2.悪夢_無差別殺傷事件
その日、忠通は関内駅前交番で朝の立番をしていた。
顔なじみの住人達と挨拶を交わしているとき、イヤホンから無線指令が聞こえた。
「緊急、緊急、刃物を持った男が暴れているとの第一報、関内駅北、横浜新聞社前の歩道付近……」
と場所が聞こえた所で、交番から上司の横山巡査部長が飛び出した。
「うちが一番近い、行くぞ!」
声を掛けて目の前を走り抜ける。
忠道は咄嗟に、派出所の奥に掛けてあった刺股を手に取り、後を追った。
忠通は走りながらイヤホンの指令に集中した。
「……怪我人多数……」 と聞こえたとき、背筋に寒気が走った。
現場は香帆が勤めている新聞社前だ。
今朝は二時間程前に、黒いパンプスの足音を響かせ、手を振りながら交番前を通り過ぎた香帆の
笑顔が浮かんだ。
歩道をワンブロック走り、次の交差点を右に曲がろうとしたとき、前方から悲鳴と共に逃げてくる
人々の波が押し寄せてきた。
「男が刃物を振り回しています!」
「早く止めてくれ!」
人々の声に、忠通の正義感が燃え上がった。俺の足は速いんだ! と意気込んだが、上司との距離は
縮まらない。先を走る上司の背中が、車道に出て人々を迂回し、銀行の角を曲がった。
姿が消えた瞬間、何か赤いものが宙を飛び散るのが見えた。
――しまった!
忠通は追いつけなかった自責の念を飲み込み、刺股を片手に持ちながら、腰の警棒を掴んだ。
そして覚悟を決めて、大回りに角を曲がった。
そこに見えたのは歩道に倒れた横山巡査部長の上に、馬乗りになった男が、腰の拳銃を奪おうとして
いる最悪な場面だった。
「止めろ!」
忠通は叫びながら、走る勢いのまま、男の胸部に刺股を突きだした。
ドンと手に伝わる衝撃と共に、ウオッっと声が上がり、男は歩道に転がった。
そして立ち上がった男の右手には、サバイバルナイフが握られていた。
上司は首に右手を当て、左手は腹部を押さえていた。腰の拳銃は奪われていない。
男の後方には、歩道に倒れた数人の被害者達が視界に入った。
早く男を確保して上司と被害者達を助けなければ……
焦りの中、逃げ惑う人々が多く拳銃は使えない。
結論を出す間もなく、男のサバイバルナイフが殺意と共に、忠通に向かって弧を描いた。
ガキン、ガキンと必死に刺股で応戦するが、Uの字型の杖では、犯人を確保することは到底出来ない。
警察学校で、必ず二人一組で犯人に対峙すること……という教官の声が空しく蘇る。
パトカーのサイレンの音が四方から聞こえるが、犯人と対峙している正義の味方は、いつまで
経っても自分一人だ。
――応援はまだか!
心の中の叫びは誰にも届かない。
「ナイフを捨てろ!」
警察学校での訓練を思い出して警告したものの、従う素振りは全くない。
サバイバルナイフが何度も空を切り、刺股に当たる度に金属音が響いた。
そして一瞬止まった刃先の向こうに男の顔が見えた。
青白い肌に返り血を浴び、微笑みながら逸らす視線は、対話すら拒絶しているように見えた。
――こいつは別世界の敵と対峙しているのか?
押され気味に二、三歩後ずさりしながら、「お前は誰と戦っているんだ?」と尋ねた。
「悪魔は殺せ……」
「俺は警察官だ、悪魔じゃないぞ」
男の視線がゆっくりと忠通の顔を捉えた。
そして視線が交わった瞬間、人の温もりや優しさは微塵もなく、ただ凍り付いた恐怖が、瞳の奥に
沈んでいた。
――人が怖いから……人を傷つけるのか?
そう思ったとき、足元で何かが動き、男の脛にガツンと当たった。
ウッと声を上げて、男はその場に倒れ込み、歩道に警棒が転がった。
それは上司が残った力を振り絞って、犯人の脛に打撃を加えたのだ。
――今だ!
