1.口約束
「おれは……カホのことを……いっしょうまもる!」
繰り返し見る夢は、幼稚園年長の記憶だ。
園からの帰り道、家が近所の幼馴染三人はいつも一緒に帰っていた。
先頭を歩く香帆の前に突然、リードを引きずった大型犬が現れた。
香帆の悲鳴と共に、後ろ足で立ち上がった犬の腹が見えた。
股間には桃色の棒のような武器を挟んでいた。
「カホにちかづくな!」
三歩後ろを歩いていた忠道は、その腹めがけて全力で頭突きを放った。
毛深い腹の感触と獣の匂い。
キャイン、キャインと遠ざかっていく犬の鳴き声。香帆は地面に倒れた忠道を両手で抱きしめた。
手は握ったことがあったが、抱きしめられたのは初めてだった。
何ともいえない甘い匂いと幸せな気持ちが、今でもリアルに蘇る。
「まなぶ、せんせいよんできて!」
「おう!」
走り去る学の靴が見えた。
「ただみち、たすけてくれてありがとう。でもしなないで……」
香帆の温かい涙が頬に零れた。
――泣いているのか?
そして忠道は何故か死んだふりをした。
――この幸せが永遠に続きますように。
「だたみち、しなないで! わたしのためにおきて!」
強く抱きしめられて息が出来ない。
空気を吸おうと薄目で顔を上げたとき、香帆の唇が目の前にあった。
そして永遠の眠りを覚ます王子様のキスではなく、女神様のキス。
やわらかい感触で溶けてしまいそうになる。おもわず目を開けて香帆の顔を見た。
泣き顔が瞬時に微笑みに変わり、香帆の笑顔に涙が輝いて見えた。
――やっぱり女神様だ。
「おれは……カホのことを……いっしょうまもる!」
女神様の微笑みが小さく頷く。
口約束が結ばれた瞬間、数えきれない大人の足が近づいてきた。
そして忠道の宣言は、その場に居た全員が耳にしていた。
それ以来、その愛の宣言は忠道の代名詞のように語り継がれた。
小、中と進むうちに、いつのまにか忠道と香帆は婚約したことになり、両家の親も含めて公認の
仲となった。
久しぶりに見た夢。忠道の額には脂汗が浮かんでいた。
――人殺しの俺には……。
忠道は額の汗を拭き、ベッドから起き上がった。
部屋にはテレビも無く、窓際にはベンチプレスとバーベルやダンベルが整頓して置いてある。
クロゼットを開け、Tシャツを脱ぐと上腕から胸にかけて、直線の切創が鏡に映った。
この傷を付けた相手は、もうこの世にはいない。
腹立たしさと虚しさを隠す様に、忠通はワイシャツのボタンを急いで締めた。
海が見下ろせる母校に三人は呼ばれた。
ハンドルを握る世利忠道は、長い坂道に差し掛かるとアクセルをゆっくり踏み込んだ。
次々と追い越す自転車の後輩たちは、涼しい顔でペダルを漕いでいる。
「見たか、立ち乗りせずに坂道上っているぞ」
忠通は助手席の天海学に視線を送った。
「あれは電動アシスト付き自転車だよ。俺らの時代は五段変速で、学校に着く頃は冬でも汗だくだった
から、時代は変わるな」
「坂道は自転車から下りないで、上りきれと言われて、三年間よく頑張ったな」
「その話は野球部だけよ」
後席から小花香帆の冷ややかな声。忠通の脳裏に香帆の呆れ顔が浮かんだ。
「嘘だろう……。高一初日の朝、坂道に差し掛かった時、男子は自転車を下りずに上りきるんだと、
上級生が歩道で叫んでいたから、てっきり校則だと……」
忠通は素直だった高校生の自分に眩暈を感じた。
後席に座る女神は、大人になって更に輝きが増し、近寄りがたい美人になっていた。
婚約の話もいつのまにか話題に上がらず、ため口で話している事が唯一の救いだった。
「そんなの校則に書いてある訳ないでしょう」
香帆の冷たい眼差しがバックミラー越しに映った。
「三年間、一度も下りずに坂道を上ったのは何だったんだ……」
「でも苦行のお陰で足腰が鍛えられて、文化部でも体育祭のリレーでアンカーやれたから、無駄じゃ
なかったのでは」
学の発言に、忠通の気持ちが少し上向きになった。
「確かにそうだ」
二人は失笑した。
笑ったのは久しぶりだった。
高校時代はこの坂道を上る度に、光に満ち溢れた天国へと続く坂道だと思っていたが、
視界に見える景色は、どんよりと灰色に沈んでいた。
幼稚園時代に手を握り、抱きしめられてキスまで経験すると、香帆の事を一生守るという約束が
呪縛となった。
守るということは、一生護衛すること。そんな勘違いのまま、忠道は香帆を守る権力を得るため、
警察官になっていた。
そしてあの事件の日から住む世界が変わった。
香帆はキラキラと輝く光の世界。そして忠道は漆黒の闇の世界。
足元に地面はなく、罪の重さで底なしの闇に沈み続ける感覚は、どんなにあがいても浮き上がる
術はなかった。
三人が乗った車は、校門を抜けて駐車場のアプローチへと進んだ。
車を降りて振り返ると、遠くに広がっていた海の景色は、立ち並ぶ建物に半分隠れていた。
三人は横一列に並び、記憶の中の海を静かに重ねていた。
「随分、削られちゃったね」
香帆は呟きながら一眼レフのシャッター音を響かせた。
