荷馬車
秋も深まり冬の訪れが感じられるようになったある日、トリルはお城の中庭に見慣れない幌馬車が停まっているのを見つけた。
馬はくつわを外されて馬小屋のそばの飼葉桶でエサを食んでいる。
幌馬車からは初めて嗅ぐ刺激的な香りが漂っていた。
「何だ、いったい。この変なにおいは」
「くしゃん、くしゃん。こりゃ、たまらん。こんな迷惑なものがそばにあったんじゃ、ろくに昼寝もできやしない」
猫たちは、くしゃみをしたり顔をしかめたりして文句を言いながら、幌馬車の近くから立ち去った。
しかしトリルは、嗅ぎなれない香りに好奇心をあらわにして幌馬車に近づいた。馬車の後ろ側に回り込むと、幌が巻き上げられていて荷台の中が見えた。
しばらく鼻をヒクつかせて見上げていたが、意を決して荷台に飛び上がる。
馬車にはところ狭しと商品が積まれていた。トリルは商品に触れないように注意しながら、幌馬車の中を歩いた。
色とりどりのきれいな布、珍しい模様の描かれた銀の食器、大小さまざまの壷、櫃、長持、それに薬棚まであった。
「すごいなぁ。領主さまのお部屋でも見たことないものばかりだ」
初めて見る品々に目を輝かせていたトリルは、不意に気づいた。
「これは外国の品々に違いない。それにこの香り。船乗り猫のおじいさんが言ってたっけ。貿易船には、お茶や香辛料が積まれていたって」
船乗り猫のおじいさんが話していた。
香辛料というのは草の実を乾燥させたもので、とても小さい粒なのに想像もつかない刺激的なにおいがすると言っていたっけ。
そして、人間たちはその小さな粒のためには金を惜しまないと。
初めて嗅ぐにおいだけど、きっとこのにおいがそれなんだ。
ということは、この幌馬車は海のそばから来たに違いない。
すごいなぁ、きっと何日も何ヶ月も旅をしてきたんだ。
海ってどんなだろうと想像しながら、トリルは珍しい香りに包まれて幌馬車の荷台で眠り込んでしまった。
眠りの中で、トリルは帆船の舳先に立っていた。
足元から、ざざん、ざざんと波の砕ける音がする。
真下を見ると、波を切り裂いて進む船首が見えた。
海面までは城壁と同じくらいの高さがある。
ふり返ると、お城でいちばん大きな樅の木よりも太くて高い立派な帆柱が立っており、風を受けて丸くふくらんだ帆を支えていた。
帆柱の周囲にはオオガラスほどの大きさの白い鳥がやかましく鳴きかわしながら波をかき分けて進む船と並んで飛んでいる。
空はどこまでも青く、水面は空より深い群青色に輝いていた。
波に合わせて体が左右に揺れる。急に前方に大きな波が立ち上がった。
あっ、と声を上げるまもなく船首が大波に持ち上げられ、次の瞬間、こんどは一気に坂道を転げるように下り始めた。
がたん。
不意に幌馬車の車輪が小石にぶつかって跳ね上がった。
トリルはびっくりして飛び上がり、低い天井に頭をぶつけた。
幌馬車に上がり込んでいろいろ見てまわっているうちに、横倒しになった壷を見つけて入り込み、そのまま寝こけてしまったことを思い出した。
おそるおそる荷台の縁から外を見ると、お城の門が遠ざかっていくのが見えた。
大きく開いた門がゆっくりと閉じていく。
いますぐ馬車を飛び降りればまだ戻れることはわかっていたが、トリルは金縛りに遭ったように、ただじっと遠ざかるお城の門を見つめていた。
やがて大通りは右に曲がり、とうとう城門が見えなくなるとトリルは流れていく町の風景に目をやった。
荷台の高みから見る二度目の町は初めて訪れたときとはまったく違って見えた。
大通りの両側に並ぶ町並みはお城の城壁ほどは高くないが、互いによりそってびっしりと建ち、その裏にすてきな路地や屋根の連なりを隠していることを気づかせない。
あの猫たちの集会場のあばら屋はどのへんにあるんだろう?
あそこのバルコニーにいる猫は、あのとき見かけた顔だったかな?
