魔物
「こいつ、逆らうか」
トリルの態度にますます腹を立てた父親が手をあげようとする。
しかし、よく見るとトリルは男に向かって威嚇しているのではなかった。
あれ?と不思議に思った父親がトリルの視線を追うと、その先にある茂みががさごそと揺れた。
「うごるぅぅぅ」
「ごふっ、ごふっ」
一体何ごとかと見やる人間たちの目の前で突然茂みが割れて、中から怪物が二体現れた。
怪物は全身がこわごわしたネズミ色の毛でおおわれおり、濁った赤い目はビーズのようにうつろで禍々しい光をたたえていた。
つぶれた鼻がひくひくとうごめき、牙の生えた口のはしからは粘りのある唾液が糸を引いてたれている。
しかしもっとも異様なのは、獣のような外見にもかかわらず二本足で立ち、胸から腰にかけて毛皮や布を巻きつけて頭に革兜をかぶっている点だった。
突然襲いかかってきた魔物に、父親は腰から下げていた手斧を手にして立ち向かった。
腕に覚えがあるわけではないが、辺境を巡る行商人としての備えと覚悟はある。
旅をしていれば多少の危難は避けられない。
いざというときに身をすくめて動けないようでは、商品はもちろん家族の命も守れない。
だが、ふり下ろした手斧はほんの少し魔物を押し戻すことはできても、ぶ厚い毛皮に阻まれて直接ダメージを与えることができなかった。
父親が一体の魔物相手に苦戦する一方で、もう一体の魔物が女の子に襲いかかり、手をつかんで連れ去ろうとする。
「きゃーっ」
女の子のものか、母親のものか、絹を裂く悲鳴が森にこだまする。
「ロッタ!」
父親が悲痛な叫びを上げる。
彼は力任せに押してくる魔物の棍棒をかろうじて押し返していたが、自分の身を守るのに精一杯で愛娘がさらわれるのを止めることができない。
せめて男があと二人いれば、こんな魔物どもなんぞすぐに追い払えるのに。
だが、ひと気のない山間の街道では誰かの助けを期待できるわけもなかった。
そのとき、地面から青色の毛玉が魔物にとびかかった。
トリルに噛み付かれて、魔物が思わず女の子の手を放す。
トリルはそのまま、鋭い爪で魔物の腕を引っ掻く。
しかし、怪物のぶ厚い毛皮がじゃましてダメージを与えられなかった。
腕からふり払われたトリルは、空中で身軽に体をひねり地面に着地して再び身構えた。
なんだ、こいつらは?いやなにおいがするけど、それだけじゃない。
何か普通じゃないにおいが混じっている。
なんだろう。
嗅いだことはないけど、ぼくが知っているにおいだ。
長いしっぽがピリピリする。
ヒゲの先っぽに、静電気を帯びたようなチリチリとした感覚が宿る。
魔物をにらみつけるトリルの青い瞳がきらめき、縞のある青灰色のしっぽの白い先端が空中に紋様を描くようにくねる。
最初はでたらめだったしっぽの動きが、次第にリズミカルになりどんどん速くなっていく。
いつの間にかトリルの毛皮は銀色に輝き、気圧された魔物が思わず後ずさった。ついにしっぽの動きが見えないくらいの速さになり、白い先端だけが光の軌跡となって浮かび上がる。
すると、トリルの背後の山から季節外れの木枯らしが吹きつけ、次の瞬間、大粒の雹がつぶてのように魔物を襲った。
雹の勢いに押されて、魔物が人間から引き離される。
魔物たちが十分に遠ざけられると、トリルはしっぽを空に向けてぴんっと突き立てた。
しっぽが指し示す天空から、音のない白い稲妻が落ちて魔物をつらぬく。
「ぐががが」
閃光が消えたあとにはボロ布と泥とねじくれた木の根っこ、それとドブネズミの死体が二つ転がっていた。
商人は突然の突風と目の前に落ちた稲妻に放心状態になっていたが、すぐにわれに返って一人娘と妻の姿を探した。
娘は魔物のねじくれた鉤爪に握られたところをこすりながら震えており、必死に涙をこらえていた。
トリルは少女のもとに歩みよると、痣になったところをざらついた小さな舌で舐めた。
「疫病神め。あっちへ行け、しっしっ!」
父親は真っ青な顔で額とへその位置に魔除けの印を結ぶ仕草をすると、棒を持ってトリルを追い払った。
「お父さん、彼は私たちを助けてくれたのよ。それなのになんてことするのっ!」
女の子が父親の腕にしがみついて止める。
「うるさい、こんな物騒なところはすぐに引き上げだ。昼食はいいから、急いで山を越えるぞ」
引きつった声で父親が言った。
父親は、今朝あとにしてきた町で魔法を使う猫があがめられていることを聞いていた。
城猫と呼ばれるその猫は町の守り神であり、城猫を盗んだ者には極刑が下るという話しだった。
先ほどの不思議な雷はこの猫が魔法を使ったのに違いない。
わざと盗んだわけではないと言っても、城猫を連れていたと知られたら一体どんな目に遭うか。
父親は行商人という商売柄、自分たちはどこに行っても余所者であることをわきまえていた。
何か問題が起きたとき、まず最初に余所者が疑われる。
なんども訪れた町でも、どんなに親しい知人が居る町でも変わらない。
余所者の自分たちにとって城猫など疫病神以外のなにものでもない。
他人に見られる前にこの猫とは縁を切らないとだめだ。
男が投げつける棒をよけて、トリルは森の中へと逃げ込んだ。




