塔の竜
彼は、塔から世界を眺めていた。かつて浮遊島に行くために、あるいは近づく為に人々が立てた塔はこの国で一番高い。尤も、此処から浮遊島に行けた人間は誰一人としていないのであるが。
見下ろす世界は美しいものだと思う。風は柔らかく彼の頬を抜けていった。
見下ろす街はさすが王都だけあって活気が溢れているように見える。それを見ながら彼は軽く何処か嬉しそうに顔を綻ばせた。それはまるで花が開く様に。
『今日のご飯は何かな』
呟いて瞼に浮かんだ愛しい彼女を思い出す。仕事が忙しいので最近はすれ違うばかりだけれど、夕食だけは必ず作ってくれる。優しい彼女だ。もう結婚して何年になるだろうか。数年経ては落ち着くものだというけれど、今だ会うたびに切なくなるのは何故だろうか。
見るたびに目を奪われる。
会いたい――な。会いたい。と息がつまりそうになる。結局の所『仕事』が終わらなければ帰る事が出来ないのが悔しいけれども。
「こんなところに居たのか。って――墓場かなんかか? ここ」
ふと聞こえた声に彼はゆっくりとその水色の双眸を向けた。そこに居たのは小柄な青年だ。血のような赤い右目が爛々と輝いていたが、その左目は怪我でもしたのだろう。黒い眼帯で隠されている。さらに特徴的なのはその右手で、どす黒く――まるで炭になった様な――何か禍々しい空気を纏っていた。
誰だったっけ。と考えて。『友達』なのだと思い出す。最近かおかしいのは些か思考と記憶が濁っていることだろうか。まぁ、些細な事だ。
「ああ。ええと――」
「ユスリハだろ」
かつりと音を立ててユスリハは不機嫌を隠そうともせず彼の隣に立った。少しくすんだ赤い髪が風に揺れている。
そうだったかも――。
「そうだったね。ね。君も此処から世界を見てみなよ。――綺麗だろう?」
「きれい、ねぇ?」
そうは思わないのか。不思議だと彼は小首を傾げる。もしかしたら、感性が違うのだろうか。ユスリハが。
「君にはどう見えるの」
地上へと視線を落としたユスリハは『は』と嘲笑する様に息を零した。ユスリハには分からないのだろうか。こんなに世界は綺麗なのに。遠くに見える山には雪がうっすらと積もっていた。
「なぁ、竜。お前には、あの煙が何に見える?」
指さされた先には家から煙が出ている様子だった。普通に考えれば竈を使っている――そんな煙なのだろうが。違うのだろうか。
軽く小首を傾げる彼に『は』ともう一度零す。
「……うっわ。完全に壊れてるなぁ。――竜。『これ』が美しく見えるなんて。ついでに聞くけど、お前はこの後何処に帰るんだ?」
「――? 家に帰るけれど……」
もしかして残業とかだろうか。困るのだが。『また』彼女に会えないのは困る。皆普通に帰るのにいつもなぜか自身だけ残業を言い渡されるのだ。魔法が使えないのに――。
そもそも不思議だ。ここは魔法士の詰め所の一つを兼ねている。その中で自分が採用されたこと自体おかしい。そもそもとして去年まで違う所で働いていた気がするのだけれど。その辺も記憶があやふやだ。
「ああ、そうだったな。愛しくて可愛らしいおねーさんが待ってるんだったか?」
可愛いか。――アイツ。とか訝し気に呟くが彼には可愛いのだ。それでいいだろう。関係はなかった。彼は悪気なく、笑う。
「うん。今度飯食べに来るかい?」
「いや。死にたくないから」
「美味しいのにね」
どこが。と顔を顰められた。
前に来たことだあっただろうかと考えて――答えは『分からない』だ。でもあるのだろう。と結論を出した。
「んな事より。『本物』に会いたくは? 偽物というか触れもしない想像上のじゃ、なくてさ」
「本物?」
小首を傾げる。彼女のことだろうか。でも毎日一度は合っている。それは多分――想像上ではなくて。温かな手の温もりを手袋の上から感じるのだ。
彼は手袋をした自身の手に目を映す。まるで記憶を辿っている様に見えた。
「エリアル・リッチ――会わせてやろうか?」
「エリアル――」
その名に騒めくものを感じて彼はゆっくりと顔をあげる。そう言えばあの人の名前は何だろうか。よく、思い出せない。
「それにはお前の目を貰っていいかな? いいよな。お前の所為でここにいるんだから一つぐらいどうってことないだろ? どうせ修復出来るんだしさ」
「なぜ?」
魔法士の詰め所で彼らが何を行っているのか詳しくは知らない。ただ、実験をしているのだと同僚の人間に聞いた気がする。非合法で。
魔法士、事務職――自身だ――を覗いて居るのは『実験体』と呼ばれる人間だけだ。その人間は死ぬまで搾取され、自由など何もない。
