では、居場所を得たことが華奈の性格が変わったことを証明するけど、中学の奴らが今の華奈をどう思うか、今となってはわからない。その境遇と、『坂道を登ると』の状況を重ね合わせて、あの言葉が生まれたんじゃないか?」
「……。」
答えはなかった。
でも自分の思いを全て伝えるまで、止まるわけにはいかなかった。
「でも、そんな状況で、一人で必死に努力して、人に怠惰を見せないようになった華奈はすごいと思う。中学の頃はものすごく苦しかったと思う。俺もさ、今回華奈と金田に嫌われたと思ってさ、ものすごくしんどかった。自分の一部が死んだような気がして、二人からまざまざと見せつけられた疎外感は耐え難いものだった。でも、そのおかけで得られたものもあったんだ。華奈はそんなつもりなかったと思うけど、今回のいたずらのおかげで俺は前の俺と比べて、少しかもしれないけど変わったように思えたんだ。顔に感情が出ないのを忌々しく思ったことはそこまでないけれど、自分の新しい一面を見れたし、見せることができたんだ。それは嬉しかったよ。華奈と金田に嫌われたと思ってても、それとは別に喜べるくらいに。そこからこの反論に思い至ったんだ。他人のおかげで自分だって変われる。あの物語の場合じゃ、その他人が恋人なんだぜ、影響を受けない方がおかしいと思う。可能性だけで語る結果なら、俺はもっと違う結果を予想したい。自分も他人も、お互いによって変わるんだ。それぞれ個人からの努力も含めて。恋人なら、二人の怠惰が誰から見ても怠惰だったとしても、二人が影響しあって、怠惰に見えなくなればそれでもいいんだ。やり方はたくさんある。一人で無理にでも努力しなきゃ誰かに見合わないと思わなくたっていい。自分から努力しなきゃって気持ちはとても素晴らしいものだから、忘れなってことじゃないけれど。」
「……。」
「だから今俺は確信してる。『坂道を登ると』の結末は、あの二人が結ばれるハッピーエンドだったって。あの二人は、きっと物語のようにいつまでもケンカしたり、敵味方分かれたりすることもあると思う。でも、物語の最後みたいな時間を大事にして、それぞれ影響し合いながら、少しずつ変わりながら、何度でもやり直すと思う。今なら、間違いなくそう思える。」
全て言い切った。これが今自分が言いたい全てだった。軽く頭痛がする。頭を使いすぎて、脳の回路がショートしていた。
これでだめだったらもうどうしようもない。ベストは尽くした。言い方が悪かったとしても、これが自分にできる最善だったと思う。
沈黙が続く。迷っている華奈の素振りが伝わってくるようだった。華奈は、どんな言葉を返す。
返ってきたのは、思ったよりも随分朗らかな声だった。
「そっかあ。なるほどね…。」
吉と出たのか。
「そんな視点で考えたことなかったな。なんだか納得した。かつとの言う通りかも。現に今、かつとの言葉、頭にすうって入ってくるみたいだった。がんじがらめだった頭が解かれた感じ。多分、私納得してると思う。随分長く言葉に縛られてて、あまり実感ないけど。してやられたって感じかなあ。私がイタズラしたのに、こんなに鮮やかに返されたことなんてないよ。」
華奈は嬉しそうに応える。
「これで一勝一敗だな。俺も今回は負けた。」
「何言ってんのー!私がどれだけ負けてきたと思ってるの、もう!」
拗ねた様に言う華奈。いつもの華奈に戻っていた。俺が一番好きな華奈。
勝手に口角が上がっていた。にやけていた。
拗ねていたと思ったら、急に華奈が電話口でふふふと笑った。
「真相は、これで全部?かつとが仕組んだ告白の仕掛け。私にわかって欲しいことはこれだけ?」
「ああ、反論はぎりぎりになったけど、言いたいことは言ったかな。考えてたことはこれで全部。」
俺が仕組んだのはこれで全部だ。これで全部だけれど、これで終わりになんてしたくはない。今なら、冷静になった今なら、もっとうまく伝えられる。
でも、もう一度この口で言わせてくれ、と続けようとした。
だが、俺が口を開く一瞬の間に、華奈が言葉を滑り込ませる。
「そっか、わかった。ねえ、でも私、かつとへのイタズラがあれで終わりなんて言ってないよ。」
「は?」
一瞬にして眉間に皺がよる。まだ終わってない?これ以上に何があるって言うんだ。
もう悪い冗談はよしてくれ。
携帯を持つ手が僅かに震える。
「その様子だと気づいてないよね。話を聞いてる感じ。」
気づいてない…?一体何に。
「私が叩きつけたあの本。」
左手に握りしめた『坂道を登ると』に目を移す。
「続きがあるの、知らないでしょう。多分私が叩きつけてから、開いてないんでしょう?」
「!!」
開いていない。本を見るたびに華奈のことを思い出すがために避けてまでいた。無造作にベッドの上に落としたまま。
まさか。
まさか。
携帯をベッドに放り出して、慌てて本を開く。本格的に手が震えていた。うまく一ページずつページがめくれない。
やっとのことで辿り着いた、最後のページ。
俺の字ではなかった。
小学校以来見たことのなかった、華奈の字。
女の子らしくない、丸くなく少し堅い字。
もしかしたら、小説自身の字体に頑張って似せたのかもしれない。
これは、俺へのアンサーだ。
それは、長い長い彼女の告白だった。きっと、彼女と自分以外誰も知らない彼女の話。自分にとっては彼女の懺悔と取るべきか、彼女の俺への最後の手向けと取るべきか、判断がつかないような、そんな話。
俺が書いた続きに繋がるストーリー。
結末としては少し冗長かもしれない。
けれど、自分にとっては必要なストーリー。
全て読んで、また戻って繰り返し読んだ。
電話を繋げたまま放り投げていたのも忘れていた。
満足するまで読み返した。
彼女のイタズラは、これで最後。
転がっている携帯を静かに掴む。
通話はまだ繋がっていた。
待ってくれていた。
「なあ、今家にいるんだろ?」
「うん。いるよ。」
「そっち行っていいか?」
「いいけど。でも、覚えてるの?小学校以来でしょ。道忘れちゃったんじゃない?」
冗談めかして、声のトーンを上げて言う華奈。
俺もそんな雰囲気で応戦する。
「んなわけないだろ。」
「そっか。じゃあ、待ってる。」
「ああ、待っててくれ。」
そっと右手を下ろして、電話を切る。
途端に、ベッドから降りてクローゼットを漁った。一番自分が似合うと思う服を身に着けて、家を飛び出した。手には携帯一つ。
頭で思い出すより早く体が動く。小学校の時よりも段違いな速度。あの時からもう七年ほど経った。歩いて十五分だった道のりは、いま走ればたった五分にまで短縮されていた。
華奈の家へとたどり着く。
玄関へと続く小さな門を開けると、その先に華奈はいた。玄関の前の、二段ほどの小さな階段に座ってこっちを見ていた。
小走りで歩み寄る。
そして、お互いに手を伸ばせば、手と手が触れ合う距離。
華奈が無邪気に微笑む。
「遅かったね。」
それは、時既にということなのか、待っていたということなのか。
考え始めて、すぐにやめた。
あともう少し経てば、わかることだ。
これはきっと、いや、間違いなく、あの物語の続き。
二人が大好きな、あの物語の。
だから、言葉初めはこうでなくてはいけない。
あの物語の結末。
「華奈。」
どちらに転ぶかなんて、俺と華奈が選ぶことだ。
「話が、あるんだ。」
九月の終わりの事だった。




