使命
マリルが初めて塔のてっぺんの部屋に入ったのは、緑が深くなった雨の季節だった。
その日、マリルはなんとなく今日は特別な日になるような予感がしていた。
落ち着かない気持ちでぼんやりと窓ガラスを伝う雨粒を見ていると、いつもは一人で遊んでいる時間に母猫に呼ばれた。
母猫はマリルを伴ったまま例の猫用の扉をくぐった。
いよいよ領主さまの魔法の部屋に入れる。
マリルはわくわくした。
しかし、はしゃいだりそわそわしたりしない。
母猫は、マリルのほうを振り返ってちゃんとついてきているかなどと確かめたりはしなかった。
マリルも母猫に諭されるまでもなく、おとなしくまっすぐに後ろをついて行った。
「さあ、着きました。ここは領主さまが魔法を執り行われるお部屋です。中では領主さまから呼ばれない限り自分の場所から動かずにじっとしていることです。いいですね?」
母猫はここで初めてマリルを振り返り、じっと目を見ていった。
「はい」
マリルもいつも浮かべている真剣な表情でうなずいた。
「にゃー」
母猫が扉に向かって呼びかけるとすぐに開いた。
「うむ、来たね。入りなさい」
深く響くバリトンの声が城猫の母娘を優しく招き入れる。
マリルは母猫に続いてすぐに魔法の部屋に入った。
塔のてっぺんの部屋には、三方に腰高の窓があったが、今はどれも閉じられていた。
窓には厚いビロードのカーテンが掛かっていて、外の明かりを完璧に遮断している。
窓以外の壁には一面に本棚がしつらえてあり、金文字を押した革表紙の本が、重たそうにびっしりと詰まっている。
どの本も普段から手入れされいる様子で、古いが心地よい上質な革のにおいがしていた。
本の香りを嗅いで鼻をひくひくとさせていると、母猫が話しかけてきた。
「ヒゲがぴりぴりするでしょう?」
言われてみると、本の中でとくにマリルの気を引きつけた数冊の本からは何か力のようなものが感じらた。
ヒゲの先が見えない羽で撫でられるような、小さく引っ張られるような、へんな感じがする。
「ここにある本の中には強力な魔法が閉じこめられたものがいくつもあります。あれらで爪とぎをしてはなりませんよ」
「はい、お母さま」
マリルはまじめに答えた。
「さてさて、女の子同士の挨拶は終わったかい?」
領主さまがおどけた様子の声で話すのを聞くのは初めてだ。
マリルは、おや?と思った。
領主さまのいかめしい口ひげのはしが、心なしか楽しげに持ち上がっているように見える。
しかし母猫のほうを見ると、いつもと同じ落ち着いた表情で立ち座りしている。
どうやらここは甘える場面ではないようだ。
マリルは自分も黙って話を聞くことにした。
「さあ、おばば樣。さっそく視てもらえるかな」
部屋の中には予想に反して領主さま以外にも一人、人間がいた。
「そうら、マリルさま。こちらにおいで」
ローブ姿の老婆が手招きする。
母猫からは、おばば樣はこの城で領主さま以上に城猫のことを知っている人間として信頼できると教えられている。
それでもこれは何か特別なことに違いないと感じて、母猫のほうを振り向いた。
母猫がうなずくのを見て、マリルはローブ姿の老婆の目の前にあるティーテーブルに身軽に飛び上がり、人間の瞳をじっと見つめる。
老婆はマリルの瞳の中に何かを探すようにのぞき込んだ。
しばらくそうしてから、今度は水晶玉に手をかざしてじっと見つめる。
老婆の眉間に集中していることからくるしわが深く刻まれる。
そのしわが更に深くなり、老婆の表情が厳しいものになった。
「やはり凶兆だね。この子の周りには悪い力が渦巻いて見える。だが、この子自身が悪いわけではないよ。
良くも悪くも、この子は力の焦点となる宿命を背負っているようだ。悪しき力が引き寄せられるのと同じ様に、良き力を集めてそれに対峙する運命が視える」
「そうか。おまえたち城猫がそろって産まれたのは、これから起きるであろう大事への備えという危惧は、やはり正解だったか・・・」
領主はマリルの頭に大きな手をおおいかぶせるように置いて、優しくなでた。
マリルは目を細めて丸い小さな頭を領主の手の平に押しつけ、甘い感触を楽しんだ。
「・・・ふむ、これはまた別の暗示だね」
領主に予言を語ったあとも水晶玉をのぞき込んでいた老婆が言った。
「なんだ?」
「この城を覆う力の色が鉄色から純白に変わる暗示が視える。これは代替わりが近いということだね」
「どういうことだ?」
「領主さまにご不幸があるというわけではなさそうだ。城全体を覆う力となると、城猫さまの代替わりの暗示かねぇ」
マリルはびくりと身を震わせて母猫を見た。母猫はおばば様の言葉にも動じることなく彫像のように美しい姿勢で座っている。
「おいおい、不確かなことを言って猫たちをおびえさせないでやってくれ」
領主の手のひらに身をゆだねていたので、マリルの動揺が筒抜けになったようだ。
マリルは、予言に怯えて動揺を見せるなんて城猫として失格だわ、と自分を戒めた。
おばば様が退出したあと、領主は引き出しの缶から干し肉のかけらを取り出し母猫に与えながら言った。
「城猫の代替わりか。おまえがいなくなってしまったら、私はどうすればいいんだい?」
いつもの威厳に満ちた壮年の男の声とは違って、どこか弱さを感じさせる若者の声音だった。
「心配しないで、領主さま。私があなたをお守りします。これは不吉な予言ではありません。私たち城猫はこの城とあなたを悪しき事から守護するのが使命。私が力を失って代替わりするということは、私が使命を全うするということです。
それに、この子がいます。
私たち城猫はずっとあなたとともにあります」
母猫は、マリルにも見せないような慈愛に満ちた目で領主を見つめ、優しくその手を舐めて予言に怯える男を慰めた。
マリルは、母猫の厳しさが領主さまへの忠義心の裏返しであることを理解した。
その日から、母猫は常にマリルを伴って領主に付き従うようになった。
母猫の代替わりを意識した行動がマリルの心にちくりとした感触を残したが、城猫の使命を一番に考える母親の姿に、自分も早く一人前になって領主さまを支えられるようになろうと心に誓った。




