リスとトリル
ある天気のいい日の午後、トリルは領主さまのいくつかある書斎のひとつに忍び込んでひとりで遊んでいた。
本棚のそばに置かれたくず入れに入って遊んでいるときに、窓際の日の当たる床の上にネズミのような生き物がいることに気づいた。
ネズミにしてはしっぽが大きくてふかふかした毛におおわれている。
大きなしっぽは丸めた背中にぴったりとくっつけられていて、まるで頭からお尻までたてがみが生えているようにも見える。
大きな目は油断なくあたりに注意を配っていて、その動きはせわしなく、キョロキョロおどおどしているようだった。
トリルは横倒しになったくず入れのなかでそぉっと姿勢を直し、忍び足でリスに近づいていった。
しかし、リスはまわりを十分に警戒していた。
慣れない人間の建物のなかに入りこんだのだから当然である。
リスはすぐに、目の端でもぞもぞと動くくず入れに気づいた。
そのまま視線を向けずに様子をうかがう。
くず入れから現れた子猫は、見るからに未熟な身のこなしであまり危険を感じなかった。
リスはほかに注意を向けながら、子猫が危険なほど近づくまで知らないふりをしていた。
トリルがやっと飛びかかれるくらいに近づいて全身に力を込めた瞬間、リスは瞬く間に本棚をかけ登り、てっぺんからカーテンの腕木へと身軽に飛び移った。
安全地帯に避難したリスは、高い所からトリルを見下ろしている。
トリルはリスのあとを追った。
夢中で本棚の段を次々とよじ登り、とうとうてっぺんにたどり着く。
本棚のてっぺんからカーテンの腕木までは少し離れていたが、トリルの目には十分届く距離だと思われた。
リスは横に渡した腕木の真ん中あたりで背中越しにこちらをチラチラとうかがっている。
警戒はしているがそれ以上逃げるようすはない。
トリルは獲物をじっと見つめて、えいっとジャンプした。
前足は棒をつかんだが、後足が届かずに宙を掻く。
厚手のカーテンに後足の爪が引っかかりかろうじて落っこちずにすんだ。
トリルは慌ててカーテンに爪を立てなんとか腕木によじ登る。
その間にリスは反対側のカーテンをさっさと駆け下りて、開いた窓から外へと逃げていった。
「ちぇっ」
トリルは舌打ちをした。
もともとそんなに真剣に捕まえようと思ったわけじゃないし。
たまたま、珍しいネズミがいるな、って思っただけだし。
くやしいわけじゃないさ。ちょっと、残念だけど。
トリルはカーテンの腕木の上で背中を丸めて、開いたままの窓に未練がましい視線を向けた。
しかし、ふと自分の置かれた状況をよく見ると大変なことになっていることに気づいた。
カーテンを取り付けるための腕木は細くて丸く、足がすべりやすかった。
そのうえ、カーテンのひだがじゃまをして腕木の上を自由に歩けない。
なんとか前に進んでも、向こう側には手がかりになるものは何もなく下へ降りる方法がない。
腕木と壁との距離もせまくてもと来たほうに体の向きを変えることも出来なかった。
「しまった、どうしよう」
あせったところでどうにも身動きが取れない。
腕木は床から四メートル以上あって目もくらむような高さだった。
いくら身軽な子猫とはいえ、この高さから飛び降りれば無事ではすまないだろう。
「誰かぁ、助けてぇ」
弱々しく助けを呼ぶ子猫の声は部屋の外には届かなかった。
もともとあまり使われていない部屋なので通りかかる人間もいない。
トリルの鳴き声はときおり吹く柔らかな初夏の風にかき消され、廊下にはさざめく梢の音だけが遠く眠たげに響いていた。
午後も遅い時間になって、やっと召使いが部屋の窓を閉めに来たやってきた。
召使いは床に転がったくず入れを見ておやっと思ったが、風のいたずらで倒れたのかなと考えてそれ以上気にしなかった。
くず入れを立て直すときに遠くで猫の鳴き声が聞こえた気がしたが、窓が開けてあったので外から聞こえたのだろうと思い気にとめなかった。
木の窓をバタンと閉めたときにも猫の鳴き声が聞こえた気がしたが、金具がきしむ音だろうと思いやはり腕木の上の子猫には気づかなかった。
***
「やった、人間が来た。助けてぇ」
トリルは懸命によびかけたが、人間はこちらを振り向いてくれなかった。
いまも不思議そうにくず入れをのぞきこんでいる。
「そっちじゃないよ、こっちだよ。上を見て」
必死に叫んだが気づいてもらえない。
そうこうするうちに、人間は留め金を外して重い木の窓をギィ、バタンと閉めた。
はずみでカーテンの腕木が揺れる。
「うわっ。きゃっ」
トリルはバランスをくずして悲鳴を上げた。
足をすべらせ落ちそうになったが、なんとかカーテンに爪を立ててふんばる。
ほうほうのていで腕木の上に戻ったトリルの耳に書斎の扉が閉まる音が聞こえた。
***
結局、その日の夜まで助けは来なかった。
夕食も終わる時間になって、ようやく城猫の子が一匹いないことに気づいた人間たちが城じゅうを探して回り、書斎の窓のカーテンの上で鳴きつかれているトリルを発見した。
もっとも、トリルを発見できたのは、母猫がいつもは使われていない書斎の扉をカリカリと引っ掻いていたからだった。
はしごをかけながら召使いがすまなそうに謝った。
「あんとき聞こえたのはおまえさんの鳴き声だったんだね。気づかずにすまなかったよ」
「まったく。城猫さまの声に気づかないとは、お前さんはずいぶん耳が遠くなっちまったんじゃないのかい?」
「そんなこといったってよぅ。城猫さまとはいえ、猫の声はみんなおんなじだしなぁ」
「いいから早くその子をおよこしよ。きっと、のどが渇いておなかがへっているに違いないよ。さあさ、ミルクをお飲み」
半日ぶりにカーテンの上から降りたトリルは、飛びつくようにミルクのお皿に頭をつっこんだ。