忠通は倒れた男を刺股で地面に押さえつけ、ナイフを握る右手に警棒を振り下ろした。
鈍い音が響き、凶器は回転しながら歩道横の植え込みに飛び込んだ。
そして取り押さえようと刺股を放し、男の右腕を掴んで捩じろうとした、その瞬間、男の左手が急に
動き、キラリと何かが光った。
咄嗟に身を捩じったが、左肩と胸部に痛みが走る。
忠通は男の腕を離し、二、三歩下がって距離をとった。
腕と胸部の制服が切られて、生ぬるいものがシャツの下を流れるのを感じた。
男の左手には別の凶器が握られていた。
男は笑いながら徐に立ち上がると、忠通にナイフを突き出した。
仰け反り刃先を避けたが、姿勢を崩して忠通は転倒した。
警棒が手から抜けて、無常にも歩道を転がり遠ざかる。
男はつかさず忠通に迫り、腹部を蹴ろうと足を上げた。
そのとき避けようとする忠通の右手に何かが触れた。
忠通は咄嗟にそれを掴み、スローモーションのように迫る男の脛に振り下ろした。
ゴキッと骨が砕ける音が響く。
それは先輩の手から転げ落ちた警棒だった。
男は悲鳴を上げながら脛を押さえて歩道に転がった。
忠通は立ち上がると上司の警棒で、犯人のナイフを叩き落とし、肩に打撃を加えた。
そして右手を捩じり上げ、うつ伏せの状態にして男に跨った。
股の下で暴れる男を押さえつけながら手錠を取りだし、男の右手に嵌めた。
「十時三十五分、現行犯!」
忠通は肩で息をしながら、視線を感じて顔を上げた。
そこには倒れた横山巡査部長が頭を少し起こし、親指を立てて微笑む顔があった。
そしてゆっくりと親指の力が抜け、握手する手となり、腕枕で眠る様に目を閉じた。
――死んでないよな、気を失っただけだ……と自分に言い聞かせていたとき、犯人の抵抗する力が
抜けたのを感じた。
ふと地面を見ると、男の身体の下から鮮血が広がっていた。
唖然とする中、複数の靴音が駆け寄ってきた。
「良くやった!」
「よし、後は任せろ!」
促されるまま馬乗りから降り、地面に犯人を仰向けにすると、犯人のシャツが赤く染まっていた。
――嘘だろう!
忠通は急に力が抜けて歩道に座り込むと、黒いパンプスが駆け寄ってきた。
「傷口を見せて」
香帆はスカーフを外して手際良く腕を縛って止血し、ハンカチを取り出し胸の傷口を押さえた。
「無事で良かった……私も切られそうになったけど、躓いて転んだら逃げられたわ」
「怪我はないか?」
「肘を擦りむいただけ。でも犯人を逮捕出来て良かったわ」
「先輩の脛打ちが無かったら負けていたよ」
忠通の苦笑いに、香帆は言葉を返すこともなく、湧き出す涙を指で拭った。
救急隊が駆け付けて、倒れた横山巡査部長を囲み救命処置を始めた。
そして別の救急隊が到着し、犯人のシャツを開くと小型ナイフの柄が腹部から突き出ているのが
見えた。
救急隊員はナイフを抜かずに止血の処置を施し、男をストレッチャーに載せて運んで行った。
救急車が次々と到着し、被害者達が処置を受けては運ばれていく。
立ち上がろうとする忠通に、「動いちゃ駄目!」と香帆が肩を押さえた。
「こっちにも怪我人が居ます!」
香帆の泣きそうな声は、通りの反対側に到着したばかりの救急車に届いた。
すぐさま救急隊員が駆け寄り、忠通の傷口を確認して応急処置を施した。
「横になって下さい!」
救急隊員の声に従いストレッチャーに横たわると、顔見知りの警察官達が取り囲み、良くやった!
と忠道を称えた。
――来るのが遅いよ! と返したかったが、制帽の間に見える青空がやけに綺麗に見えて、言葉を
飲み込んだ。
ストレッチャーが動き出すと、遠巻きに囲んでいた人々から拍手が沸き起こった。
いつも夢に面白い映像が出てくると、真夜中に飛び起きてノートに走り書きしたものをベースに物語を書いています。今回は、電車の中で飛来した宇宙線が人に当たり、運転士を消火器で殴るシーンが出て、自分が止める夢を見ました。それを膨らませて書いた物語です。




