第10話 久米南町
全身に走る痛み。
脳が揺れ、平衡感覚を失いながらも、久米南歌然は立ち上がった。
音のない世界で、揺れる視界を頼りに餓鬼を探す。
餓鬼は、容赦なく追撃に向かう。。
大きく口を開けて笑い、まっすぐ久米南歌然の方へと走る。
「やれ、困ったな……」
久米南歌然は声を出すことを諦め、代わりに懐から筆を取り出した。
震える手で、短冊に文字を書く。
一文字一文字丁寧に。
心を込めて。
祈りを込めて。
久米南歌然の眼前に迫り、ひねりつぶすために手を大きく上げた餓鬼に対し、久米南歌然は短冊を見せた。
南無阿弥陀仏。
唱えるだけが念仏ではない。
言葉だけが伝える手段ではない。
文字もまた、念仏である。
久米南歌然には聞こえないが、餓鬼は声にならない声を上げて、後ろへひっくり返った。
大きな音と、揺れる大地。
痛みで両手両足をバタバタと振り回し、周囲の木々が巻き込まれて倒れていく。
「木々の修復を、しなければなりませんね。戦いが終わった後、西粟倉の村長にお力添えをお願いしましょうか」
久米南歌然は、服の土汚れをはたいて落とし、短冊を持ったまま餓鬼へと近づく。
平衡感覚も、徐々に取り戻していく。
上下左右に暴れる餓鬼の脚を優雅にかわしつつ、餓鬼の顔がある場所へと辿り着いた。
「聞こえないでしょうが、最後にもう一度祈りましょう。南無阿弥陀仏」
念仏を唱えると同時に、久米南歌然は餓鬼の眼前に短冊を差し出した。
瞬間、久米南歌然の視界が黒く塗りつぶされた。
餓鬼の姿も、光も捉えられない世界で、ただ手に持った短冊の感触だけが残っていた。
「これは……ぐうっ!?」
音も光もなくなった世界で、久米南歌然は腹部への強い衝撃とともに、再び宙を舞った。
先と違うのは、音も光もないが故、いつどこへ叩きつけられるかわからないことだ。
受け身などとれるはずもなく、久米南歌然は全身を強打した。
意識を飛ばすことはなかったのが、幸いだ。
「やられましたね。しかし」
もしも久米南歌然の意識が飛べば、そして餓鬼がそれに気づけば、餓鬼は互いの視力を戻して久米南歌然に止めを刺しに来ただろう。
しかし、久米南歌然の意識があれば、視力と聴力を戻すのは得策ではない、
聴力が戻れば、口で念仏を唱えられる。
視力が戻れば、短冊で念仏を唱えられる。
視力であろうと聴力であろうと、戻せば利があるのは久米南歌然だ。
久米南歌然は、吹き飛ばされてなお握りしめていた短冊を握り直す。
そして、見えぬ目と聞こえぬ耳に神経を注ぐ。
いずれかが戻った瞬間、念仏を唱えるために。
しかし、いくら待てどども、その機会は来なかった。
(おかしい。いくら鬼とは言え、視力も聴力も失った状態で、私を見つけることができるとは思えぬが)
餓鬼が戻さない理由も、すぐにわかった。
大地が、何度も何度も揺れ始めた。
短期の、離散的な揺れ。
餓鬼は、見えず聞こえずのまま、ひたすらに暴れ続けた。
周囲にある物をすべて破壊すれば、いつかは久米南歌然も倒せるだろうと言うしらみつぶし策。
速やかに倒すという観点での合理性で言えば、落第もいいところだ。
久米南歌然からすれば、振動から遠くへ逃げればいいだけである。
が、久米南歌然は逃げなかった。
餓鬼の行動は、久米南歌然にとって一つの最悪の未来に辿り着き得るものだった。
即ち、誕生寺の損傷。
止めろ、と叫んだはずの久米南歌然の口からは、何一つ音が出ない。
見ざる。
聞かざる。
言わざる。
今、餓鬼の全ての能力が発動した。
何も見えない。
何も聞こえない。
何も話せない。
おのれ、と思わず発した怒りの言葉も、当然言葉にならない。
久米南歌然は、大地の揺れから餓鬼のいる方向を概ね把握することはできている。
しかし、近づいたところで振り回す腕を躱すことはできない。
久米南歌然には、大気の揺れから四方八方に動く腕を正確に把握することはできなかった。
手も足も出ぬ状況。
久米南歌然は筆と短冊を仕舞い、目を閉じ、祈った。
仏ではなく、神に。
――久米南歌然は一層耳を澄まし、言葉を口にする。
聴覚が奪われた直後、話すことが奪われる前に呼んでいた神に。
あの時、久米南歌然の口にした言葉は、久米南歌然の耳にも餓鬼の耳にも届くことなく空に消えた。
しかし、神には届いていた。
とっきりさまには届いていた。
誕生寺の北東。
時切稲荷神社。
時切稲荷神社は、とっきりさまが住まう社。
とっきりさまに、「○月○日までに○○を見つけてください」と時を決めてお祈りすると、その日までになくしたものが出てくるのだ。
久米南歌然は願っていた。
可能な限り早く、失われた感覚を見つけてください、と。
「失くした物は、これか?」
静寂の世界に、とっきりさまの声が響く。
久米南歌然だけでなく、餓鬼にまで。
聴力を奪っているにもかかわらず聞こえる声に、餓鬼は驚き、動きを止める。
久米南歌然と餓鬼に、全てが戻った、
音が。
光が。
言葉が。
風や木々、動物が発する全ての情報が、久米南歌然と餓鬼の中に入ってくる。
久米南歌然は両手を合わせ、祈り、念じた。
「南無阿弥陀仏」
先程まで停止していた餓鬼の耳は、深呼吸をするように音を拾った。
「もんんんんもあああああ!?」
餓鬼の体は崩壊した。
手が落ち、頭が落ち、全身が消滅して消えていく。
邪悪な魂は、邪悪な体ごと浄土へ導かれた。
「来世では、清らかな魂として生まれんことを」
久米南町では、仏と神が共存する。
誕生寺と時切稲荷神社は、別々の場所に存在する。
しかし、誕生寺においても、時切稲荷神社の御朱印を受けられる。
誕生寺では、仏と神が共存する。
仏と神を前にして、餓鬼の勝利など最初からなかったのだ。
「少し、疲れましたね」
久米南歌然は誕生寺に被害がないことと、その周囲の被害状況を確認した後、誕生寺の縁側へと座る。
そして、筆と短冊を取り出し、一句を詠む。
自然の音を聞き、自然を見て、川柳を詠めるという当たり前を噛みしめながら。




