第94話 傷跡
しばらく、夕陽を眺めていた。
まだ私の中には、聞きたいことが泉みたいに湧いてくる。
私は小さな声で、囁くように聞いた。
「神様を信じるって、どういうこと?
神様の何を信じるの?
神様がいるってことを信じる……ってこと?」
彼女はすぐには答えなかった。
でも、その表情を見ていると、真正面から答えてくれようとしているのが伝わってくる。
「キリスト教の先生とか牧師さんに聞いたら、罪とか十字架の話になると思うけど……」
少し考えてから言った。
「私は……神の愛を信じてる」
「愛……?」
「うん。
神様が愛してくれていること」
私は黙った。
そして、どうしても聞きたくなった。
「じゃあ、どうして痛みとか苦しみが起こるの?
愛してくれてるなら、守ってくれるはずじゃない?」
言いにくかった。
でも、止められなかった。
「ちょっと言いにくいけど……」
私は言葉を飲み込む。
それでも聞いてしまった。
「あなた、屋上から飛び降りようとするくらい苦しかったんじゃないの?」
言うべきじゃなかった。
そう思った。
ふたりとも黙り込む。
大粒の涙が、彼女の目から落ちた。
「苦しかった……」
声が震えている。
「死にたいくらい苦しかった……
本当に……」
「ごめん……。
でも、それでどうして神様が愛してくれてるって思えるの?
そこが私には分からない」
彼女は左足の包帯の上に、そっと手を置いた。
するとカールが静かに近寄ってきた。
包帯に鼻を近づけて、小さくクークーと鳴いている。
彼女は涙を拭った。
そして包帯を止めていた小さな金属のフックを外す。
端から丁寧に丸めるようにして、ゆっくりほどいていった。
包帯の下には、赤茶色の消毒液が染み込んだ大きなガーゼがあった。
そのガーゼも静かに外していく。
私は息を呑んだ。
四か所――
カールの歯が食い込んだ跡が残っていた。
固まった血が傷口を塞いでいる。
強く、必死に噛みついた跡だった。
彼女は傷を見つめながら言った。
「この傷跡、私、一生大切にする」
涙を拭った。
「これ……私には神様の愛にしか思えないの」
私は何も言えなかった。
「カールだけじゃない。
ももも、私に気づいてくれた。
看護師さんもいた。
老人のノートもあった。
それに――」
私を見た。
「私に見せたいって思ってくれた、あなたもいた」
私は戸惑った。
自分がその中に入っていたことに。
「全部、全部……
神様が私を守ってくれていた証拠だと思えるの」
言葉が出てこない。
質問の泉が、枯れていた。
私は黙ったまま、ガーゼを傷跡に戻した。
そして包帯を巻いていく。
最後に小さな金属のフックを留める。
元通りになった。
「まだ痛む?」
「うん、ちょっとね」
でも、彼女は笑わなかった。
優しい目をしていた。
「でもね……
私、痛みも消えないでほしいと思ってる」
「え……?」
「傷跡だけじゃなくて、痛みも。
痛みって、いつか消えてしまうでしょ」
少し海を見た。
「だから今、ちゃんと味わって覚えておきたいの」
神の愛だから――
そして彼女が言った。
「私ね、決めてることがあるの」
「なに?」
「この包帯とガーゼ、新しいのに取り替える時、もらって帰る」
「どうするの?」
彼女は迷わず言った。
「額に入れて、部屋に飾る。
宝物にするの」
私は思った。
確かに彼女は、生まれ変わっている。
その目は、透き通るほど綺麗だった。