忠道は香帆の隣で静かに海を見つめていた。
いつもの忠道なら、ここでポジティブな台詞で場を盛り上げようとするのに、沈黙の中、
潮の香りだけが静かに通り過ぎた。
学が不思議そうな顔で忠道の顔を眺め、発言しないことを確認すると姿勢を正した。
「でも記憶の中の海は、今でもキラキラと輝いているよ」
「学の言う通りだわ。さあ、行くわよ」
香帆のリーダーシップは一ミリも変わっていなかった。
高校時代、面倒を掛けた学年主任が校長となり、働く卒業生の声を聴かせて欲しいと、
香帆に声を掛けたのが始まりだった。
香帆が生徒会長で、忠道が副会長、そして学が書記を務めて高校生活を謳歌した。
よく来てくれたなと、校長がエントランスで三人を迎えた。
十二年ぶりに再会した校長の頭髪は白髪交じりで薄くなり、刻まれた顔の皺が、時の経過を
物語っていた。
案内された校長室のソファーは昔と同じだった。
校長が一人席に座り、左右に並ぶソファーの片方に香帆が座り、向かい合って忠通と学が座った。
その席は現役時代、問題が起きる度に、前校長の所へ相談に来たときと同じ場所だった。
「小花君は相変わらず輝いているな」
「やだ、先生。もうすっかり疲れたおばさんよ。ところで『働く卒業生の声を聴く会』って
いつから始めたのですか?」
「今年からだよ。近頃の生徒たちは、公務員や普通の会社員になりたいという大人しい奴らばかりで、
残りの生徒達は希望する職業すらなく、大学に入って仕事を見つけるなどと、お気楽でね。
君たち三人は現役時代から、なりたい職業の話をして、実現させるための大学を決めたよな。
やはり高校生の頃から、もっと職業を意識すべきだよ。だから君たち三人がどのような思いで
仕事を選んでいたのか、そして実現に向けてどんな努力をしたのかを聞かせて欲しい」
「そうですか。私は子供の頃からジャーナリストの仕事に就きたいと思い、新聞記者になったから
何とか話せると思いますが、二人はどう?」
香帆の視線を受けて、学が切り出した。
「自分は幼い頃から星や星座に興味があって、宇宙を探求したいという想いから、宇宙を研究する
学部がある大学に進みました。それで宇宙線研究所に就職できたので、ストーリーとしては
分かりやすく話せると思います。忠通も警察官だから大丈夫だな」
学の無茶ぶりに忠通は困り顔で頭を掻いた。
「俺が警察官になったのは、持て余す正義感を生かす仕事は何かを考えて、弁護士や裁判官になれる
器じゃないから、残るは警察官か……という短絡的な考えだから、このまま話すのはまずそうだな。
それに正直、将来がある若者たちに警察官は勧められないよ」
後ろ向きの発言に校長は苦笑いしたが、急に目を丸くした。
「思い出したよ。世利君は幼いときに小花君を一生守るって約束したんだよな。愛する人を守る事が
正義感で、それを実現するために警察官になったのだから、とても素晴らしいことだよ。
それに実際、あの無差別殺傷事件のときに世利君が犯人を取り押さえて、その場にいた小花君を
守ったのだろう。それこそ自慢できるストーリーじゃないか」
興奮気味に話す校長に、忠通はにこりともせず、香帆の顔を見詰めていた。
時間を掛けて封印した筈の記憶が突然、忠道の脳裏を駆け巡った。
震え出した膝頭を両手で押さえつける。香帆は忠通の心痛が手に取る様にわかり、言葉を継いだ。
「私はあの場所に居合わせて、犯人逮捕のスクープ写真が撮れて、翌日の朝刊一面に掲載されました。
でも、もし忠通が来てくれなかったら、私も被害者の一人になっていたかもしれないと後になって
気づき、二、三日は震えが止まりませんでした。あの写真のお陰で、文化部だった私が、
希望していた報道部に異動させて貰えたのです。忠通は昔の約束通りに私を守り、
そして願いも叶えてくれて、心から感謝しています」
「それにあの写真で報道写真賞を受賞したんだよな」
学が自慢げに微笑んだ。
「確か新聞の切り抜きがとってあるよ」
校長が立ち上がってキャビネットを開いた。
「先生、もうその話はやめましょう」
忠通の悲しげな物言いに、校長は掴んだファイルを、そっと元に戻した。
「あの事件で忠通はつらい時期があったんだよな」
学は神妙な顔で話しかけた。
「あの写真を見ると思い出すんだ。一生忘れない光景を……」
忠通は香帆と視線を合わせながら言葉を探した。
「香帆の撮った写真は素晴らしいよ。でもあの写真に写っていない所で、交番の上司が犯人に切られて、
瀕死な状態で横たわっていたんだ。結局、救急車で搬送されたけど、助からなかった……」
「確かにそれは辛すぎるな」
校長は神妙な顔で腕を組んだ。
「忠道、何度も言っているけど、貴方の責任じゃなく、全てあの犯人の責任よ。貴方は負傷しながらも
凶悪犯を一人で逮捕し、大勢の人々の命を守ったのよ」
「分かっているさ。でもね、時間が経っても……押さえつけていた犯人の命が途切れたときの、
手の感触がどうしても消えないんだ……」
香帆は忠道が心に受けた傷の深さに唇を噛んだ。