可哀相だな。と平坦に思う。そして恐らく目の前の友人もその実験体の一人なのだろう。
少し考えて、やはり可哀相だな。としか思わないのは冷たいのだろうかと彼は傷つく。自身がそんな人間だとは思っていなかったから。
そもそもその要求がおかしな事に彼は気づいていなかったのではあるが。
「此処を出たいんだよ。ついでにまた魔法も使いたいしな。魔法でここに閉じ込めたこと後悔させてやるんだ。絶対潰す」
喜々として目が輝いていた。目標は復讐――に見える。復讐が楽しいかは彼には分からなかったのだけれども。
「その対価が、その――エリアルに会わせてくれると?」
「お前の目だ。目に映ったものは繋がるんだろ? だったら見てきてやるよ。まぁ、あのおねーさんも今頃別の男と結婚して――」
刹那――鈍い音がしてユスリハ横の壁に穴が開いた。丁度頭くらいの大きさだろうか。パリパリとした氷が辺りにこびり付いていた。
軋むような音が聞こえるかの様にぎこちない動作でユスリハは恐る恐る彼を見る。ユスリハにしては珍しく、顔に恐怖が滲んでいた。
「こ、殺す気かよぅ」
言われても――と彼は困った様な顔を浮かべた。全く持って彼には何が起きたか分からないからだ。大体物理で壁に穴お開ける力もないし、魔法なんて使えるわけがない。大体誰もが持つ宝石自体が身体に埋め込まれていないのだ。使う使わない以前の話で、使う資格を満たしていない。
ただ、心の中で何か弾けたような感覚があったのは確かだけれども。
「ぼ、僕がしたわけではないよ」
「無意識かよ」
じっとりとした目を数秒向けてからユスリハはごほんと態勢を立て直すためにごほんと息を吐いていた。
「まぁ、とりあえず交渉成立だよね」
いや。何処をどう交渉は成立したのだろうか。承諾した覚えは何処にもなかった。無かったのだ。けれどいつの間にか血濡れた眼球が自身の手に乗っていて思わず『ひっ』と息を飲んでいた。頬に生温かいものが滴るのは血だ。頬を伝ってぼたりと地面を濡らしていく。
その血に目を遣ってユスリハに問うしか無かった。何しろ、自分でも分からないのだから。いつの間に目を抉りだしていたのかも。居たミスが消えているというのはどう言う事なのだろうか。
白かった筈の手袋は赤に染まり切っていた。
他人が見たら卒倒するような絵面である。
「ツーか。迷いもなく、目ん玉取り出すの何なの。さすがに僕でもドン引きするぞ。こわっ」
「どうして?」
軽く眼帯をユスリハが弾くとそれは風に乗って空に消えていく。その下の皮膚は手と同様に炭化していて、目には黒い義眼がはめ込まれている。
それを慣れた手つきで取り出し、なぜか投げ捨てる。軽く指先で先ほど取り出された生々しい眼球を突いている。そのたびにプルンとゼリー状に揺れた。
「知らないよ。でも、お前の中に『まだ』手離していないやつが居るんだろ――諦められない。執着って奴?」
魔法が対して使えないだけで少しは使えるのだろう。ふわりと眼球を浮かすと自身の洞にそれを埋め込んでいく。まるで目が――目の洞が眼球を飲み込んでいるみたいだ。そう思えた。
忌避感に眉を顰める。
少しの時間。馴染むために目を閉じていたが、漸くゆっくりと開いていく。片方は鮮やかな赤。片方は薄い水色――。
「さて。いい感じだな。生命維持以外の魔法も使える。うーん少し押さえるのが辛いけど――」
よくこんなの制御してたな。アイツ。と不満げに付け加える。もちろん誰の事か何の話か分からなかったし、この状況に狼狽えるばかりだ。
普通。魔法で在っても他人の目が馴染むとは思えなかった。
「ユスリハ……」
「どうだよ? この目を通して世界は見える?」
そう言って、ユスリハは両眼を外に向けた。その横顔が何処か楽しげなのは何故だろうか。頬にふわりと生ぬるい風が抜けていく。それが彼には何処か不安に思えた。
「どう見える? 竜」
ユスリハは先ほどの質問をそのまま彼に返していた。
「……僕は」
綺麗だと思っていた。空も、山も。街並みも。空気も――。だけれど視界から入ってくるものではなく、脳裏から流れてくるものに、人の視界を通して流れてくるものに、彼は小さく呻いて膝を付いていた。
綺麗だと思っていたものは何処にもない。
薄暗い世界が広がり、床に落ちている物に恐れおののく。それは言いようのない恐怖だった。その恐怖とは対照的に明るく、にっこりと笑うユスリハは口を開いていた。
まるで歌うように。
「これが現実。いい加減受け入れたほうがいいと思うよ」
その横顔を彼は今までとは違う確かな意思の宿った目で見つめていた。それをユスリハはついぞ気付く事は無い。




