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第96話 四角い夜空で

看護師さんが、


「すぐ戻ってくるね」


と言って、ももを抱き上げた。


「ももがおしっこしたがってるから」


そう言って、少し離れた場所へ歩いていった。


彼女が私の顔を覗き込む。


「あなた……


まだ、自分じゃない自分が来そう?」


私は黙っていた。


彼女が続ける。


「“もういい”って思ってしまう、あの感じ」


小さく息を吸った。


「正直に言ってほしい」


「あなたは?」


私は聞き返した。


「ない」


迷いなく言った。


「まったくない」


「私も……ないと思うけど」


「思うけど?」


「……」


彼女はしばらく私を見ていた。


そして静かに言った。


「私ね、病院との約束があるの」


私は黙って聞いていた。


「看護師さんの許可がないと、外出できないことになってる」


少し笑って続ける。


「一応、あざの治療ってことになってるけど……


本当は避難させてもらってる立場だから」


「何が言いたいの?」


すると彼女は真剣な顔になった。


「あなたを、まだひとりにしたくない」


胸が少し苦しくなった。


「はっきり言うね」


私の目を見て言った。


「あなたの突発的な“もういい”が怖い」


私は何も言えなかった。


「あの看護師さんにも、多分分からない。


でも私は分かる。


あの恐ろしい瞬間が」


波の音が静かに聞こえる。


「しばらく病院のあの部屋で、一緒に寝泊まりしよう。


そうしよう。ね?」


本気だった。


本当に私のことを心配してくれている。


私は、そう見えているんだ。


でも不思議と嫌ではなかった。


彼女の鋭さに逆らう理由はない。


「うん。


看護師さんが許可してくれたら、そうする」


「よかった」


彼女の表情が、ふっとやわらいだ。


その時――


「聞こえてるよ、全部」


看護師さんが笑いながら戻ってきた。


ももを下ろしながら言う。


「何の問題もないよ。


あの部屋、ほとんど私の部屋みたいなものだから」


そして優しく続けた。


「でも、ご両親にはちゃんと連絡しないとね」


私は思った。


もし心配してくれるのが彼女じゃなかったら、


私はこんなに素直になれていなかったと思う。


でも、両親のことを言われた瞬間――


母の顔が浮かんだ。


昨日、部屋へ帰っていない。


もし父が電話していたら、心配しているかもしれない。


今日、病院から電話しよう。


看護師さんが言った。


「あー、お腹すいた。


帰ろうか?」


     *


病院へ戻ると、中庭の公衆電話から家へ電話した。


「もしもし、私です」


「ああ、どうだ、調子は?」


父の声だった。


「大丈夫。


ちゃんと食べてる。


お母さんは?」


「大丈夫だ。


検査の結果も、そんなに悪くないらしい」


私は胸を撫で下ろした。


でも父は続けた。


「ただ、もう少し入院することになった」


「なんで?」


思わず大きな声が出た。


「なんで帰れないの?」


「まだ少しふらつきがあるからな。


家で転んで怪我すると危ないって先生が言ってくれてる」


少し笑った声だった。


「心配するな」


「お父さんは?」


「ずっと病院だよ。


今は着替え取りに帰っただけ」


胸が苦しくなった。


「疲れてない?」


「大丈夫、大丈夫」


少し間が空いた。


「お前、携帯ないんだろ。


今度から、お父さんの携帯にかけてこい」


そして少し優しく言った。


「お母さん、お前と話したがってるから」


「……分かった」


電話を切った。


少し、安心した。


私には守らなければならない両親がいる。


自殺なんかするはずない。


でも――


あの“もういい”だけは、甘く見ちゃいけない。


母のためにも、


父のためにも、


そして私自身のためにも。


私は中庭から見える四角い夜空を見上げた。


星が綺麗だった。


でも、まだ――


「神様」


その言葉は、私の口からは出てこなかった。

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