街猫
トリルが降り立った場所は、城の外壁に沿って設置された空堀だった。
堀の街側は石積みが乱雑で、猫の脚なら簡単に登ることができた。
トリルは手近な植木鉢の間に隠れて、初めて見る街路の喧騒に目を見張った。
荷物を満載した荷馬車を、身軽な空荷の馬車が追い越していく。
お城の中では馬車も馬も見慣れた存在だった。
でも、こんなに勢いよく走り回る馬車を見るのは初めてだ。小石を飛ばして通り過ぎる車輪はもちろん、勢いよく振り下ろされる馬のひづめさえ、小さいトリルには脅威に映った。
とても大通りは渡れそうにない。
通りを行きかう人間たちは、足元も見ずに先を急いでいる。
別の場所では、同じくらい多くの人が通りの角やお店の前で足を止めていつまでもおしゃべりを続けていた。
お城で見る人間たちはきびきびと働き、兵士は規則正しい隊列を組んで歩いていた。
整然と落ち着いた振る舞いを見せる人間たちに慣れていたトリルには、混沌とした大通りの人混みが別の生き物のように見えた。
街の住人が互いにぶつからずに歩けるのが不思議に思える。
何度か人の流れを横切ろうとしたが、彼らの足が次にどこに踏み出されるのかまったく予想がつかなかった。
堅い靴に蹴飛ばされ自慢のしっぽを踏みつけられそうになって、ついにトリルは表通りを進むのをあきらめた。
トリルは人混みにはじき出されるようにして、路地裏の小道に入り込んだ。
路地は先ほどの喧騒とはうって変わった、心地よい静けさでトリルを迎えてくれた。
午前中の爽快な空気を含んだ風が路地を吹き抜ける。
石畳の小道は建物の間を縫うように走っていて、直接日差しは届かない。
しかし、暗い雰囲気はなく、むしろ心を落ち着かせる柔らかな明るさで満たされていた。
二階の窓枠に置かれた鉢植えの花が色を添える。
どこを向いても初めて目にするものばかりで、トリルはきょろきょろしながら風に誘われるままに路地を歩いた。
気が付くとトリルは高い建物に囲まれた小さな広場に迷い込んでいた。
壁際にはちょろちょろと水が湧く水飲み場があった。
ちょうど喉が乾いていたところだったので、トリルは水桶に身を乗り出してちいさな舌で水を舐めた。
「見ない顔だね」
ハスキーな声で話しかけられて慌てて振り向く。
「どっちを見てるんだい」
くっくっと喉の奥で笑う声が頭上から降ってきた。
声のするほうを仰ぎ見ると、水飲み場の真上にある細長いひさしにふくよかな雌猫がゆったりと寝そべっていた。
「こんにちは、おばさん」
トリルは気の良い挨拶を返した。
しかし、雌猫はトリルの言葉が気に入らなかったようで、牙をむいて威嚇しながら言った。
「シャーッ、口の悪いガキだね」
「ごめんなさい、なにか気に障ったのなら誤ります。おばさ・・・」
「ドーラさん、とお呼び。二度とその不快な呼び方を私に使うんじゃないよ」
「わかりました、ドーラさん」
「ふん、ずいぶん良くなったよ。それで?」
「?」
「察しの悪い子だねぇ。どこから来たんだい、って言ってるんだよ」
ドーラはせっかちな性格らしい。
トリルは、ドーラを怒らせないように気をつけることにした。
「すみません、ドーラさん。ぼくはトリルといいます。お城から来ました」
「ほう、城からねぇ。どうりで見ない顔だ。それで?」
また質問だ。でも、最初の質問には答えたし、一体何に答えればいいんだろう?
トリルは戸惑いを隠せず、長い尻尾をくねくねとゆらした。
「だから、何の用があってここに来たんだい、って言ってるんだよ」
「ああ。えっと、ぼく、海に行く方法を探しているんです」
「うみ?」
「はい、海です。山の向こうの、そのまた向こうのずっと向こうにある、とっても大きな水たまりなんです」
「なんだい、変わった子だねぇ。水たまりを探しているって?そんなもの、山の向こうまで行かなくてもすぐそこいらにあるだろうに」
「とってもとーっても大きな水たまりなんです。お屋敷ほどもある船っていう乗り物を浮かべて、何日も何日もかけて渡るほど大きいんです」
「ふーん、そんな話、聞いたことがないね。よし、ついておいで」
「えっ?」
ドーラが高いひさしの上からトリルの横に滑らかに降り立つ。
「まったく、鈍い子だねぇ。あたしが知ってそうなやつを当たってやるっていってるのさ」
「あ、ありがとう、ドーラさん」
ドーラは広場を横切ると、見かけによらずしなやかな動きで高い塀にひと飛びで登った。
あまりに急な展開に、トリルは目を回しそうになりながらなんとかドーラのあとをついていった。
ドーラは塀の上を歩き、屋根を伝い、バルコニーを突っ切る。人通りの多い大通りも、建物の間に渡された天幕の上を歩いて難なく横断した。
それは猫だけが通る、猫の道だった。
やがて、街の古い区域にある、あばら屋の庭に降り立った。
「ちょっと待ってな」
ドーラはトリルに庭の端で待つように言うと、猫たちのたむろするあばら屋に向かった。
目つきの悪そうな雄猫が、近づくものの気配に顔をあげる。
大丈夫かなあ。なんだか、柄の悪そうな大人がたくさんいるけど。
トリルが心配して見ていると、目つきの悪い雄猫は立ち上がってドーラに道をゆずった。




