老船乗り猫
トリルには城壁のほかにもう一つ、お気に入りの場所があった。
馬小屋の片すみの藁を積んだ場所に年老いた猫がすみついている。
もうろくに体が動かないのか、いつも昼寝をしていて働く気配のない役立たずではあったが、馬小屋の老人が世話をしてくれるおかげで食べ物には困らなかった。
馬小屋の寝藁は年老いた猫には十分な広さの乾いた寝床を与えていたし、明かり取りの窓からはやわらかな日差しが届いて老猫を暖かく包み込んでくれる。
老猫はいつも置物のように動かずしゃべらずだったので、猫仲間からは忘れられたかのようにさけられていた。
トリルはほかの猫仲間をさけてすごすうちに、自然と老猫のところを訪れる機会が多くなっていった。
トリルはいつも一方的に、カエルを何匹捕まえただの、バッタは甘くて美味しいだの、たあいのない話をひとりごとのようにしゃべっては帰っていった。
老猫はトリルがカエルばかりを捕まえていても馬鹿にしなかったし、バッタの味に関しても批判したりはしなかった。
もっとも、何を話しても返事をしなかったのだが。
この日もトリルはいつものように、自分が見たもの、興味をもったものを老猫に話していた。
「お庭の木の葉っぱが黄色くなっていてね、風が吹いたときに、ポロッと取れて落ちてきたんだ。はじめは木が死んじゃったのかなと思ったんだけど、みんなが違うって言うんだ。春になったらまた葉っぱがいっぱいになるって。
木はお休みしているのかな?
ぼく、春は大好き。お花がいっぱい咲いているし、ぼくは春に産まれたんだもん」
とりとめのない会話は答えを期待したのものではなく、ただ思いつく景色を言葉にすることが楽しかった。
「お城のいちばん高い壁の上から見るとね、お城の外のずーっと先のお山まで、どこもかしこも葉っぱの色が変わってたんだ。
あの黄色はどこまで続いているのかな。
あのお山の向こうも黄色になっているのかな。
あの先には何があるんだろう・・・」
トリルは城壁からの風景に思いをはせて天窓を見上げた。
「あの山の、ずっとずっと先には海があるんじゃよ」
答えが返ってくるとは思っていなかったので、トリルは思わず飛び上がってしまった。
あわてて老猫を振り返ると彼は片目を薄く開けてトリルを見つめていた。
「海ってなに?」
トリルが聞き返すと、老猫はまた目をつぶってぽつりぽつりと話を始めた。
「大きな水たまりでな、向こう岸が見えないくらい、ずっと水ばかりが続いているところじゃ。
海の水は塩っぱくてな、磯のいいにおいがするんじゃ。海辺には魚がたくさんいて、それは美味いもんじゃった」
トリルは老猫がまた居眠りに戻ってしまう前にと問いかけを続けた。
「おじいさん、魚ってなに?美味しいもの?」
老猫はしばらく返事をしなかったが、トリルがしんぼう強く待っていると、また薄目を開けてつぶやくように言った。
「そうさな。お前さんの好きなカエルみたいに生臭くて冷たいが、うろこがあって表面は固い。だが、身はなんとも言えん旨味があってのぉ。カエルなんぞ比べものにならん美味さじゃぞ」
「へぇ、おじいさん物知りだね。食べたことあるの?」
「わしは若いころは貿易船の船乗り猫じゃったんじゃよ。いくつもの船を渡り歩いて、いくつもの外国を訪れたものよ。わしの乗る船はどんな嵐に遭っても沈まないと言われてのぉ。もうずいぶん昔の話じゃがな」
「へぇ、すごいや。ねぇ、外国ってどんなところ?もっといろいろ教えてよ」
トリルは今にもおどりだしそうな勢いで、矢継ぎ早に老船乗り猫に問いかけた。
けれど年寄りの猫は、今日はもう疲れたまた今度なといって昼寝のまどろみに沈んでいった。
