胎動
女は山深い人里からさらに離れた山奥にひとりで暮らしていた。
女は外の世界を嫌い、ずっと暗い穴蔵に閉じこもっていた。
女が久しぶりに外に出てみると、森は夏を迎えていてむせ返るような精気にあふれていた。
「いやだ、いやだ。生き物たちの生きる喜びがあふれかえって窒息しそうだよ。どうせすぐにおっ死んじまうっていうのにさ。ばかな奴らだ」
女は長い間一度も洗っていないぼろをまとい、長い髪は縮れて小枝や蜘蛛の巣がまとわりついたままになっていた。
指は枯れ枝のように細く節くれだっていて、長い爪は黄色く変色して割れていた。
女は茨のレリーフに囲まれた大きめの鏡をしっかりと抱え込んでいた。
森で美しい鳥のさえずりが鳴り渡る。
「ふん、うるさいねぇ。鳥ってやつはなんだってあんなにおしゃべりなんだい」
女は鳥を追い払おうとして、地面に落ちていた枯れ枝を握りしめてブツブツつぶやきながら森の端に近づいた。
ふと足元の溝に目をやると、硬直した野ネズミの死体が転がっていた。
他の動物に食い荒らされていないところを見ると、病気で死んだようだ。
「そうそう、おっ死んだやつは好きだよ」
そのとき、女の脳裏にあるアイデアが浮かんだ。
「こいつを使って自由に操れる手下を作れないかねぇ。死んじまった体なら魂が抜けて空っぽのはずさ。そこにちょこっと魔法を足せば、何でも言うことを聞く化物が出来るに違いない。そうだ、そいつをたくさん作って森じゅうの生き物を追い払うっていうのはどうだい?
うん、うまくいきそうだ。ひっひっひっ」
女はその場を行ったり来たりしながら独り言をつぶやき続けた。
半年後、子猫たちは城の人間たちに見守られながらすくすくと成長し、早くも大人になろうとしていた。
このころになると、マリルは城の建物から出ることはめったになく領主のそばのクッションを居場所にしていた。
領主が行く先にはいつもいっしょについて行った。
領主が魔法を使うときにもいっしょにいて、じゃまにならないよう部屋のすみの自分の席で魔法が働くさまをじっと見つめていた。
モリルはネズミ狩りでは城でいちばんの腕前になっていた。
しなやかな体と長いしっぽは早くも城中の雌猫の目を惹きつけてやまなかった。
クリーム色の毛皮は常にきれいに毛づくろいされており、いつも気取ったポーズで歩いていた。
トリルはいまだに小さかった。姉兄猫と同じ日に産まれたのに一ヶ月ほど成長が遅れており、本人はとても気にしていた。
夏のある日、トリルは城内の池のほとりにいた。
水面には丸い大きな葉っぱが浮かんでいる。
トリルは獲物を狙う真剣な表情で池のふちの石に右前足をかけて身を低くし、ゆっくり、ゆっくりと池をのぞきこんでいた。
まばたきもせずに、葉っぱの上でじっと動かないカエルを見つめる。
そおっと、そおっと。
トリルは動いているのがわからないほどゆっくりとカエルに近よっていく。
左の前足はいつでも攻撃できるように空中でかまえている。
あと少し。
シャワーのように降りそそぐ蝉の鳴き声が聞こえなくなるほど集中する。
大きなハエがぶーんと飛んできて、トリルのしっぽの先に止まる。
トリルは動かない。
あと少し。
ハエが飛び立って、八の字を描きながら池のほうへと飛んで行く。
あと少し。
ハエが蓮の葉の上に止まる。
あと少し。
じりじりと夏の日差しが体を焼く。
ハエは首をかしげながら両手をせわしなくすりあわせている。
あと・・・。
置物のようにじっとしていたカエルの口が、わずかに開く。
いまだ!
カエルの舌が電光石火の動きで真っ直ぐに伸び、ハエを捕えた。
と同時に、トリルの左前足が正確にカエルめがけて伸びていく。
カエルはたった今捕まえた昼食をもぐもぐと口にくわえていて動かない。
よし、つかまえた!
トリルの左前足の爪がカエルをとらえようとした瞬間、伸びきった体がバランスをくずす。
池のふちでふんばっていた右前足がずるりとすべる。
ぼちゃん!
池に落ちたトリルの目の前で、驚いたカエルが大きく跳ねて水中に飛び込み素早く泳ぎ去った。
「ははは。何やってんだ、おまえ」
池から上がったトリルの耳にモリルのばかにするような声が届いた。
しまった、いちばん見られたくないやつに見つかっちゃった。
「おまえ、カエルも満足に捕れないのか?」
「・・・」
「おれは、今週に入ってもう三匹もネズミを捕まえたぜ」
モリルは自慢気に胸をはった。トリルはくやしかったが、まだ一度もネズミを捕まえられずにいたので反論をぐっとこらえた。
「ま、せいぜいのろまなカエルで練習するんだな」
モリルはそう言うと、気取った足取りでその場を去った。
ちぇっ、なんだよ、ばかにして。
いまにモリルよりも大きなネズミを捕まえて、ぎゃふんと言わせてやる!
「ちょっと、モリル。あんた、トリルにつらく当たり過ぎよ。トリルは小さいんだから、少しくらい狩りが下手でも仕方ないでしょう」
突っかかってきているのは、ベスという名の若い雌猫だ。
彼女はモリルと同じ頃に産まれた幼なじみだ。
「なんだよ、うっさいなー。兄弟のことに口出しすんなよ」
モリルだって、決してトリルのことを馬鹿にして言っているわけではない。
自分にとってはあんなに簡単なことがいつまでたってもうまくできない弟にいらだって、つい憎まれ口をきいてしまうのだ。
「あたしだって、あんたたちのお姉ちゃんみたいなものなんだから」
「はいはい、わかったよ」
「なっ、なまいき!」
モリルたちの母親は、子猫が産まれてからも頻繁に城猫の勤めで領主につき従うことが多かったので、代わりにベスの母親が乳母を務めてくれた。
だからベスはモリルたちと兄弟姉妹のように育ったのだ。
城猫に産まれついた三姉弟にとって、普通に接してくれる数少ない友達の一人だった。
モリルはひらりと一息に高い塀の上に飛び乗ってうるさい幼なじみから逃れた。
そして塀にさしかかる屋根の縁に片手をかけてちらりと振り返って言った。
「いまからそんなにガミガミ言ってたらお嫁さんのもらい手がなくなるぞ」
「なっ」
ベスが顔を真っ赤にしたまま言い返せないでいるうちに、モリルはにやりと笑って屋根の向こうへと消えていった。