わざとではないけれど、禁じられたお城からの外出をしてしまった事実が次第に頭に染みこんでくる。
事故のような不意の出来事だった。
でも戻ろうと思えば戻れた。
戻らなかったのは、自分が戻りたくない、このまま外の世界を見たいと思ったからだ。
トリルは規則を破った罪悪感と、準備もなしに出発した不安感を心の奥に押し込めて、これから始まる冒険にしっかりと目を向けた。
しばらくして物見櫓を兼ねた町の外門をくぐると家並みもまばらになり、小さな民家と収穫を終えた畑が広がるようになった。
幌馬車はそのまま街道を西へと進んでいく。
空を切り取る建物がなく、どこまでも続く田園風景はトリルにとって町とはまた異なる驚きに満ちていた。
小川にかかる石橋を越えたときには、川底の丸石がゆらゆらと太陽の光にきらめくのが見えた。きらりと銀色に反射したのは川魚だったろうか。
気が付くと、あれほど遠くまで広がっていた畑は丘の斜面に作られた棚田に変わっていた。
街道はそのまま森の中へと入っていき、お城の塔よりも高そうな大きな木々に囲まれたトンネルへと姿を変えていった。
トリルはずっと幌馬車の荷台に前足をかけた姿勢で目をまん丸に見開いたまま、次々に現れる新しい景色に見入っていた。
どのくらいそうしていただろう。
やがて幌馬車の速度が落ちて止まり、人間たちがあわただしく作業をする、がちゃがちゃ、からから、という物音が響いてきた。
どうやらここでお昼ごはんにするらしい。
そういえばぼくもおなかがへったな。
トリルは幌馬車から降りて何か食べるものを探そうと、荷台から顔をのぞかせた。
「まあ、可愛い子猫ちゃん!」
人間の女の子の声が近くで響いて、思わず首をすくめる。
声のほうをふり向くと、十歳くらいのおさげの女の子が手を伸ばしていた。
城猫の一族としてお城の人間からは親切にされていたトリルは、人間の子供、とくに女の子が自分をなでたがることを知っていたので、逆らわずに身をゆだねた。
女の子はトリルの両脇に手を差しこみ、優しく抱き上げて頭をなでてくれた。
「猫ちゃんはお城からついてきたの?おなかが空いたでしょう。ミルクをあげるわね」
「みゃー」
トリルは女の子にありがとうと礼を言った。
女の子は昼食の準備をする人間の大人たちのところに行くと、毛織りの巻きスカートをはいた女性にミルクを分けてほしいとお願いしてくれた。
「まあ、きれいな猫ちゃんね。ミルクはたっぷりあるから、遠慮なくお飲み」
そう言って銀のお皿にミルクを注ぎ、近くの切り株の上に置いた。トリルは女の子の腕の中から身をくねらせてぬけ出ると、切り株の上にちょこんとすわって美味しそうにミルクを舐めた。
「どこで拾ったの?可愛いけれど、旅には連れていけないわよ」
大人の女性が女の子に言った。
「町から馬車に乗り込んでいたみたい。でもこんなに可愛いのよ?どうしても飼っちゃだめ?」
「小さくても食べるからねぇ。馬車にはネズミはいないし、役に立たないものを連れて歩く余裕はないのよ。それにお父さんはあのとおり、猫嫌いだし」
「そんな・・・」
女の子は泣きべそを掻きそうになりながら涙をこらえた。
両親の苦労している姿をいつも近くで見ているので、わがままを言って困らせたくはなかった。
「わかったわ。でも、次の町まではいっしょに行っていいでしょう?こんな山奥に放り出しちゃかわいそう」
「そうね。そのくらいならいいわね。でも、約束しなさい。町についたら必ずお別れするって」
「うん、わかった」
女の子は目の縁を真っ赤にしながらも、なんとか涙をこぼさずに言った。
そのとき、厚いブーツの底が砂利をふむ音がして大きな声が響いた。
「おーい、昼飯はまだか?あまりゆっくりしていると日暮れまでに山を越せなくなるぞ」
父親が幌馬車の角を回って現れるのを見て、女の子はしまったという顔をした。
母親のほうはこのあとの展開を正確に予測して、やれやれとばかりにそっとため息をついた。
「なんだ、このちっこいケモノは。猫を飼うなんて、絶対にだめだぞ。どこにそんな余裕があるというんだ。それに、わしの大事な商品で爪とぎでもされてはかなわん。すぐに追い払ってしまいなさい」
「にゃーっ」
ぼくはそんな行儀の悪いことはしないよ。
爪とぎはいつも決まった柱でするようにお母さまに言われているもの。
トリルは男に抗議の声を上げた。
「むっ、反抗的な態度だな。可愛げのない」
父親は、しっしっとトリルを追い払った。
「お父さん、乱暴はやめて!」
女の子があわてて父親にすがる。
トリルは切り株から転げ落ちるように地面に降りると、足をふんばり、長いしっぽを突き立てて、背中の毛を逆立ててフーッとうなり声を上げた。