老猫の馬小屋を去ったあとも興奮が冷めないトリルは、お城の中に戻って兄のモリルを探した。
モリルは大広間のバルコニーにいた。彼は、遠巻きに見つめる雌猫たちの視線を気にしないようにして毛繕いをしている。
いつものトリルならほかの猫の目が気になって気後れするところだったが、そんなことも忘れて忘れてモリルに近づき勢い込んで話し始めた。
「ねぇ、モリル、海って知ってる?山の向こうのずっとずっと先に、大きな塩っぱい水たまりがあるんだって。お魚っていう、美味しいものがあるんだって。その海の向こうには外国っていうのがあるんだって」
目を輝かせてまくし立てるトリルに、モリルは肩をすくめると言った。
「山の向こうにはまた山があるだけだよ。いちど、領主さまの狩りに連れられて山向こうまで行ったけど、特別なものなんて何もなかったぜ。それに魚も見たことはあるけど、泥臭くてにおいを嗅いだだけで二百グラムは痩せちまいそうな代物さ。とても食べる気なんか、起きなかったね」
「でも馬小屋のおじいさんが・・・」
「誰からおかしな話を吹きこまれたのかと思ったら、馬小屋の爺さんか。あの人の言うことを真に受けるなんて、やっぱりお前は子供だな。あの爺さんは大法螺吹きで有名だからな。ここいらの猫なら誰でも知ってるぜ。塩っぱい水たまりなんてあるもんか」
取り巻きの猫たちにもくすくすと笑われて、トリルは逃げるようにその場をあとにした。
トリルはモリルに馬鹿にされて、しょんぼりと廊下を歩いた。
老船乗り猫が描いてみせた海の景色はぜんぶ嘘だったのだろうか?
肩を落としてお気に入りの城壁へと向かうと、月の輪模様のカラスが先に来ていていつもの場所にとまっていた。
今日は競い合う気分ではなかったので、そのまま通りすぎようとする。
すると、カラスのほうから声をかけてきた。
「おい、どうしたんだ。すっかりしょげかえってるな。らしくないぞ。」
「ねぇ、海って知ってる?」
高い空を飛ぶ鳥たちなら遠くの景色を知っているに違いない。
ふと、そう思ってカラスにたずねた。
「お前、海も見たことがないのか。へへーん」
「知ってるの?」
「あったりまえよ。誰に訊ねているんだってーの」
カラスは胸をはり、得意気に言った。
じつはカラスは自分では海を見たことがなかった。
しかし、まえにこの城を通りかかったワタリガラスに海の話を聞いたことがあった。
ワタリガラスは、本当に海を越え山を越えて旅をしている本物の旅人で、月の輪模様のカラスにとって憧れの人だった。
彼から聞いた話しはすべて彼自身の目で見てきた真実の話だった。
「山をいくつも越えたずっと先にどこまでも続く大きな水たまりがあって、それを海って言うんだ。海はそれこそどこまでもどこまでも続いていて、本物の男だけが乗り越えられる危険なところなんだぜ」
カラスも宙を見ながら、どこか憧れを込めた声で語った。
トリルもカラスと同じ宙を見ながら興奮に心臓が高鳴った。
老船乗り猫のおじいさんが言ったことは嘘じゃなかったんだ!
海は本当にあるんだ!
何も知らないのはモリルのほうなんだ!
そう思うと、トリルは外の世界が見たくて見たくて居ても立ってもいられなくなってしまった。
よし、海を探しに行こう。
この目で外国を見てみよう。
トリルはそう心に決めた。
だけど、どうやったら海に行けるのかな。
トリルはカラスと城壁の屋上で別れたと、考えながら歩いていた。
カラスは山をいくつも越えた先にあるって言っていたけど、お城から見える山までだって行ったことないし。
モリルは領主さまに連れて行ってもらったんだっけ。
だったら、街に行けば海まで連れて行ってくれる人がいるかもしれない。
とにかく、まずは街に出てみよう。




