第51話 矢掛町
赤鬼の貪欲さは、人間のそれとは桁が違う。
たった一回。
たった一秒。
瞬間を切り取り、その全てを学び飲み込んでいく。
「覚えたぞ!」
矢掛鶯の太刀筋は、初見の一撃しか攻撃として機能しなかった。
同じ太刀筋を二度放とうものなら、赤鬼は即座に学習し、対応した。
返り討ちという、最大級の敬意をもって。
「……っ!?」
矢掛鶯は赤鬼から距離を取り、刀を構える。
矢掛鶯の強みは、斬新さ。
斬新故に、相手に無条件の初見殺しを叩きつけることができる。
しかし、たったの一撃で全てを見切られる相手には、初見殺しの攻撃以外が通用しないということでもあった。
矢掛鶯が天守閣の頂上に視線を向けると、倉敷市市長と目が合う。
「代わってやろうか? 矢掛」
「いえ、問題ありません」
倉敷市市長からの一言で、矢掛鶯は再度自分を奮い立たせる。
矢掛町は倉敷市の奥座敷。
倉敷市を支えることも、役割の一つだ。
「本当は一人の力で戦いたかったが、仕方ない」
矢掛鶯は刀を納め、両手を広げる。
緑色の着物が鮮やかに広がり、かつての歴史を現代へと呼びよせる。
「脇本陣と本陣を、展開する!」
大地が揺れる。
烏城公園として緑にあふれる空間は一転し、かつての宿場町が大地よりせり上がって来た。
「何だ?」
矢掛町は日本で唯一、本陣と脇本陣の両方が重要文化財として残っている地。
即ち、江戸時代の宿場が最も色濃く残っている地である。
現れたのは、旧矢掛脇本陣髙草家住宅と旧矢掛本陣石井家住宅。
脇本陣とは、本陣の補佐。
旧矢掛脇本陣髙草家住宅の管理者である髙草家は、金融業で財をなし、庭瀬藩の掛屋や小田郡大庄屋を務めた旧家。
本陣とは、参勤交代する大名たちの宿場。
旧矢掛本陣石井家住宅の管理者である石井家は、江戸時代に矢掛宿の本陣職を代々務めた旧家。
どちらも、大名たちに愛された場所である。
旧矢掛脇本陣髙草家住宅と旧矢掛本陣石井家住宅、両者の扉が開く。
「一人の力なら、すぐに対応されて終わりだ。なら、数千の力ならどうだ?」
繰り返す。
本陣とは、参勤交代する大名たちの宿場。
「矢掛の宿場まつり大名行列!」
扉の中からは、戦の準備を終えた大名とその配下たちが現れた。
矢掛の宿場まつり大名行列。
毎年、十一月第二日曜日に開催される祭である。
昔ながらの本陣と脇本陣を残した矢掛市街地を舞台に、江戸時代の大名行列を再現する。
約八十名で編成された絢爛豪華な大名行列が町を歩き、かつての江戸時代を再現するのだ。
「したにー! したにー!」
声とともに、配下たちは隊列を成し、赤鬼の方を見る。
「かかれー!」
そして大名の一言で、配下たちが赤鬼へと突撃をかける。
ある者は刀を、ある者は弓矢を持ち、総攻撃をかける。
一つの攻撃を即座に対応してくるならば、対応できないくらいに数を増やせばいい。
人には個性があり、手癖がある。
それ故、無数の攻撃に一つとして同じ攻撃はない。
「小癪な……!」
赤鬼は飛んできた弓を手で払いのけ、突撃してくる侍たちに突っ込んでいった。
「技の見本市じゃあないか!」
無数の刀を。
無数の槍を。
無数の矢を。
赤鬼は嬉々として受け止め、反撃に転じていく。
赤鬼が突っ込んだ場所からは、刀も槍も宙に舞い、その後に配下たちが血を流して倒れていく。
一対数千。
矢掛鶯に計算違いがあったとすれば、大名行列として召喚した侍たち一人ひとりが、赤鬼に単騎で勝てる実力がなかったこと。
それ故に数の利は、赤鬼の前ではあまりにも無意味となった。
「……くそっ」
個ではなく集団で。
それは、矢掛町の神髄であり、この場で頼ってしまった理由だ。
アルベルゴ・ディフーゾ。
日本語では、分散型宿泊施設。
イタリアで生まれた、『空き家問題』を観光産業で解決して少子高齢化による過疎化を食い止める取り組みであり、町の宿泊施設やレストラン等を水平的にネットワーク化するものである。
矢掛町の『矢掛屋』は、アジア初のアルベルゴ・ディフーゾ認定の宿。
矢掛町は、四百年の歴史を持つ江戸時代の町を町全体で支えるほど、横の繋がりが強い。
横のつながりが強いため、集団戦が強い。
少なくとも、相手が人間であれば。
「皆、さがってくれ」
勝機を見いだせないどころか赤鬼を鍛える結果で終わると判断した矢掛鶯は、大名たちに撤退を指示する。
大名行列は即座に本陣と脇本陣へと戻り、本陣と脇本陣は地面に沈んだ。
烏城公園の豊かな自然が、再び周囲に戻り広がった。
「賢明な判断だ」
赤鬼は標的を矢掛鶯一人に向け、止めを刺しにかかる。
矢掛鶯は再び刀を抜き、赤鬼との一騎打ちに応じる。
赤鬼が二度目の技を完璧に防ぐなら、赤鬼が見たことのない技を出し続ければいい。
「シチョウ!」
矢掛鶯は、即興で型を作り、刀を振るう。
矢掛鶯の思考力は、底なしだ。
その理由は、囲碁。
囲碁発祥の地、矢掛町。
囲碁の起源は、曖昧だ。
四千年前の中国で生まれたとする説があれば、インドやチベットで生まれたとする説もある。
子供の玩具として生まれたという説があれば、占いの道具として生まれたという説もある。
そして日本における発祥も曖昧である。
発祥の説の一つに、矢掛町の生んだ吉備真備が奈良時代に遣唐使として持ち帰った説がある。
囲碁発祥の地で生まれた矢掛鶯は幼い頃から囲碁を嗜み、相手の手を深く読むことで、誰よりも深い思考力を身に着けた。
十手先二十手先を読み切る深みを。
新たな技を考え続けられるほど深みを。
「底が見えたな」
「しま……!」
が、赤鬼の底なしの知識欲の前では、その深さも足りなかった。
刀を受け止めた赤鬼が、矢掛鶯を殴り飛ばした。
ところで、奈良時代に吉備真備が囲碁を持ち帰ったという説は誤っている可能性が高い。
何故なら、六三六年の隋書・倭国伝にも、七〇一年の大宝律令・僧尼令にも、日本人が囲碁を扱う記述が残っているのだから。




