7.宇宙線研究室
横浜市北部の丘陵地にある横浜国際大学の宇宙線研究室は、敷地の中で標高が一番高い場所にある。
昼間は屋上に乱立するアンテナが目印だったが、深夜の大学は明かりも消え、赤く点滅している複数の
航空標識だけが頼りだった。
新聞社前で香帆を載せて、研究所へと向かう車内では、香帆が新聞社での出来事と、他に仕入れた
情報を忠道に伝えた。
「あの冷静沈着な編集長まで、理性を無くすなんて、一体何が起きているの?」
「警察でも無差別殺傷事件が起きた事実だけは積みあがっているが、原因や背景なんて何一つ掴めて
ないんだ。だから俺も学の情報を聞いてみたい」
「私も同じだわ。何だか特ダネになる予感がするわ」
二人は笑った。
「でも何もなかったら今頃は、講演会と飲み会の疲れで寝ている時間なのに、一体今日は何なの?」
「確かに。こんなに長い一日は初めてだよ」
どんな事件が起きても、必ず犯人には動機があり、事件の全容を究明するプロセスが存在する。
しかし無差別殺傷事件が広いエリアで同時に発生し、尚且つ、逮捕された被疑者達全員が、犯行を
覚えていないなんて前例がなかった。
忠道はエントランスに車を止めながら、学の情報に期待した。
二人は研究棟の五階にある宇宙線研究室の扉の前に立ち、壁に設けられた呼び出しボタンを押した。
非常灯で照らされた長い通路の中で学の研究室だけが窓から明かりが漏れ、中から人の声が聞こえた。
「何人か残っているみたい」
「研究者は没頭すると昼も夜も関係ないからな」
昔、学から何か新たな発見があると、一週間は研究室に籠っていると聞いた事を思い出した。
入口の扉が開き、学が顔を出した。
「二人一緒で良かった。さあ、こっちだ」
学は白衣を翻しながら、先頭を切って大型モニターの前に立った。
「昔、オープンキャンパスに来てくれたときに、宇宙線研究所では、宇宙から飛んでくる粒子や放射線を
宇宙線と言って、地上の複数地点に設置した検出器でモニターしていると説明したけど覚えている?」
「覚えているわ」
香帆は微笑んだが、忠道は首を捻った。
「まあ、これを見たら分かるよ。じゃ映してくれ」
学はモニターの前に座っていた助手に合図すると、大型モニターに関東六県の地図が映し出され、
網の目状に青い点が輝いた。
「この青い点は宇宙線の検出器が設置されている場所で、関東平野には約千カ所が市役所や学校の屋上に
設置され、本日十九時五十五分に観測史上、初めて極高エネルギーの宇宙線の飛来を観測出来たんだ。
ではその場所を点滅させるよ」
学の指図で青い点の三分の二程が、一斉に点滅し始めた。
「そしてこの画面に、無差別殺傷事件が発生した場所を赤い点で重ねるよ」
地図上の青い点滅に、赤い点が重なって点滅を始めた。横浜から広がった点滅は、神奈川県から東京に
かけて広がり、そして埼玉県や千葉県へと大きく広がっていった。
「一体、これはどういうこと?」
香帆が目を丸くして学に訊いた。
「そう、見てもらった通り、地上に宇宙線が降り注いだ事実と、無差別殺傷事件が発生した場所と時間を
重ねたら、ほぼ一致したんだ。宇宙線が飛来した時間が十九時五十五分で、無差別殺傷事件の発生が
十九時五十八分から二十時過ぎに集中しているんだ。この三分差の意味は見当もつかないが、観測点が
ない場所で起こったものもあるので、実際、どの位の宇宙線が降り注いだのかはシュミレーション
している所だよ」
「ということは、宇宙線が運悪く身体に直撃した人が、何らかの影響を受けて理性が無くなって
狂暴化し、他人に危害を加えたということ?」
「そういうことだね」
「でも宇宙線は普段でも降り注いでいると言っていたでしょう。それと今回のとはどう違うの?」
「通常は勉強机のサイズに、一秒間で百四十個の微弱な宇宙線が降り注いでいるが、たまに
極高エネルギーの粒子が百平方キロの範囲に一個くらい飛来することがあるんだ。百平方キロメートル
と言ってもピンとこないだろう。例えば山手線の内側が六三平方キロメートル位だから、それよりも
