4.京浜急行車内殺傷事件
帰り道、久しぶりに三人で乗った京浜急行の各停浦賀行き。
酔いが廻った香帆は、忠通の腕に掴まっていた。
身体を寄せ合うのは何年ぶりだろう。
忠道は記憶を辿ったが、思い出せない。
発車のアナウンスの後、動き出した電車は、ありふれたモーター音だった。
「あれ? 歌う電車じゃないの?」
少し赤ら顔の香帆が聞いた。
「昔、乗っていたドレミファインバーターの1000系は数年前に運行終了だよ」
残念そうに学が答える。
「そうか、時代は変わっていくんだな」
三人は学生の頃、いつも乗っていた先頭車両のドア横に立ち、顔を見合わせた。
中生を片手に熱弁する香帆のフリーになりたい理由が、発行部数が減り続ける新聞に未来は無く、
会社の方針通りの記事を書くのにも耐えられず、もっと自由に真実を追求したいというジャーナリストの
熱意だった。
皆、共感して頷き、そうだよな……良いんじゃないか……と肯定するだけで、気の利いた言葉は誰も
返せなかった。
「ねえ忠通、今日は来てくれて有難う。所であの約束はいつ果たしてくれるの?」
突然の質問に――約束って何? と心の中で呟き、忠通は眼を白黒させた。
学の顔を見ても首を傾げるだけだった。
そのとき視界の隅に、運転席のガラス窓に向かって、消火器を振りおろす男の姿が見えた。
ガッシャンと窓ガラスが割れて破片が飛び散り、振り返った運転士の頭部に、消火器があたり、
鈍い音が響いた。
忠通は、「ごめん!」 と一声掛けて、香帆の腕を解いた。
その瞬間、忠通は男との間合いを詰め、消火器を持ち上げた男の腕を掴んだ。
悲鳴と乱れた靴音を連れて、乗客たちが一斉に後方へと逃げ出す。
香帆が急いで取り出したカメラのモニターには、背負い投げで床に叩きつけられる男の歪んだ顔が
記録された。
そして流れる様に腕が捻られ、取り押さえられた。
そのとき香帆は、男の頭部から白い綿帽子の様なモノが浮かび上がり、後方へ流れていくのを
不思議に思った。
「お前、何やっているんだ! 現行犯逮捕だ!」
忠通の声に、後方で拍手が沸き上がる。安堵する空気の中、停車する駅が窓の外で流れる様に通り
過ぎると、拍手が悲鳴に変わった。
「学、電車を止めるんだ!」
忠通は手錠を取り出そうと腰に手を廻したが、いつもの場所に手錠のホルダーが無い。
非番か……と嘆きながら、徐に男の腰からベルトを抜くと、後ろ手にして、手首を縛り上げた。
学は割れた窓から運転台へと身を乗り出し、手を伸ばして操作レバーを押してニュートラルに戻した。
そして惰性走行の中、前方に駅のホームが見えた。
「丁度、駅に止められそうだ!」
学は割れた窓を乗り越えて運転台に入り、扉の鍵を開けた。
香帆が駆け寄り、床に倒れた運転士に声を掛けたが応答はなく、床に血だまりが広がっていた。
香帆はハンカチを取り出して後頭部の傷口を押さえた。
学が操作レバーを奥に倒して徐々にブレーキを掛けると、六両編成の各駅停車は上大岡駅ホームの
停止位置にピタリと止まった。
学は運転扉の窓を開けて、「救急車を呼んで下さい!」と駆け寄る駅員に叫んだ。
扉が開き、乗客たちがホームへと飛び出すと、後方から車掌と一人の男が駆け付けた。
「私は医者です。代わりましょう」
初老の医者は香帆と入れ替わり応急処置を始めた。
忠通は男を立たせてホームへと導くと駅員達に囲まれて出口へと向かった。
駅前の交番に連れて行こうと改札を出ると、人々が逃げ惑い、数人は座り込んで、通路の端では
警官達が女を取り押さえていた。
「一体何が起きているの?」
香帆はカメラを取り出し、すぐさま惨劇を記録した。
忠通は駅前交番で手錠を手に入れると、ベルトを解いて手錠を掛けた。
そして警察無線でパトカーを要請したが、緊急指令室の返答は、110番の緊急通報が殺到し、
暫く待つようにとの指示だった。
警察官が出払った交番で、犯人を椅子に座らせて三人で囲んだ。
「何故、電車の運転士を襲ったんだ?」
忠通が尋問した。
「私は……そんなことしていません。電車に乗って家に帰ろうとしていただけです」
男は怯えた表情で忠通の顔を見上げた。後ろ手に手錠を嵌めた手が小刻みに震えている。
「何を言っているんだ 消火器で運転士に殴りかかったのを大勢が目撃しているんだ」
忠通が男の顔を覗き込むと、今にも泣き出しそうな表情だ。どう見ても凶悪犯には見えない。
「ちゃんと証拠があるわ」
香帆がカメラを取り出しモニターを再生した。
「消火器を持っているのは貴方でしょう」
「確かに私です。でも何も記憶がありません」
「記憶が無いって、どういう事?」
香帆は眼を丸くして、三人は顔を合わせた。
「魔が差したとでも言うのか?」
「たとえ魔が差しても記憶はあるのが普通だよな……」
そのとき学のスマホが鳴動すると、学は交番の外に出て会話し、直ぐ戻ってきた。
「異常な観測データーが記録されたらしいので、これから研究所に行ってくるわ」
「何が起きているか分からないから、気を付けるんだぞ」
「分かった」
学の後姿を見送ると、香帆も社に戻り上司に報告すると言って、交番を後にした。
忠通が男の住所や氏名、連絡先を聞くと、男は躊躇うことなく全て答えた。
その様子に本当にこいつが凶悪犯なのか? と疑問が湧いてきた。
メモを取りながら、運転士に危害を加えたのを見て、忠通が現行犯逮捕してから、男の身体をずっと
拘束してきたので、犯人を間違える筈はない。
香帆の映像があるから立件は出来るよな……と自分に言い聞かせた。
暫くすると交通機動隊のワンボックスが到着し、駅で拘束した女と共に、運転士を襲った男も
横浜署へと連行した。




