魔法が解けて
魔女の黒曜石の心臓が砕け散った瞬間、音のない衝撃が城内に走った。
さきほどまで、怒声を上げて城の兵士たちを襲っていたゴブリンが、棍棒をふりかぶった姿勢で固まる。
と、体がみるみる干からびてくずれ落ち、ただの土と枯れ木とネズミの死体に戻った。
立ち上がりかけていたサイクロプスも、驚いたような表情を醜い顔にはりつけたまま硬直し、すぐにぼろぼろとくずれていった。
サイクロプスのくずれた体のあとには、子豚ほどの大きさの大ネズミの死体が横たわっていた。
倒れた魔女のしわくちゃの手足はみずみずしく張りを取り戻し、青白く斑模様が浮き出ていた皮膚は透き通るような白い肌に変わっていった。
戦場のすえた煙のにおいをそっと取りのぞくように吹いたそよ風が魔女のローブを倒れ伏した頭から払いのける。
フードの下からは、朝日のように柔らかな金色に輝く髪がこぼれ落ちた。
「これはいったい・・・」
モリルが倒れ伏す魔女のそばに歩みより、顔をのぞきこんでとまどいの声を上げた。
「大丈夫?」
トリルが心配げにたずねる。
「ああ、どうやら悪い魔法は消え去ったみたいだ」
「そうね、鏡も割れてしまったみたいだし」
マリルが地面に落ちた合わせ鏡に顔をよせて、くんくんとにおいを嗅ぎながら言った。
「う、ううん・・・」
「領主さま!」
頭をふりながら身を起こした領主に、マリルが駆けよる。
光に目がくらんだように額を押さえる領主の手の甲を、そっと舐めてみる。
なんだか、最後に見たときより若く見える。
真っ黒だった髪が、栗色に変わっているからだろうか。
それとも、威厳に満ちた口髭がなくなっているからだろうか。
しかし、マリルの鼻は、彼がいままでどおりの領主さまその人であると告げている。
猫からしてみれば、人間の姿かたちなど気にとめるほどのこともない。
領主さまが無事で、健康なようすならそれでいい。
「ありがとう、マリル。ぼくは大丈夫だ。もう平気だよ」
領主はくすぐったそうな笑顔をマリルに向けた。
「よかった」
マリルはほっと吐息をつき、領主が優しく頭をなでてくれる手に身をまかせた。
バサバサと羽音が響く。
トリルが壊れずに残った城壁をふり返ると、月の輪模様のあるカラスが満足気に羽繕いをしながらニヤリと笑っていた。
「よぉ。やるじゃないか」
「ありがとう。きみのおかげだよ」
「そうだな、これで俺さまの勝ち越しってことだな」
「えっ?」
「だってそうだろ?俺さまの手助けがなけりゃ、おまえさんもあの化け物を倒せなかったわけだしな」
カラスはすまし顔でそう宣言すると、くちばしを得意げに上げた。
「しょうがないな。まあそういうことでいいよ」
実際に助けられたんだし、とトリルは心の中でつぶやいた。
「けほっ、けほっ」
誰かがせき込む声が響いた。
モリルが、雷に打たれたように飛び上がって魔女をふり返る。
魔女は、両手をついてゆっくりと体を起こし、濡れた灰色の瞳で周囲を見回した。
「ここは……、どこ?」
魔女だった女性は自分がなぜこんなところにいるのか、本当にわからないようすでとまどっている。
「なんてこった」
モリルが、驚きの声を上げる。
しかし、女性からは邪悪な気配は拭い去られていた。
それどころかまったく姿が変わっており、おびえるような瞳からは脅威が感じられなかった。
モリルは、警戒心と好奇心を秤にかけて立ちつくしていたが、ついに好奇心に負けて魔女だった女性に近より、その瞳をのぞきこんだ。
「あら、きれいな猫ちゃん」
不安におびえる女性の瞳に優しい微笑みが戻る。
モリルは怪我をして血がにじんでいる指をそっと舐めてきれいにしてあげた。
「優しい子。私をなぐさめてくれているのね」
女性はモリルを抱きよせるとひざの上に乗せて優しく背中をなでた。
魔女だった女性の身じろぎに気づいた領主が、立ち上がってゆっくりと女性のもとに歩みよる。
「姉さん、この人は大丈夫だよ。もう魔女じゃなくなったみたいだ」
「そうなの?不思議だこと」
領主と女性は疑いの眼差しを向け合ったが、お互いによりそう姉弟猫が交わす鳴き声に安心を聞き取って警戒を解いた。
「大丈夫ですか?」
領主が、気遣うように女性に声をかける。
よく見ると、女性は娘と言っていいほどの若さだった。
絹糸のような柔らかな金髪がふちどるアーモンド形の輪郭は優しく、心細げな灰色の瞳と薔薇の蕾のような口唇は夜露に濡れたようにみずみずしい。
ぎこちなくうなずく動作にさらさらと金髪が流れる。
「私はこの城の領主です。あなたはどなたですか?」
「わたし・・・。わたしは北の山里の者です。ここはどこなのですか?わたしはどうしてここにいるのでしょう?」
娘は気丈にふるまっているが、その声はとぎれた記憶におびえるように震えていた。
「ここは、北の辺境の城ですよ。ここよりさらに北の山地に住むものがいるとは聞いていたが……」
領主はほころび始めた野薔薇のような娘のたたずまいに、見とれるように言葉をとぎらせた。
「そうですか。いつの間にかそんなに遠くまで来てしまったのですね……」
娘は長いまつげを伏せた。
領主は不安におびえる娘の前にひざまずくと、細いなめらかな手を取って優しく両手で包み込んだ。
娘は領主にふれられて一瞬身を固くしたが、下からのぞき込む領主の茶色の瞳が優しい光をたたえているのを見て力をぬいて顔を起こした。
あらためてあたりを見まわした娘は、すさまじい破壊の爪痕を目にして再び身を震わせた。
「一体、何があったのでしょうか。何か恐ろしい悪夢の中に囚われていたような気がするのですが・・・」
「どうやら、本当に何も覚えていらっしゃらないようだ。何が起きたのか正確に知るためにも、あなたの記憶がとぎれる前の話をお聞かせ願えますか?」
「はい」
そして娘は、北の辺境の城よりも、さらに遠く北に入り込んだ山地での生活を語り始めた。