大きい範囲だね。その山手線の内側に一個の極高エネルギーの宇宙線が降っても、人に当たる確率は
殆ど無いけど、今回は、極高エネルギーの粒子が畳一畳程の観測点で二、三個降り注いだんだ」
「畳一畳で二、三個だと当然、人に当たるよな」
忠道が唸った。
「太陽の光を浴びると日焼けするだろう。それは紫外線が人間の皮膚にダメージを与えているんだ。
その他にも、エックス線、ガンマ線、陽子、電子、ニュートリノなどがあるが、殆どが大気を通過する
ときに吸収されて、地上に降り注ぐときは人体を通過しても害はないと言われている。しかしまれに
電子装置の誤作動を発生させているので、同様に人間の脳を通過して、人を狂暴化させる影響を与えた
のではと推測される。それに、極高エネルギーが観測されていない地域では、無差別殺傷事件は
起きていない事実からも、可能性は極めて高いと言える」
「要するに、極高エネルギーの宇宙線が一度に降り注いだので、運悪く当たった人が、脳に影響を受けて
理性を失い狂暴化したということね」
香帆の要約を聞いても、忠道は目を白黒させながら口を開いた。
「悪意の塊が空から降ってきて、人の脳に悪さして無差別殺傷事件を引き起こしたというのは何となく
分かるが、やった被疑者がそれを覚えていないのはなぜだ?」
「忠道が言う通り、悪意が人の脳を支配して行動したから、その間のことは本人の記憶には残っていない
という事かもね」
忠道と学はお互いの顔をじっと見つめていた。
「悪意と簡単に言うけど、それは悪意を持った意識体ということ?」
「そうだね。我々の常識では考えられない生命体かも……」
学の真顔に誰も冗談は返せない。
「それなら事件が起きた後に、悪意を持った生命体は脳から抜け出したのか?」
忠通の言葉に、香帆は眼を見開いて固まった。
「ちょっと待って、何か大事な事、忘れているわ」
香帆は苛立って頭を抱え、天井を見上げた。
「今日は長い一日だったからな……」
「コーヒーでも飲んで一息入れよう。リラックスすれば思い出すさ」
学の指示で助手がカップに入れたホットコーヒーを運んできた。
学と忠通は礼を言ってカップを受け取った。
香帆も手を伸ばしてカップを取ろうとしたとき、あっと声を上げた。
「白い湯気!」
「そりゃ、入れたてのホットコーヒーだから湯気が出るのは当たり前だろう」
「違うの……思い出したわ。私が電車で撮影した映像を学にも送っていたよね。今、映せる?」
「ああ、パソコンに落としといたから見られるよ」
学は自分の机からノートパソコンを持ってくると、壁のモニターに接続して再生した。
「忠通が被疑者を逮捕したあたりをよく見ていて!」
映像は犯人を背負い投げして腕を捩じ上げて、被疑者のベルトを外して縛る所で、「ここよ!」と
香帆が声を上げた。
「白い綿帽子みたいなものが出てない?」
「確かに何か白いものが抜け出した様だな。もう一回、スローで再生してくれないか」
学が助手に指図すると、すぐさま十秒程戻してコマ送りで映像が再生された。
そこには忠通に取り押さえられた被疑者の頭部から、何か白いものがゆっくりと抜け出していた。
そして宙に漂いながら、後方へと流れて画面から外れた。
「このとき忠通は何か気づいたことがあるか?」
学が訊いた。
「犯人の拘束に集中していたから、綿帽子が抜け出たなど、気づかなかったな。只、それまで凄い力で
抵抗していたのに、ベルトで縛った途端に犯人の力が抜けて、抵抗しなくなったのが、諦めが早いなと
感じた位かな」
「それは白いものが抜け出したタイミングと一致するな」
三人は顔を見合わせて唸った。
「この白い綿帽子はいったい何だろう?」
「湯気とか、煙の類じゃないな。冬に外で息を吐くと、白い水蒸気が広がって消えるだろう。煙草の煙は
上に登って四散するよな。でもこの犯人から抜け出した塊は、丁度、犯人の耳の大きさと同じだから、
ゴルフボール位の白い綿帽子が、大きさはそのままで、車両の後方に遠ざかっているから、我々が
