地下道のネズミ
角を曲がるたびに少し距離が開くが、直線ではドブネズミのほうが速い。
首すじになまぐさい吐息を感じて、走る速度をゆるめずに恐る恐る後ろを見てみると、いまにも届きそうな距離で巨大なドブネズミのあごが開かれていた。
「!!」
間一髪でななめ左にステップをふみ、ドブネズミの噛みつき攻撃をさける。
ステップをふんだぶん速度が落ちたが、ドブネズミもねらいを外してつまずいたのでなんとか追いつかれずにすんだ。
しかし、すぐにまた追いついてきてくさい息を吹きかける。
ドブネズミは今度はトリルの長いしっぽの先っぽを狙って噛み付いてきた。
トリルは寸前でドブネズミの狙いを察知して、長い尻尾をぐいっと引き寄せた。
トリルのお尻のすぐ後ろで鋭い前歯ががきんっと噛み合わさり、火花が散った。
しっぽが!ぼくの大事なしっぽが!
体が小さいことをみんなからばかにされるトリルにとって、長いしっぽだけが唯一誰にも負けないと思える心のよりどころだった。
それがいま、自らの命を危険にさらす弱点となっている。
そんなわけない。ぼくのしっぽは、誰にも負けないしっぽなんだ!
でも、いつまでもしっぽを体に引きつけた姿勢では走る速度が落ちてあいつに捕まってしまう。
いったい、どうしたら・・・そうだ!
トリルは引きつけていたしっぽを今度は思い切り伸ばして、少し右に傾けた。
ドブネズミは、鼻先に突きつけられたトリルのしっぽを睨んで、先っぽの白い部分に噛み付こうと跳びかかった。
トリルは寸前でしっぽを素早く左に振り、ドブネズミの狙いを外す。
攻撃が空振りしたドブネズミは、たたらを踏んで石畳の床につんのめった。
トリルはステップをふむ代わりにしっぽを左右に素早くふって、くり返しドブネズミの目測を狂わせた。
片目しかないドブネズミはもともと距離感が取りづらかった上に、捕えたかと思うと素早く避ける標的に完全に翻弄されていた。
次から次へと繰り出されるドブネズミの噛みつき攻撃を、長いしっぽをふってねらいをそらし、よける。
無限に続くと思った地下道の出口が不意に見えてきた。
通路をふさぐ扉の、右下にある裂け目から外の明かりが漏れている。
トリルは裂け目に向かって一直線に走った。ふり返らずに頭からつっこんで通りぬける。
転がるように外に出ると、長いしっぽをぐいと体に向かって引き寄せる。
間一髪のところでしっぽが裂け目を通りすぎると同時に、ドブネズミのあごがガチンと閉じた。
ドカッ、と巨体が扉に打ちつける音がして建物全体が揺れた気がした。
トリルはしっぽの先が噛じられてなくなっていないか確かめたい気持ちをぐっとこらえて、地下道の扉をふり返った。
足をふんばって扉の裂け目をにらみつけ、背中の毛を逆立てる。
指の長い大きな手が、裂け目からつき出てくる。
トリルはあわてて扉から飛びのいた。
ドブネズミは体が大きすぎて扉の裂け目を通りぬけられないようだ。
手探りをあきらめたドブネズミは、扉への体当たり攻撃をはじめた。
どしーん、どしーんと巨体がぶつかるたびに、羽目板が大きくたわんでいまにも砕けそうだった。トリルは転げるようにしてその場を立ち去った。
ほうほうのていで日の当たる中庭に出る。若木の幹に身を隠すようにして避難するとようやく気分が落ち着いてきた。
あんな大ネズミ、倒せっこない。一歩間違えればこちらが食べられてしまうところだった。
ほっとすると同時に、またモリルに馬鹿にされると思うとくやしさがこみ上げてくるのだった。
***
「ちっ、ついてねえな。ここも空振りか」
薄汚れた毛皮をまとった男が三日前に仕掛けた罠を調べながら毒づいた。
男は猟師だった。
ここのところ失敗続きで、とんと獲物にありつけていない。
このままではほとんど手ぶらで里に帰ることになってしまう。
男は焦っていた。
一度山に入ったら最低でもひと月は狩りを続けるのだが、それはつまりひと月でその夏の収入の半分くらいは獲物をしとめないと赤字になるということだ。
このまま手ぶらで帰ったら、秋の稼ぎ時に山に入る準備ができねえ。
秋に稼げねば、冬は越せねえ。
冬が越せなきゃ野垂れ死にってことだ。
次の仕掛けも空振りなら、少し危険だがもう少し山奥に入ってみるか。
猟師の男は暗い表情で森を進んだ。
次に訪れた罠には獲物がかかっていた形跡があった。
しかし、罠は壊され、あたりには血痕が飛び散っているだけで、肝心の獲物がなくなっていた。
「ちくしょう。おれの獲物をねこばばしやがったやつがいるな。見てろ、お代はきっちりと取り立ててやる」
おおかた、たちの悪いキツネかなにかが獲物を横取りしたのだろう。
痕跡をたどっていけば、そいつをしとめられるかもしれない。
猟師は壊された罠を調べた。
よく見ると鉄製の罠は無理な力がかかってひしゃげており、小動物のものと思われる脚の先端が残されていた。
どうやらなにものかが無理矢理獲物を引きちぎって持っていたらしい。
熊だろうか。
しかし、熊にしては残された足跡が小さい。
猟師の男はいつでも抜けるように鉈の柄頭に手を置いて痕跡を追った。
小一時間追跡してとうとうはっきりとした足跡を捕まえた。
「近いな」
猟師は口の中でつぶやいた。
少し先に森の中に開けたところがあった。
大雪で倒れた老木が立っていた空間だ。
中央の倒木のそばにしゃがみ込んでごそごそと動く姿が見える。
獣の毛皮を体に巻き付けた後ろ姿は人間のようだった。
同業者か?だとしたら仁義にもとる行いだ。落とし前をつけてやる。
「おい、おまえ」
猟師の男は凄みをきかせた声で怒鳴りつけた。
男の声に振り向いた顔は人間のそれではなかった。
ツチブタのようにひしゃげた鼻面を除いて、顔面全体をねずみ色の剛毛がおおっている。
唇の端が醜くめくれて下あごから牙がのぞいていた。
額には短い角のような瘤が二つ突き出ている。
人に見間違えた毛皮の衣は獲物からはぎ取ったままの生皮をまとっていた。
「あわわ」
こいつは、獣でも人間でもねえ。化けもんだ!
猟師はあわてて向きを変えると一目散に逃げ出した。
「ぐろろろ」
生皮をまとった化け物は濁った黄色の光を目に宿し、緩慢な動きからは想像できない速さで猟師の背後に追いすがった。
「ひいいい、来るなぁ」
闇雲に振り回した鉈が化け物の腕に当たったが、堅い毛と分厚い皮膚にはじかれて傷一つつかない。
「ぎいいい」
化け物は猟師の悲鳴を真似るように奇声をあげ、長い腕を振り上げた。
猟師は化け物の腕から逃げるように背を向けた。
化け物のどす黒い爪が猟師の背中をとらえて切り裂いた。
「ぎゃあああ」
化け物に弾き飛ばされた猟師はそのまま森の急斜面を転落していった。
崖をのぞき込んでいた化け物が、不意に何かに呼ばれたように顔を上げる。
それからまっすぐ森の中へと戻っていった。