知っている自然現象の常識外のものだな」
忠通の説明を聞いていた香帆が、大型モニターの横のホワイトボードへと近づいた。
「状況を整理するために、書いても良いかな」
香帆は置いてあった黒ペンで、左側から文字を書き始めた。
宇宙線が降り注ぐ→ 人に当たる→ 理性を失い狂暴化→ 無差別殺傷事件を起こす→ 逮捕されて
拘束される→ 白い綿帽子が抜け出す→ 被疑者は事情聴取で記憶がないと主張する
「この一連の流れを見ると、普通の人が理性を失い狂暴化するということは、人にぶつかった宇宙線自体
が、知能を持っていて、人の意識というか脳を支配して、宿主の身体を使って他人に危害を加えたという
事だよね。電子機器の誤動作レベルなら、歩いている人に宇宙線が当たったら平衡感覚を失って倒れる
とか、気を失ったりする程度だと思うから、脳を乗っ取って人に危害を加えたということは、人の
意思決定領域から始まり、神経細胞や手足を動かす運動系、そして視覚や聴覚といった五感まで掌握した
ことになるわ」
香帆の説明を聞いて、学が立ち上がった。
「現象を並べると、まっとうな説明に聞こえるけど、そんな人の脳を支配してコントロール出来る生物
なんて、この地球上には存在しないよ。宇宙から飛来した未知のものとしか、説明がつかないよ」
「細かい説明は省略して、悪意を持った宇宙線が人にぶつかって無差別殺傷事件を引き起こした。
そして拘束されたら、宿主から抜け出して消えた。だから逮捕された犯人は、記憶がないと主張したと
捜査本部で報告しても、お偉いさんたちは誰も信じないな……」
忠通は厳しい顔で香帆に視線を送った。
「私が編集長に報告しても、何馬鹿な事言っているのだ! と罵られるのが落ちだわ」
三人は難しい顔で沈黙した。
「今は、京急線の事件の映像だけで推測したから、他の現場も同様に白い綿帽子が抜け出すシーンが
確認出来たら、信じて貰えるのでは……」
「そうだな、状況証拠を積み上げていくしかないな」
「それじゃあ、家に居る妹の愛に頼んで、ネットに投稿された映像を探して貰うわ」
香帆はスマホを取り出し、愛に電話を掛けた。
「映像だけじゃなく、あの抜け出した白い綿帽子自体を捕まえられたら、確実な証拠になるよね」
「確かにそうだな。ゴルフボール程度の大きさなら、口の広い瓶にでも入りそうだから、あとは蓋付きで
密閉できれば、研究機関に持ち込んで分析することが出来るな。例えば薬品を入れる瓶とか、何か
使えそうな瓶はここには置いてない?」
「手分けして探そう」
学の声掛けで、研究室に残っていたスタッフ達が部屋を飛び出して、五分程で戻ってきた。
テーブルには大きさの違う三つの瓶が並べられた。
「薬品の瓶と梅干しをつける瓶だと、蓋が別だから密閉が難しそうだ。このパスタ用の瓶なら、金具で
固定出来るから使えそうだな」
「確かにこれなら密閉できるね。問題は今、中に入っているパスタをどうするかだ……」
そのとき忠道のお腹がグウと鳴った。
「腹減ったな」
「確かに。飲み会で食べた以降、何も口に入れてないからな」
「お腹空いたから、全部茹でて夜食にしましょう」
香帆と学が部屋を出て、給湯室へ向かうと、一人残った忠道は、大型モニターの前に立ち、点滅する
光を眺めた。
学の説明を思い出して、大気圏に突入して四散する光の雨を脳裏に描いた。その一つの光が夜空から
真っすぐに落ち、京急線を走る電車の天井を突き抜けて、先頭車両に立っていた男の頭部を直撃した。
そして豹変した男は、目についた消火器を手に取って、頭上へと持ち上げ凶行に至った。
イメージは沸いたが、宇宙線が電車の天井を突き抜けたら、人体も突き抜けるよな……と新たな疑問が
沸いてきた。
どう考えても宇宙から飛来したものが人体に憑依し、人を操る事など、常識では考えられない事
だった。犯罪を立証するため、証拠集めに日々靴底をすり減らしている刑事の経験でも、立証する
道筋が見えなかった。
傷害事件や窃盗事件なら、過去から積み上げられた捜査手法が通用するが、今回の同時多発の無差別
殺傷事件では、逮捕した実行犯の背後に扇動した何者かが居るのでは……と推測の域を出ない状態では、
合同捜査本部でも手を焼いているに違いない。
今は事実を拾い集めるしかないな……と悟り、忠道は冷めたコーヒーを飲み干した。
「出来たわよ」
香帆は小皿が載った盆を持ち、続いて学が大きなフライパンを両手で抱えて現れた。
「冷蔵庫に残っていた食材で作ったから、カルボナーラもどきだけど、許してね」
おいしそうな匂いに引き寄せられるように、残っていた研究員達も集まってきた。
小皿に取り分けられたパスタを食べながら、忠道は新たに沸いた疑問点を投げかけてみた。
研究員たちは夜食を頬張りながらも、真剣な眼差しで忠道の疑問点を聞いていた。
そして一人の若手の研究員が口火を切った。
「宇宙線が大気圏に突入すると、大気中の原子核に反応して分裂、四散して、地上に降り注ぐので、
地上に到達するときも、かなりのスピードだと思います。しかし電車の屋根に当たった瞬間、速度が
大幅に低下して、電車の天井を通り抜け、中に居た人の頭部に着地したと思われます。宇宙線自体が、
どのような成分か分りませんが、物理的にはあり得ると思います。如何でしょうか」
「私も同意見だな。ある時点で速度がゼロになり、最初に触れたものに定着したというか、運悪く、
それが人であれば寄生したのだと思う」
学は研究員たちを見回した。
「寄生ということは、それは生き物ですか?」
「多分、我々が知る生き物ではなく、強いて言うなら、悪意を持った意識体かな」
学の説明に研究員たちは目を見開いた。
「それは是非、抜け出した白い綿帽子を確保して、何者なのか分析してみたいですね。分析は
バイオセーフティレベル3以上の研究所でないと手に負えなさそうですね」
若手の研究員は難しい顔をした。
「バイオセーフティレベル4だと国立感染症研究所の村山庁舎だけだよな」
「自衛隊の朝霞駐屯地にも新しく設置されたと聞きましたよ」
「それなら自衛隊の化学防護隊が出動すれば、当然、朝霞駐屯地で調査しますね」
「推測だけど、宿主を抜け出した綿帽子が彷徨って、通りがかりの人に憑依したら、また別の無差別殺傷
事件を引き起こすかもしれないな」
忠道の言葉に一瞬、場が凍り付いた。
「確かにあり得るわ。逃げ出した綿帽子は逃がさないように捕獲しなきゃ」
「簡単に捕まるかどうか分からないが、とりあえず、このパスタの瓶を貸して貰うよ」
忠道はテーブルに置かれた瓶をショルダーバックに収めた。
「それじゃ特ダネは聞かせて貰ったので、そろそろ撤収しよう」
忠道が香帆に声を掛けた。
「教えて貰った情報は、公開してもいい?」
「勿論だよ。但し、出所は横浜国際大学の宇宙線研究所と書いといてくれよな」
「分かったわ。ついでにモニターの写真撮っていい?」
「いいけど、後で動画にして送っとくよ」
「助かるわ」
香帆と学が親指を立てて微笑みあった。
それは生徒会時代、イベントが上手く終わったときに交わした成功の合図だった。
「まだ事件は解決していないから、俺は親指立てられないなぁ」
忠道が悲しげに呟く。
「大丈夫よ。三人で力を合わせれば、なんでも解決するわ」
香帆のボジティブな発言に、忠道と学は静かに頷いた。
「公開するなら、逃げ出した綿帽子を見つけたら、決して触れずに密閉できる瓶があれば捕獲して警察に
連絡するようにと書いた方が良いわね」
「一般人が犯人を取り押さえて、綿帽子が抜け出したら、警察官が来るまで待っていると逃げられて
しまうからな……」
「被害を拡大させないためにも、チャンスがあれば確保すべきだな」
「じゃ、最終的に記事は上司がチェックして、ボツになるかもしれないけど、綿帽子の確保も含めて
記事を書いてみるわ」
三人は同時に右手を差し出し、親指を立て微笑んだ。
「今回も必ず上手くいくわ」
「おう!」
三人はグータッチで願いを共有した。




